Ⅸ.最後のランナー

文字数 878文字

 スッスッ、ハッハッ。細かく二回空気を肺に送りこみ、細かく二回に分けて息を吐く。
 冬の体育の授業は、坂道ランニングから始まる。体育教師はこれを「準備運動だ」などと宣っているが、歩いていても息が切れる斜面を、わざわざ走らせるなんて正気の沙汰ではない。
 呼吸を繰り返す度に、肺が冷たくなっていくのを感じる。肺が冷たくなるにつれ一度の呼吸で吸い込める空気の量が減っていく。
 僕は足を止め、深く呼吸をした。
「おい、大丈夫か?」
 立ち止まっているクラスメイトを見つけて、声を掛けてくれたのは、先頭を走っていたはずの生徒だ。
――ああ、もう一周差か。
 この坂道ランニングは三周でゴールだ。僕はいつも、ゴールするまでにクラスメイトの半数に追い抜かされる。今、声を掛けてくれた陸上部の彼には、なんと二周抜かされたこともある。
 息も絶え絶えに「だいじょうぶ」と返事をしたとき、彼はもう十メートルほど先を走っていた。
 そうだ、分かっている。僕を心配して声を掛けたわけではないのだ。周回遅れの生徒を追い抜くついでに、ちょっと挨拶をしていっただけ。
 善意も、悪意も、興味もない。ただの挨拶。
 走って、走って、歩いて、走って。立ち止まってはまた走って。遂に三周目も終わりが見えてきた。残り三十メートルほどとなった坂道を登りきればゴール。勿論、僕が最後のランナーだ。
 漫画やアニメならば、こういった場合、クラスメイトがゴール地点で待っていて、最後のランナーを拍手で迎えるものかもしれないが、現実にはそんな展開は用意されていない。
――残り十メートル。
 ゴール地点で待っているのは、最後のランナーが戻ってくるまで授業が始められず、機嫌が悪い体育教師が一人。
――残り三メートル。
 他の生徒はみんな藤棚の下で休んでいる。僕もここで止まってしまおうか。
――ゴール。
 体育教師は僕のゴールを見届けるや否や、ホイッスルを大きく鳴らし、藤棚の下にいた生徒を集合させる。
「よーし、それじゃあ授業を始めるぞ」
最後のランナーには休憩の時間も与えられない。それが現実だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み