第9話 終幕
文字数 1,958文字
研究所のベッドに横たえられた僕の眼からは、一筋の涙が流れていた。
「被験体の質量二十一グラムの減少を確認。現時刻を以って、本プログラムを終了します。」
白衣の男性が言った。僕の身体と無数のコードで繋がれた機器のスイッチが、順番に切られて行った。
「ご苦労様。後は私がやるわ。ありがとう、貴方達は休んで。」
そう告げられ、白衣の男女が立ち上がる。
「では、我々はお先に失礼します。」
そう挨拶をして研究室の自動扉に向かいつつ、白衣の女性が後ろを振り返った。ベッドに横たわる僕を見詰めている、僕の母親の姿を無言で見た。髪の毛で隠されて良くは窺えなかったが、母親は泣いている様であった。
「……哀れね。」
自動扉が閉まると同時に、白衣の女性はそう呟いた。
「え?」
白衣の男性がそう尋ねると、女性は男性を一瞥してこう言った。
「内情を理解せずにこの研究に携われたのなら、あんたは科学者としては或る意味では幸せって事よ。」
全く理解出来ないといった風で、男性は訊き返す。
「え、先輩、どういう事ですか?」
研究所の長い廊下を歩きながら、白衣の男女が声を抑えて会話をしている。二人の言葉遣いから、女性の方が研究員としては上席の様だ。
「所長が二十年を掛けて完成させたこの計画、私は最後まで好きになれなかったのよ。亡くなった人に最期の希望を、冥福を……なんて謳ってはいるけれど、所詮は只の夢でしょう?」
「本人が、この世での生を幸せに思って終えられるなら、それはそれで……。」
男性が少し遅れて歩きながら、おずおずと女性の言葉に答える。
「だから、あんたは頭の中が年がら年中春なのよ。」
乱暴に白衣を脱いで着衣を直しながら、女性は少し声を大きくする。
「それは真実では無いわ。作られた幸福に、作られた充足感。何処まで行っても、それは本当の人生では無いのよ。何を夢見ているのかまでは解らないけれど、その内容は本人が望んだ虚構でしかない。虚構の幸せで人生を終える事は、果たして本当に人間らしい人生って言えるのかしら。」
少しの間が有り、男性は再び恐る恐る答えた。
「真実の不幸か、虚構の幸福か……って事ですかね?」
白衣を脱いだ女性は、纏めていた長い黒髪を下ろしながら、冷めた眼で前をじっと見据えていた。
「違うわよ。私が言いたいのは、それを本人が望んでいるかって事なのよ。本人、若しくは三親等内の親族の同意で成し得るのならば、明確な遺書でも残されていない限りは、本人の真の希望であったかは解らないわ。他者に欺瞞の幸せを植え付けられて生涯を終えて……、私なら御免蒙りたいわね。」
女性はすっかりと研究員の様相では無く、如何にもこれから歓楽街にでも繰り出しそうな装いであった。
「先輩……らしい意見ですね。」
その言葉に、女性は少しだけ男性の方を振り返り、また直ぐに視線を元に戻した。
「でも、本当に納得出来ないのは其処では無いわ。愛し方を間違っているのよ。」
「所長の息子さんへの愛し方って事ですか?」
扉を開けて非常階段に出ると、女性は手摺りに寄り掛かり一息吐き、ポケットから煙草とライターを取り出した。
「正確には、愛情表現……かしらね。どんなに愛していても、それが相手に伝わらなければ、愛していないのと同じよ。『愛する』という事は、相手に『愛を届ける』って事なの。彼女の愛は息子さんに届かなかった……それが、今回の息子さんの投身自殺の顛末。」
「良く……理解しているんですね、所長の事。」
男性がそう言うと、女性はシュッと音を立てて煙草に点火し、一服深く吸い込んでからこう答えた。
「理解しているんじゃ無いわ。……経験よ。」
研究室の部屋には、冷たくなりつつある僕の遺体と、僕の母親の姿が在った。母親は僕の顔をじっと見詰め、右手で優しく僕の頬を撫でた。別れの言葉を言うでも無く、夭逝した僕に嘆きの言葉を掛けるでも無く、只々無言であった。
暫くそうしていたが、やがて意を決した様に、研究室内のデスクに向かった。彼女は、本日付けでこの研究所の所長の職を辞す事、そして後任の所長の名を記すと、その紙の上にステンレス製のペーパーウェイトを置いた。そうして、彼女はそのまま研究室を後にした。
研究所のビルの屋上に通ずる階段を、彼女は刑場への階段を昇る死刑囚の如く、一段一段しっかりと踏み締めて昇った。屋上に到着すると強い風が吹き、彼女の白衣は強く煽られた。満月が煌々と辺りを照らし出し、時折白衣に反射して光り輝いて見える。彼女は屋上のフェンスを乗り越え、パラペットの上に颯爽と降り立った。
「済まなかったわね、…………。」
僕の知っている限り、初めて僕の名を呼び、その後、母親の身体は軽やかに夜の闇に消えた。何処からともなく桜の花弁が風に舞い、冷たいアスファルトに減り込んだ母親の死体の上に降り注いだ。
「被験体の質量二十一グラムの減少を確認。現時刻を以って、本プログラムを終了します。」
白衣の男性が言った。僕の身体と無数のコードで繋がれた機器のスイッチが、順番に切られて行った。
「ご苦労様。後は私がやるわ。ありがとう、貴方達は休んで。」
そう告げられ、白衣の男女が立ち上がる。
「では、我々はお先に失礼します。」
そう挨拶をして研究室の自動扉に向かいつつ、白衣の女性が後ろを振り返った。ベッドに横たわる僕を見詰めている、僕の母親の姿を無言で見た。髪の毛で隠されて良くは窺えなかったが、母親は泣いている様であった。
「……哀れね。」
自動扉が閉まると同時に、白衣の女性はそう呟いた。
「え?」
白衣の男性がそう尋ねると、女性は男性を一瞥してこう言った。
「内情を理解せずにこの研究に携われたのなら、あんたは科学者としては或る意味では幸せって事よ。」
全く理解出来ないといった風で、男性は訊き返す。
「え、先輩、どういう事ですか?」
研究所の長い廊下を歩きながら、白衣の男女が声を抑えて会話をしている。二人の言葉遣いから、女性の方が研究員としては上席の様だ。
「所長が二十年を掛けて完成させたこの計画、私は最後まで好きになれなかったのよ。亡くなった人に最期の希望を、冥福を……なんて謳ってはいるけれど、所詮は只の夢でしょう?」
「本人が、この世での生を幸せに思って終えられるなら、それはそれで……。」
男性が少し遅れて歩きながら、おずおずと女性の言葉に答える。
「だから、あんたは頭の中が年がら年中春なのよ。」
乱暴に白衣を脱いで着衣を直しながら、女性は少し声を大きくする。
「それは真実では無いわ。作られた幸福に、作られた充足感。何処まで行っても、それは本当の人生では無いのよ。何を夢見ているのかまでは解らないけれど、その内容は本人が望んだ虚構でしかない。虚構の幸せで人生を終える事は、果たして本当に人間らしい人生って言えるのかしら。」
少しの間が有り、男性は再び恐る恐る答えた。
「真実の不幸か、虚構の幸福か……って事ですかね?」
白衣を脱いだ女性は、纏めていた長い黒髪を下ろしながら、冷めた眼で前をじっと見据えていた。
「違うわよ。私が言いたいのは、それを本人が望んでいるかって事なのよ。本人、若しくは三親等内の親族の同意で成し得るのならば、明確な遺書でも残されていない限りは、本人の真の希望であったかは解らないわ。他者に欺瞞の幸せを植え付けられて生涯を終えて……、私なら御免蒙りたいわね。」
女性はすっかりと研究員の様相では無く、如何にもこれから歓楽街にでも繰り出しそうな装いであった。
「先輩……らしい意見ですね。」
その言葉に、女性は少しだけ男性の方を振り返り、また直ぐに視線を元に戻した。
「でも、本当に納得出来ないのは其処では無いわ。愛し方を間違っているのよ。」
「所長の息子さんへの愛し方って事ですか?」
扉を開けて非常階段に出ると、女性は手摺りに寄り掛かり一息吐き、ポケットから煙草とライターを取り出した。
「正確には、愛情表現……かしらね。どんなに愛していても、それが相手に伝わらなければ、愛していないのと同じよ。『愛する』という事は、相手に『愛を届ける』って事なの。彼女の愛は息子さんに届かなかった……それが、今回の息子さんの投身自殺の顛末。」
「良く……理解しているんですね、所長の事。」
男性がそう言うと、女性はシュッと音を立てて煙草に点火し、一服深く吸い込んでからこう答えた。
「理解しているんじゃ無いわ。……経験よ。」
研究室の部屋には、冷たくなりつつある僕の遺体と、僕の母親の姿が在った。母親は僕の顔をじっと見詰め、右手で優しく僕の頬を撫でた。別れの言葉を言うでも無く、夭逝した僕に嘆きの言葉を掛けるでも無く、只々無言であった。
暫くそうしていたが、やがて意を決した様に、研究室内のデスクに向かった。彼女は、本日付けでこの研究所の所長の職を辞す事、そして後任の所長の名を記すと、その紙の上にステンレス製のペーパーウェイトを置いた。そうして、彼女はそのまま研究室を後にした。
研究所のビルの屋上に通ずる階段を、彼女は刑場への階段を昇る死刑囚の如く、一段一段しっかりと踏み締めて昇った。屋上に到着すると強い風が吹き、彼女の白衣は強く煽られた。満月が煌々と辺りを照らし出し、時折白衣に反射して光り輝いて見える。彼女は屋上のフェンスを乗り越え、パラペットの上に颯爽と降り立った。
「済まなかったわね、…………。」
僕の知っている限り、初めて僕の名を呼び、その後、母親の身体は軽やかに夜の闇に消えた。何処からともなく桜の花弁が風に舞い、冷たいアスファルトに減り込んだ母親の死体の上に降り注いだ。