西島 絵蘭

文字数 3,948文字

 部屋の中にいても体中の水分が全身から出ていこうとするような日差し。私の家は古いもんだから屋根なんか薄くって、お日様に熱せられた屋根がヒーターみたいに私の部屋をあっためる。窓全開にしても吹き抜けるのは温風。ちっとも涼しくない。こんな日に部屋にいるのは無理。だから私は喫茶店へ行く。カフェって感じじゃなくて喫茶店って呼びたいお店。傘さしてく。雨傘。この太陽の恨みみたいな日差しの中を黒い傘さして歩くっていうのもなかなか狂ってるけど、どうせ誰にも見られるわけじゃないから大丈夫。家から喫茶店まで、田んぼしかないから。見られててもたぶんカエルとかそんなのぐらい。カエルにはわからないよね、お日様の下を傘さして歩く奇妙さは。

 やっとたどり着いてお店の前で傘を畳む。触れないぐらいあっつい。あっつ、あっつ、って言いながら真っ黒い傘を畳んでる私。だいぶ狂ってる。でも世の中狂ってない人なんている? みんな狂ってるくせに狂ってないような顔をしてるだけ。私は嘘ついてない分だけいくらかマシ。そんなことを思いながら傘立てを探したけどもちろんなかった。雨の日だけ出すってことね。傘さしてくる人は雨の日にしかいないって、どうしてそんな風に思えるのかしら。いつなんどき傘さしてくる人がいないとも限らないんだから常に出しとけばいいでしょ、傘立て。

 私はなんかよくわからないことに腹を立てながらドアを押し開けて入った。ドアベルのチーンって音に合わせてコーヒーの香りの風がぶわって私の顔を過ぎてった。風はさらっとしてておろしたてのタオルで撫でられてるみたいだった。
「いらっしゃいませ」って店員さんが言った。私の方に向いて「いらっしゃいませ」っていいながら同時に座ってるお客さんにもなんか言って、あれしてこれして、みたいにテキパキって音がしそうな動き方をしてた。けっこうお客さん入ってる。今日は暑いからかな。この店はクーラー入ってないからキンキンに涼しくはないけど、でも入ってくる風が涼しい。どうしてかな。私の部屋と同じ町とは思えないぐらい涼しい。たぶん屋根ね。ここは平屋の建物だけど、私の部屋の屋根みたいにペラペラじゃないんだ。だから太陽は同じように頑張ってるけど、ここの屋根はそれを中まで通さないで踏ん張ってるってこと。うちの屋根ももう少し抵抗してほしいよね。

 店員さんが私のほうに歩いてきたから、私はカウンターの真ん中の席を指さした。手前の端にはおじさんが座ってて、一番奥にはお兄さんが座ってたから、私は真ん中。こういう状況でどっちかに寄って座ると、男の人っていうのは意識するみたいね。おじさん寄りに座るとおじさん声かけてきそうだし、お兄さん寄りに座るとお兄さんはビンビンに私を意識しながら何も言わない、みたいな空気出たりする。そういうの、めんどくさい。

 この店員さんはちょっと前から見かける子だけど、よく気づく。私が自分の座りたい席を指さすと軽く頷いて黙ってそこで接客してくれる。こっちが黙ってるとカウンターかテーブルかって希望を聞いてくる。だから私はさっと全体を見て、座りたい席を決めて、なんか言われる前に指さす。私はそこへ座りますよって、宣言する。たぶんもう私のことも覚えてて、あの子はきっと私がどこかを指さすまで声かけないようにしてくれてる。

 座るとメニュー持ってきてくれたけど、私はそれを受け取らずに水出しコーヒーを頼んだ。喫茶店でいちばん飲むべきメニューは水出しコーヒーだよ。もちろん水出しコーヒーやってるお店だったら、っていう話。水出しコーヒーはとにかく手間がかかる。手間じゃなくて時間か。すっきりした、アイスコーヒーにいいコーヒーができる。自分ちで簡単にはできないから、お金出して飲む意味がある。お金と言えばここのコーヒー代なんて半分以上このお店そのものを楽しむための料金だけど。そう考えたらとっても安くって、もうちょっと値上げしてもいいよって気持ちになる。

 座って落ち着いたらカウンターの端っこに座ってるおじさんのしゃべってることが聞こえてきた。ちょっとチラ見する。おじさん、右の肘をカウンターについて斜めに座ってて、左手でなんだろう、アイスオレみたいな、ミルクの入ったやつのグラスをクルクル動かしてる。中の飲み物は氷が溶けてグラデーションがかかってる。肘をついたまま右手を振り回しながらしきりにしゃべってる。一人なのに盛大な独り言かと思ったら、どうも店長さんに向かって話してるっぽい。いるよね、相手が迷惑そうにしてても、ぜんぜん聞いてなくても、構わずにしゃべり続ける人。会話じゃなくて放送。このおじさんはそのタイプ。
「ティーアールエフのアクスルがよ。いいんだよあれ。こんなもん差わかんねぇだろと思ったけどよ。買ってみたらいいよあれ。気に入っちゃったからよ、サーボホーンやらスタビライザーやらもよ、全部揃えちゃうかな。そうなったらよ、やっぱビスも全部あれか、青いの」
 おじさんは呪文みたいな言葉を連発していて、それが意味を持った言葉なのかどうかもわかんない。のべつしゃべり続けてる。
「おまたせいたしました」って店員さんがコーヒー持ってきてくれた。ちょっと飲むだけでスーッと、べた付いた汗とか、べた付いたおじさんの声なんかが洗い流されてくような感じ。水出しコーヒーはほんとこのスッキリがたまらない。いいよ。おすすめ。

 お店にはなんか静かな優しい感じの音楽が流れてる。やわらかい感じ。だめだな私。音楽の感想を言うための言葉を知らなすぎる。なんていうジャンルかもわかんない。これジャズ? そういう感じのやつ。こういうとこで聴くと気持ちいいなって思うけど、自分じゃぜったい買わないよね。いいなって思うけど、だからって「これなんて曲ですか」って聞いたりはしないし、そうやって調べたいとも思わない。なんて曲でもべつにいいけどここへ来た時にはこういう音楽流れててほしい。ちょっと目を閉じて耳に集中してたら、奥の方の席でわりと大きな声でしゃべってるおじさんがいる。おじさんになると声って大きくなるのかな。もしかして耳が遠くなってきて声が大きくなるのかしら。
「曲はどんなのやってるの?」っておじさんが言った。

 おじさんと話している相手の人の声はほとんど聞こえない。やっぱおじさん声大きすぎるよ。そんなに大きな声出さなくてもその相手の人には聞こえてる。
「じゃ曲は書いてくれるやつがいるわけか」ってまた。おじさんの声しか聞こえないんだよ。
「ほんとに? ここの出身で作曲家なんているの?」
 会話の片方しか聞こえてこないけど私はヒヤッとした。ここの出身の作曲家? そんなことをちょっと思ったら決定的な一言が聞こえた。
「なんだよそのふざけた名前は」
 ふざけた名前。ふざけた名前。ふざけた名前。私の頭の中でエコーがかかったみたいになって「ふざけた名前」がこだました。この町出身のふざけた名前の作曲家? 

 それうちの兄貴だ。たぶん。肝心のそのふざけた名前は聞こえなかったけど、きっとうちの兄貴だ。でもふざけた名前って言わないでよ。兄貴のふざけてるのはペンネームだけど、私の名前はそのまんまふざけてんだよ。本名が。悪いのは全部、うちのおやじ。本人にはお父さんって呼んでるけど。外でお父さんのことを話すときはおやじって言っちゃう。おやじっぽいから。うちのおやじは車が好き。それはいいんだよ。車が好きでいいよ。存分に愛せ車を。でもさ、子どもに車の名前つけるなや。兄貴はアルファロメオからとってロメオ。だけど漢字の読みに無理があるってことになって、露明って書いてつゆあきって名前になった。いいじゃんロメオはふざけてるけどつゆあきはふざけてないからさ。なのに兄貴はペンネームをわざわざロメオにして、最近は露明って書いてロメオって読ませたりしてる。じゃあロメオでよかったしょや。

 私は本名がふざけてんだよねえ。名乗るの恥ずかしいんだよいつも。
「これなんだっけ、この車」
 カウンターでしゃべり続けてるおじさんが、目の前にあった写真を手に持って店長に聞いてる。うそでしょ。このタイミングでそういうことするの。もしかしておじさん私の頭の中見えてる? その写真に写ってる車の名前が私の名前なんだよ。
「これあれだ、コスモ?」
 違うよ。おじさん知らないのかい。祈るような気持ちで店長の顔を見上げたら店長もこっち見てた。アイコンタクト。どうする? 言わない方がいい? って聞かれてる気がした。どっちだっていいよ。どうせ私の名前は知らないだろうからさ。店長は知ってるけど。その写真に写ってる車の持ち主がうちのおやじだってことも。その車の名前が私の名前だってことも。
「それはロータスですよ」って店長がおじさんに言った。いやそういう風に避ける? 私は精一杯の「困った顔」を作って店長を見上げた。おじさんと話しながら私をチラ見した店長は一瞬眉間にしわを寄せた。

 その車はロータスのエランだよ。私の名前の絵蘭と同じ。私はこの名前のせいで学校の班決めとか係決めとか学級委員とか、選ばれまくりだった。絵蘭を選んだ、とか馬鹿みたいなことを言われてなんにでもよく選ばれた。いい迷惑だよおやじ。しかもずっとエランに乗り続けてて。絵蘭がエランを選んだとかって。馬鹿かよもう。選んだの私じゃないし。しかもエランの兄貴がロメオだよ。なにがしたいんだよおやじ。このまえ兄貴と飲んだとき、兄貴は将来子どもできたらジュリアって名前にしようかなとか言ってた。アルファロメオのジュリア。全力で止めたけど。
「リポでブラシレスにしたらえらいことになってよ」
 気づいたらおじさんの話はまた呪文に戻ってた。
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