11 ホッブズ『リヴァイアサン』(4)
文字数 3,673文字
みんながそれぞれの生命を守るために国家(主権者)の傘下に入ってるから、じゃない?
つまり国家(主権者)の仕事は、みんなの生命を守ることでしょ。
それがそもそもの共通善なんだから。
だから共通善を志向しない国家なんて、最初から論理矛盾してんじゃないの?
そんな国家の傘下には、誰も入らない
そのうちどれが1番いいのか、ホッブズは明言していない。
肝心なことは権限の一極集中であって、統治形態うんぬんではない、ってことだろう。
ただし、「公的な利益が私的な利益と衝突すると、大抵の場合、私的な利益を優先する」のが人の世の常だが、「君主制においては、私的な利益は公的なそれと重なる。君主の富・権力・名誉は、一に臣民の富・力・名声から生じる。というのも、臣民が貧しかったり卑しかったり、あるいは、貧窮または内紛のために敵と戦えないほど弱かったりすると、その国王は富も栄光もつかめないし、安全を確保することもできないからだ」[②:P47]とか記しているように、やや君主制を推してるのでは? と読めなくもない。ここでは、主権は1人にあったほうが(私的利益を優先することによる)内輪もめが発生しない、ってことを言ってるね。
とにかく、ホッブズは内紛が嫌いなんだよね
「・最上位の裁判権を司ること
・自らの権限によって宣戦または講和をおこなうこと
・国家が必要とするものを判断すること
・自らの良心に照らして必要と判断されるときに必要なだけ徴税と徴兵をおこなうこと
・平時と戦時を問わず、裁判官や執行官を任命すること
・どのような学説が人民の防衛・平和・利益にかなっているのか(また、反しているのか)について講ずる者を指名し、また、みずから審査すること」[②:P288]
ホッブズは主権者に権限集中させるべし、と考えているからね、その権限はすこぶる強い。
それはね、法との関係に表れてくる。
ホッブズの国家は法治国家だから、もちろん、臣民は法によって統治されるわけだが・・・・・・主権者はというと・・・・・・
法をつくるのは主権者なんだから、破りたくなったら法を変えればいい。
だとするなら、理屈上、主権者は法によって裁かれない、ということになるわけ。
もし、主権者が法によって裁かれるとするなら、主権者より法(司法)の方が上位権力になってしまい、そもそも主権者とはいえなくなるだろう、ってのがホッブズの考え。
つまり、今日(の日本)でいう国民主権じゃないわけね。
主権が国民にあるなら、トップの政治家を裁くことは論理矛盾にならない。
ここでハッキリするけど、ホッブズ的国家は国民主権ではなく、国民はむしろ主権を放棄し、それを主権者に委ねているんだね
でもね、主権者が必ずしも法に縛られないからといってデタラメに行動できるってわけじゃない。
主権者はね、まず、神の法である自然法には逆らえない。
「自然法は神の法であり、いかなる人間もいかなる国家も、それを破棄することはできない」[②:P271]という
続いて、「健全な法は次の二つの条件を兼ね備えていなければならない。第一に、人民の福利にとって必要不可欠であること。第二に、明晰であること」[②:P309]という。
つまり、法の目的は、あくまで万人が万人に敵する闘争状態を終わらせることにあるんだから、主権者の私的利害に基づいて設定されるものではない、ってこと
国家の仕事は安全管理に特化しているからね。
だとすると、金持ち1人の身を守るのと、貧乏人1人の身を守るのとでは、コストがそう変わらんでしょ、という理屈になる。
だから、受益者負担をできるだけ平等にするなら、消費税が好ましい、となる
ホッブズが論じてきたのは、いわば内発的な国家で、これを政治的国家あるいは制定された国家と呼んでいる。
国家と国家の間はね、自然法にしか縛られないわけだから、逆に侵略されることもある。
ぼくらの国家が壊滅することもある。
その場合、命を助けてもらう代わりにね、敵国に服従する、つまりは主権を放棄する形でね、内側の国家ではなく、外側の国家の臣民になる。
この外側の国家をね、ホッブズは獲得による国家と呼んで区別している。
あ、まったくの余談だけどね
[引用文献・参考文献]
・ホッブズ『リヴァイアサン(2)』角田安正訳、光文社古典新訳文庫、2018