一話完結

文字数 1,768文字


「ビールってのはさぁ、歳を重ねるたびに美味しくなるってもんだ」
 好奇心でビールの泡を手ですくい取って、口に塗りたくってサンタクロースって笑いながら遊んだときに、その泡が口の中に入ってしまい、あまりの苦さに思わず泣きだしたら、父が涙を拭いて、頭を撫でながらそう言った。
「苦いのは若さの証拠さ。まだ慣れてないんだ。苦さが美味しく感じたり、愛せるようになったりしたら、やっと大人になれるもんだ」
 父の言葉は、当時の私には何も響いてこなかった。吐きだしたい苦みが全身を震わせていて、そんな苦くて嫌いなものを毎日のように飲んでいる父が理解できなかった。あのビールの苦さを体験してから、父の口から漂ってくるお酒の匂いを嗅いだら、遠ざかるようになった。そんな幼少期だった。

 私が二十歳になったときに、すでに成人した友達といっしょにコンビニで缶ビールを買って、いっしょに飲んだ。乾杯とお互いの缶ビールをぶつけたときは、自分もついに大人になったというワクワクばかりが溢れていた。口に近づけたらビールの苦い匂いを嗅いだ。思わず口元から離してしまった。
 なに怖がってんのよって、ケタケタ笑いながらお酒をあおっている友達を見ると、情けなさと恥ずかしさが私を襲った。どうしてお酒を避けたのか、私には分からなかった。もう幼かった私の思い出も、父の言葉も忘れていた。ただお酒の匂いに慣れなかった。飲まないの?こんなに美味しいのに。そう言ってから、ゴクゴクと気持ちよさそうに飲んでいる友達に倣って、私も息を止めながら一気に缶ビールを傾けた。大量に流れてくるビールが喉を通過する前に、わたしは地面にすべてを吐いた。ペチャっと液体が足元に溜まった。あーあ、一気に飲むから、ほら、次からゆっくり飲んで慣れていけばいいから、と友達は呆れながらも、優しく私の背中をさすった。地面に落ちたビールが乾いて、その匂いが私の鼻を刺したとき、お酒なんか飲むものかと決意した。お酒を飲む友達をほんのり憎らしく思った。

 ビールはそれから飲むことはなかった。飲み会のときも、わたしはレモンサワーを頼んで、ビールを誘われても、言い訳をしてやんわりと断ってきた。正月になって、帰省したときに、父が私にビールを注いだ。私は飲まない、飲みたくないと言った。驚いたような顔を父がしたと思ったら、すぐにほほ笑んで、
「ビールなんて不味い方がいいさ。まだお前には早いだろうし」
 そう言って、私のために注いだビールをグイッと飲んだ。
「おれの飲むビールは美味しい。今も、美味しい」
 まだ早いって言われたことが悔しかった。成人したときに美味しそうに飲んでいた友達と、あれから何十年も経った今の私。まだ早いのか。私はムキになったように父のビールを奪って、グッと飲んだ。吐きだしたい苦さだった。それを飲みこんで、口元に残ったビールを拭って、父に返したら、父はどこか寂しそうな顔をしていた。どうしてそんな顔をしたのか、私は分からなかった。

 そんな父が亡くなった。私は独りになった。
 父の会社の人や親せきの人が色々と葬式の手配をしてくれた。父は周りから愛されていたんだなと、そのときになって初めて気づいた。笑っている遺影の父の姿を見て、私にそんな笑顔を見せてくれたのはいつだったか。そんなことをぼんやりと考えていた。
 葬儀の会食で、私は座って周りを呆然と眺めているだけだった。そんなとき、これをどうぞ、と空いたグラスに白髪のおじいさんがビールを注いでくれた。私はどうもと会釈をし、注がれたビールを眺めた。金色に泡立ったビール。その時、幼少期に私に告げた父の言葉を思い出した。
「ビールってのはさぁ、歳を重ねるたびに美味しくなるってもんだ」
 私はコップを握って、ビールを口にした。苦くて吐きたい味だった。だけど優しい味だった。
「美味しい」
 思わず囁いた。その声はすぐに周りのガヤガヤした父の思い出を語っている声にかき消されてしまった。私は毎日のように独りでビールを飲んでいた父の姿を何度も思いだした。父の飲んだビールはどんな味だったんだろう。
 ビールを一口。甘い。また一口。辛い。また一口。苦い。涙が口元に残ったビールと混ざって、私の口に入ってきた。うんと甘い味がした。
 その味を噛みしめて、私はやっと大人になったんだと感じた。
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