窓の画。

文字数 5,397文字



会社員の平沢は、急性胃潰瘍で入院することになった。
病気の発症は突然だった。朝方、猛烈な腹痛と嘔吐に襲われると、全身の血が脳天に逆流するような感覚に陥った。起き上がろうとしても、身体の節々が悲鳴をあげ、目がくらむ。平沢は、このままではいかんと、ぐっと腹の下に力を込め、気合を入れると、喉元に指の第二関節まで突っ込んだ。あらゆる臓器のうごめく隆起を全身で感じ、喉元が己の身体とは思えないほどのグロテスクな音をたてると、平沢はベッドの上に吐血し、気を失った。


気づけば、病室のベッドの上にいた。
医師による診断は急性胃潰瘍とのことで、早くて三ヶ月ほどで退院できるということだった。
「過度なストレスが原因でしょう。投薬で治す方法もありますが、平沢さんの場合、まずその体と心を休める環境に自分を置いて、じっくり治される方がよいかと思いますよ」
胃にポッカリ穴が空いていたらしい。以前から下腹部近辺に違和感や鈍痛を感じたことはあったものの、まさか病に侵されていたとはー自分でも無自覚であった。

平沢のいる病室は、十畳程度で奥行きのある部屋で、ベッドは左右に二台ずつで計4つ設置されていて、平沢のベッドは病室に入って左側の窓際にあった。

入院して三日目の午後になると、会社の先輩である立花が見舞いにやってきた。
「いやあ、突然のことでびっくりしたよ」 立花は、さし入れにと持ってきた果物詰め合わせの籠と雑誌数冊をベッド脇のテーブルにどさりと置いた。ネクタイを緩めながら、額の汗をワイシャツの袖でぬぐう。
「こんな僕にもストレスはあったようです」と言って、平沢は笑った。
立花は「まあ、万事無事で何よりだよ。これなら職場のみんなも安心するだろう」と言い、カバンからタオルを取り出すと汗をぬぐった。
「…今日はずいぶんと気温が高いようですね」
「うん、湿気がなあ」と言って、立花はしかめっ面でネクタイをはずした。
「…ところで、この病室にいるのはお前だけなんだな」 
「どうやらそのようですね。僕のベッド以外は三台とも空いているみたいです」
「病院からしたら病人少なくて、商売あがったりだな」 立花はそう言うと、いたずらをした子供のように破顔した。
「しかし、病院っていうのはどこもかしこも真っ白で飾り気がないよなあ」
「確かに、殺風景ですよ。まっ白で清潔感はあるのかもしれないですけどねえ」
「ベッドは窓際だけど、景色も貧相だわ」
確かに窓際から見えるのは隣のビルの非常階段で、殺風景という他なかった。「清潔感があるのは看護婦さんだけでいいって話だよなあ。…そうだなあ、おれが対策を練ってやるよ」
「対策って…?」 
「まあ、楽しみに待っとけよ。お大事にな」と言い残すと、立花は病室を去っていった。


それから三日後の正午過ぎ、立花はまた見舞いにやってきた。薄紫の風呂敷をかかえていた。
「俺の叔父さんが、画商を営んでいてな。幾つかコレクションがあるんだけど、今一つ売れないから飾りたいみたいなんだよ」
「画ですか…。でも、病室に飾っていて買い手が見つかりますかねえ」
「叔父さん曰く、画は人に見られてこそ価値があるって言うからさ。…まあ、俺もさすがに買い手はつかんと思うけど」
「…僕が買うことになるかもしれませんね」
「頼むよ。叔父さん最近売れなくて困ってるんだ」

立花の持参した画は合わせて三枚あった。
一枚目は真っ赤な薔薇の油絵だった。二枚目は写真と見紛うほど緻密な描写の海の画。三枚目は、額一面に窓だけが描かれた平凡な画で、共にアクリル画だった。
平沢は「これでいいんじゃないかな」と、直感で三枚目の窓の画を選んだ。
「もう血を見るのは勘弁だから赤い薔薇の画はパスで。だからって、この海の画は写真みたいで面白みがない。でも、この窓の画はなんとなく…斬新ですよね。窓がある部屋に窓の画を飾るってのも何だか小洒落てる感じがしますし」
「ほう、これを選ぶとは思わなかったな。…叔父さんはこの画について何て言ってたかな…。前の二枚については熱く語ってたけど、これはあんまり…」
「でも、めずらしい画ですよね」
「うん、でも売れないらしいよ。帰り際に廃品回収にでも出す感じで渡されたし」

立花は、カバンから粘着テープ付きのフックを取り出し、平沢のベッドのちょうど後ろの壁に貼り付けると、手際良くその窓の画を立てかけた。
「手慣れたもんですね」
「叔父さんの手伝いで嫌というほどやったからな。窓際だと太陽光で画が傷むから、なるべくこっちに…」
「…治療費次第では僕が買いますからね」
「まあ、院長先生なり看護婦さんなり気に入った人がいたら、すぐ連絡くれよ。…お前が買うなら話は別だがな」と笑って言うと、立花は病室を出ていった。


病室には窓の画だけが残った。
平沢はしげしげとそれを眺めた。自分にはこういった美術品をはかる鑑賞眼というものはないから、本当の価値というものはわからない。この画を選んだのは本当にその場の適当な直感からだった。
たまにこうしてこの画を見つめて、気のまぎらわしになればいいかな…。白い壁に…白いお屋敷…白い窓枠の…白い窓…。時間は朝方かな…少し仄暗い…窓のまわりには緑の枝葉が顔をのぞかせている…窓…窓の向こうは…ない…?

「そろそろ取り替えないとまずいね」 誰かの声。振り向くと、平沢の担当医である田辺医師がいた。
「この画をですか?」
「いや、窓を」と言うと、笑った。「遊び心のある画ですね」
「…すいません。勝手に飾っちゃって」
「いえ、いいんですよ。ストレス系の疾患に不安は大敵ですから。ご自由にして下さい」

田辺医師は、まだ二十代の平沢とほぼ同い年だったので、すぐに打ち解けて話すことができた。
医師の話だと、無機質な作りの病室に閉塞感を感じ、容態を悪化させる患者は案外多いらしいとのことだった。その点で、気を紛らわすための絵画や音楽はストレスを和らげ、むしろ快復を早める効果があるとか。
「なるほど。ではストレスを感じたらこの画を見れば少しは気は晴れるかもしれませんね」
「そうですね。平沢さんの症状は比較的軽度のものなので、見れば見るほど回復するかもしれませんよ」
「でも、できたら早いところ、この窓を開けて飛び立ちたいですよ」
「ごもっともですな」
平沢は医師と示し合わしたように顔を合わせ、笑った。


それから数日、退屈な病院生活が続いた。雑誌を読んだり、パソコンをしたりしても、この余剰が満たされることはなかった。
相変わらず、病室には新たな患者が入ってくる気配はなかった。「皆、健康でいいってことだな」と、前向きに考えて、開いた雑誌に視線を落とす。この雑誌を読むのは何十回目だろうか。
人と接することが好きな平沢にとって、唯一の楽しみは決まった時間に問診に来る若い看護婦との会話だけだった。時折、会話の中で後ろの画についての意見を訊いたりもする。
「この画、どうですか。いいでしょう」
ほとんどの看護婦は「不思議な画ですねえ」と言って、微笑むだけだったが、画を飾ってくれた以上、立花の面子も立てないといけない。商品のセールスをしているような感覚だった。
その後も病院にいる職員のほとんどにこの画を売り込みはしたものの、誰も興味を示すものはいなかった。
「やっぱり少し陰気すぎるのかなあ」 平沢はこの画を選んだことを少しだけ後悔した。やはり、1・2枚目の薔薇の油絵か海の画が良かったのかもしれない。この病室に飾り気がないから―を理由に飾ったのに、肝心の画にも飾り気がないのだから無理もない。「立花さんに悪いことしちゃったなあ…」
頼めば今からでも画を交換してもらうことはできるが、余計な手間はかけたくなかった。何より平沢の病状は医師の思った以上に快復しつつあり、あと少しで退院できそうだったので、今更になって一枚の画を交換することに意味を感じなかった。


そんなある夜。平沢はなんとなく目を覚ました。
ベッドのシーツ、窓のカーテン、そして病室の白い壁。全ての白は夜の闇と月明かりに照らされ、不気味に蒼く映えていた。病人の寝息ひとつ聞こえぬ静寂に包まれた病室…。(あらためて見渡すとこんなにも見え方が違うものなんだな) 平沢は思った。
なんとなく、誰かが自分を見ている気がした。咄嗟に後ろに振り向いた。
そこにはいつも目にしている窓の画があった。ふと、ある疑問が脳裏に浮かんだ。

あの画はどうして、窓を外から描いているのだろう…
中から描いた方が希望を感じるのに…
外からだと、どこかよそよそしく、うしろめたい気持ちになる…
窓ガラスの向こうにある筈の部屋の中が見えないのも、どこか不気味でよそよそしいな…

なるほど、この暗闇の中で見ると、ガラリと印象がかわる。
平沢は、更に身をのり出して、あらためて、じっくりとその画を見据えた。

あの部屋にはどんな人が住んでいるのだろう…
住んでいるのは…たぶん…女の子だ…
髪は長い黒髪で…
白いワンピースを着ている…
裕福な家庭に育ったお嬢様だ…
でも彼女には誰にもいえない秘密がある…
父親から虐待を受けている…
それが怖くてこの部屋に閉じ籠っている…
そして彼女はある夜、決心をする…
父親を殺してしまおう…


平沢はそこで猛烈な眠気を感じ、我に返った。
この不気味な雰囲気に呑まれたのか、何とも悪趣味な想像をしてしまった。病状も好くなりつつある今、たとえイメージであっても、後ろ向きなことは思うものではない。病室のまっ白な暗闇の中、平沢は大きくあくびをすると、布団にくるまった。



その日の朝、看護婦にこの病室に新たに患者が入るとの話を聞いた。ちょうど平沢の向かいのベッドだ。
不謹慎ながら、どこか気持ちの躍るものがあった。雑誌は読み尽くしたし、パソコンも飽きた。体調もすこぶる良好で今直ぐにでも職場復帰したいぐらいだったが、医師が許さなかった。でも、話相手が増えることで少しはこの退屈を紛らわせることができるのではないか。
午後になると、看護婦に連れられ、中年男性が入ってきた。若い平沢とはだいぶ歳は離れている。
(これでは話が合わないかもしれないな) 少し残念に思ったが、思いきって挨拶をすると、病人同士のシンパシーとでも言おうか、不思議なほど会話に花が咲いた。中年男性は、心臓の病気で入退院を繰り返していて、少し前までは別の病室にいたらしい。
「最近、徐々に良くなって来ましてね。こちらに移ってきたんですよ」―男性は、年下の平沢にも礼儀正しく、嬉しそうに病状の回復を語った。「このままお互い元気に退院しましょう」―平沢は、笑いかけると、固い約束をかわした。

夜。また、平沢は目を覚ました。誰かに起こされたような感覚だった。
昨夜と同じ光景が視界に広がっていた。ただ白く重い闇がそこにあった。唯一、違うのは向かいのベッドに新たな住人がいること。耳をそばたてる。寝息は聞こえない。何度体験しても馴れないであろう不気味な静寂だった。
なんとなく、振り向いた。窓が開いていた。
(ああ、これは夢かもしれないな…)
平沢は大きくあくびをすると、布団にくるまった。


朝、病室の騒がしさで目を覚ました。
看護婦が平沢の周囲をせわしなく走りまわっている。向かいのベッドを見ると、あの男性がいない。
平沢は、ちょうど病室前の廊下を歩いていた田辺医師を呼び止めた。
「どうかしたんですか?」
「ああ、同じ病室でしたか…。担当ではないので詳しいことは分からないんですけど、今朝急激に病状が悪化したらしくて…どうやら亡くなったようです…」
「…え」―言葉を失った。昨日まであんなに元気だったのに…。信じることができなかった。
「あ…いや、不安にさせてしまったようで申し訳ない。平沢さんの病状はもう健常者と変わらないほど良好なので心配はないですよ」

その日は一日中、気持ちが落ちつかなかった。ストレスをためるとよくない。わかっていても、あの中年男性の元気な姿が脳裏をかすめる。また自分もこの病気を患ったときのように、猛烈な吐き気の末、血を吐き散らして…、最悪の場合、死んでしまうかもしれない。平沢は、身近な人間の死を目の当たりにしたショックで、すっかり意気消沈してしまった。

そして、夜がやってきた。
なかなか寝付けなかった。何度か体を入れかえながら、ようやく眠りに落ちそうになったその時―
(誰かが自分を見ている)と、感じた。
病室には昨夜と同じ静寂があった。黒い闇、蒼い白、昨夜と同じ光景があった。その時―

ゆっくりと窓が開くと…
ゆっくりした動作で…
ぬうーと…
顔のない少女の顔が…
目の前に現れた。

髪は長い黒髪で…
白いワンピースを着ている…
裕福な家庭に育ったお嬢様…
顔はない…

彼女には誰にも言えない秘密がある…
父親から虐待を受けて…
それが怖くて部屋に閉じ籠っている…
そして彼女はある夜、決心をする…
父親を殺してしまおう…

ああ、そうか…
君が殺したんだな…
でも、あの人は君の父親ではないんだ…

そうか、わかったぞ…
顔だけは描いていなかったね…
あらゆる万物には魂が宿るときく…
それが絵画ならなおさらだ…
何ということだ…
画を描いていたのは他ならぬ僕自身だったのだ…




朝、問診にやってきた田辺医師は、ベッドに臥したまま、冷たくなった平沢をみつけた。
「あんなに元気だったのにどうして…」

誰もいなくなった白い病室には、不気味で、不思議で、何の変哲もない、「窓の画」だけが残った。
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