四、
文字数 2,112文字
四、
寮へ戻ると、薄暗い沈黙が私を出迎えた。相部屋のもう一人の主はまだ帰っていない。私は額を押さえた。何と言って弁明しようか。それともただへいつくばって赦しを乞おうか。どれもその場しのぎに過ぎない浅ましい行為だと知っていながら、どうしてもそうしたい衝動に駆られた。彼に軽蔑される事は私にとって如何な残虐な拷問や凌辱よりも恐ろしかった。
服を脱いで部屋着に着替えていると、不意に部屋の扉が軋む音を聞いた。感情の平衡を失いかけていた私は思わず慄いた。するといきなり誰かに肩を抱きすくめられ、その場に固定された。いよいよもって恐怖が私の背筋を走り抜けた。
すわ強盗か、暴漢かと身を捩らせていると、ぱっと手を離されて自由になった。部屋の隅へ逃げ出して振り返ってみると、いつも見慣れている男の姿を発見した。件の弟である。
弟は大げさな私の一挙一投足を見て、声を上げて笑った。これは普段にこりと笑いもしない弟からするとかなりの珍事である。どうして彼が薄暗い部屋の中で一人、灯りもつけず佇んでいたか定かではないが、彼の無邪気な笑いに虚を突かれた私は安堵のため息も悪戯への文句も忘れていた。
彼は黙ったままでいる私を見て「どうした姉さん、早く着替えなよ」とだけ言ってソファに腰かけた。気が付けば私は下着姿である。今更肌を見られて気にするような仲でもないが、その日ばかりは弟の目線が堪えた。それは間違いなく昨日の暴挙への負い目もあったろうが、今はどうしてか平生抱き得ないはずの羞恥心が表立っていた。
居心地の悪さを感じながらも、さりとて他にやる事もないので着替えを続行した。弟は私に背を向けるようにして座り、教書を読み始めた。二人ともしばらく無言だった。弟がようやく口を開いたのは、私がすっかり部屋着に着替えてしまった時分だった。
「姉さん」
どきりとした。上司に説教されている時でさえこれ程心臓が縮み上がったことはないだろう。返事をした私の声は、きっと笑えるくらい弱々しいものだったに違いない。
「もしかして、俺のことが好きなのか」
この意外過ぎる質疑に、私はしばらく応えられないでいた。突飛すぎる内容に思考が追いついていなかった。
そうして答えあぐねていると弟が振り返った。その目は非難している風でもなく、かといって喜色も伺えず、何の感情も汲み取れなかった。強いて言えば少し哀しげな色が翳っていたようにも見えた。
私は掠れた声で笑った後、冗談めかすように「まさか」と返した。実際、弟を恋愛対象として見ているはずもなかった。もう何年と共に暮らしてきたのだ。家族として愛おしいとは思っても、一人の男として見たことは到底なかったし、将来もないだろうと私は思っていた。弟はそれに対し特別何の反応もしたようには見えなかった。ただ簡単に「そうか」とだけ返して元の方へ向いた。話題を広げないように簡便に済ませた弟の心遣いだったかもしれないが、私は内心むしろそこで馬鹿にしてくれた方が余程楽だったな、と思った。
会話らしい会話はそれきりだった。そのうち明日の実習の予定を立てるなどして、一通りやるべき作業を終えた私は早めに床に就くことにした。毛布を体にかけるとずしりと体が重くなった。人間というのは肉体だけでなく精神も疲労するのだな、とこの歳まで生きてきてようやくのように実感した。押し寄せる睡魔に身を委ねて微睡んでいると、枕元に人の来る気配がした。もう先までの緊張はなかったが、どうしても彼に負い目のある私は眠気に抗って眼を開けた。
「なあ、姉さん」
弟の顔は予想していたより遥かに近くに迫っていた。とうとう怒鳴られるのか、と私は身構えたが、いつもの如く怒っているんだか笑っているんだかはっきりしない弟の表情を見て、そうではないと安堵した。すると今度は無闇と近くにある弟の睫毛や唇がどうしてか気になった。
「もし俺も姉さんが好きだって言ったら、どうする」
私は今度こそ弟の質問に応えることはできなかった。動揺もあったろうが、それ以上に弟の考えが読めなかった。こいつは賭け事などすると存外やり手になるかもしれないな、などと全く関係のない思索が頭を巡った。そうして発する言葉を失っていると、弟はまたも声を出して笑った。
「冗談だよ。ともかく、もう妙な真似はしないでくれ」
そう言って彼は私の肩をぽん、と叩いて自分の寝床へ潜り込んだ。しばらくして、すうすうと穏やかな寝息が聞こえて来た。
急襲を受けた私はすっかり先までの眠気を失っていた。得体の知れぬ動揺と興奮が脳内をしきりに掻き混ぜる。弟が私のことを? ……。あり得ない妄想、と笑い飛ばすには妙に真に迫る弟の表情。網膜に焼き付く彼の眼差し。低くくぐもらせた囁き声。どれもこの数十年見覚えのない、初めて遭遇したもののように感じた。
しばらく床の中で悶々としていた私は、これが弟なりの復讐の方法なのだなと解釈した。不意討ちで動揺させ、相手を惑わす。負い目のある私にはこれほど効果的な策はないだろう。出自の不明な動悸を掻き消すように私は、まんまと策に嵌めてくれたなという憤然たる心持ちを無理に意識しながら、再び目を閉じた。
寮へ戻ると、薄暗い沈黙が私を出迎えた。相部屋のもう一人の主はまだ帰っていない。私は額を押さえた。何と言って弁明しようか。それともただへいつくばって赦しを乞おうか。どれもその場しのぎに過ぎない浅ましい行為だと知っていながら、どうしてもそうしたい衝動に駆られた。彼に軽蔑される事は私にとって如何な残虐な拷問や凌辱よりも恐ろしかった。
服を脱いで部屋着に着替えていると、不意に部屋の扉が軋む音を聞いた。感情の平衡を失いかけていた私は思わず慄いた。するといきなり誰かに肩を抱きすくめられ、その場に固定された。いよいよもって恐怖が私の背筋を走り抜けた。
すわ強盗か、暴漢かと身を捩らせていると、ぱっと手を離されて自由になった。部屋の隅へ逃げ出して振り返ってみると、いつも見慣れている男の姿を発見した。件の弟である。
弟は大げさな私の一挙一投足を見て、声を上げて笑った。これは普段にこりと笑いもしない弟からするとかなりの珍事である。どうして彼が薄暗い部屋の中で一人、灯りもつけず佇んでいたか定かではないが、彼の無邪気な笑いに虚を突かれた私は安堵のため息も悪戯への文句も忘れていた。
彼は黙ったままでいる私を見て「どうした姉さん、早く着替えなよ」とだけ言ってソファに腰かけた。気が付けば私は下着姿である。今更肌を見られて気にするような仲でもないが、その日ばかりは弟の目線が堪えた。それは間違いなく昨日の暴挙への負い目もあったろうが、今はどうしてか平生抱き得ないはずの羞恥心が表立っていた。
居心地の悪さを感じながらも、さりとて他にやる事もないので着替えを続行した。弟は私に背を向けるようにして座り、教書を読み始めた。二人ともしばらく無言だった。弟がようやく口を開いたのは、私がすっかり部屋着に着替えてしまった時分だった。
「姉さん」
どきりとした。上司に説教されている時でさえこれ程心臓が縮み上がったことはないだろう。返事をした私の声は、きっと笑えるくらい弱々しいものだったに違いない。
「もしかして、俺のことが好きなのか」
この意外過ぎる質疑に、私はしばらく応えられないでいた。突飛すぎる内容に思考が追いついていなかった。
そうして答えあぐねていると弟が振り返った。その目は非難している風でもなく、かといって喜色も伺えず、何の感情も汲み取れなかった。強いて言えば少し哀しげな色が翳っていたようにも見えた。
私は掠れた声で笑った後、冗談めかすように「まさか」と返した。実際、弟を恋愛対象として見ているはずもなかった。もう何年と共に暮らしてきたのだ。家族として愛おしいとは思っても、一人の男として見たことは到底なかったし、将来もないだろうと私は思っていた。弟はそれに対し特別何の反応もしたようには見えなかった。ただ簡単に「そうか」とだけ返して元の方へ向いた。話題を広げないように簡便に済ませた弟の心遣いだったかもしれないが、私は内心むしろそこで馬鹿にしてくれた方が余程楽だったな、と思った。
会話らしい会話はそれきりだった。そのうち明日の実習の予定を立てるなどして、一通りやるべき作業を終えた私は早めに床に就くことにした。毛布を体にかけるとずしりと体が重くなった。人間というのは肉体だけでなく精神も疲労するのだな、とこの歳まで生きてきてようやくのように実感した。押し寄せる睡魔に身を委ねて微睡んでいると、枕元に人の来る気配がした。もう先までの緊張はなかったが、どうしても彼に負い目のある私は眠気に抗って眼を開けた。
「なあ、姉さん」
弟の顔は予想していたより遥かに近くに迫っていた。とうとう怒鳴られるのか、と私は身構えたが、いつもの如く怒っているんだか笑っているんだかはっきりしない弟の表情を見て、そうではないと安堵した。すると今度は無闇と近くにある弟の睫毛や唇がどうしてか気になった。
「もし俺も姉さんが好きだって言ったら、どうする」
私は今度こそ弟の質問に応えることはできなかった。動揺もあったろうが、それ以上に弟の考えが読めなかった。こいつは賭け事などすると存外やり手になるかもしれないな、などと全く関係のない思索が頭を巡った。そうして発する言葉を失っていると、弟はまたも声を出して笑った。
「冗談だよ。ともかく、もう妙な真似はしないでくれ」
そう言って彼は私の肩をぽん、と叩いて自分の寝床へ潜り込んだ。しばらくして、すうすうと穏やかな寝息が聞こえて来た。
急襲を受けた私はすっかり先までの眠気を失っていた。得体の知れぬ動揺と興奮が脳内をしきりに掻き混ぜる。弟が私のことを? ……。あり得ない妄想、と笑い飛ばすには妙に真に迫る弟の表情。網膜に焼き付く彼の眼差し。低くくぐもらせた囁き声。どれもこの数十年見覚えのない、初めて遭遇したもののように感じた。
しばらく床の中で悶々としていた私は、これが弟なりの復讐の方法なのだなと解釈した。不意討ちで動揺させ、相手を惑わす。負い目のある私にはこれほど効果的な策はないだろう。出自の不明な動悸を掻き消すように私は、まんまと策に嵌めてくれたなという憤然たる心持ちを無理に意識しながら、再び目を閉じた。