第2話

文字数 2,175文字

 それは数週間前のことだった。丹野は夜勤明けで、帰る前に一服していこうと、喫煙所に寄った。そこにはワイシャツにスラックス姿の男がいて、何やら電話をしている。口調はかなり険しい。
「えっ、分かった。またそっち行って話をつけるから、待っとけよ」
 そういったことを大声で捲し立てるように話している。タバコを家まで我慢しようかと思ったが、喫煙室にいた男と目が合ってしまった。こうなると変に逃げるのも、怪しまれると思い、喫煙室に入っていった。電話をする男の横でタバコに火をつけて、天高く煙を吐き出してみた。
 男のことを気にしていると、気が滅入りそうになるので、違うことを考える。タバコを止めたい。それは彼女に言われているからだけではない。タバコの値段は度重なる増税のせいで高騰し、金がかかる。そのせいか、貯金もできない。彼女とは結婚も考えているが、自分の銀行口座を見ると、現実は甘くないと突きつけられているような気がして、目眩すら覚えた。とにかく禁煙しなくてはならない。その為には、少しずつタバコを減らさないとな……。



 そう思っているうちに男の電話が終わった。男はタバコを吸おうとしているが、火がつかない。
「すみません、火を貸してもらえませんか?」
 男は丹野に頼んだ。まるで、最初から期待しているかのような目で丹野の方を見ている。先程の捲し立てるような口調とは打って変わっての丁寧な話しぶりである。人間こうも変われるものなのかと薄気味悪さを覚えながらも、丹野は引きつった笑顔を見せてライターを差し出した。
「ありがとう」
 と言う男の表情はニンマリとしていた。打算的に作っているのではと思わせる顔だった。
「おっと、せっかく恩を受けたのに名乗らないのは失礼だったな。私、岡田と申します」
 岡田と名乗ったその男は、丹野に名刺を差し出した。そこには「有限会社 アトム 代表取締役」と書かれている。
「アトムって派遣をしているところですよね? 代表って凄くないですか? あっ、申し遅れました。僕は丹野って言います」
 丹野は聞き慣れない「代表取締役」という響きに、ひるんでしまった。
「ハハ、代表って言っても、家族経営だからね。専務は妻で、従業員は息子とその嫁。そんなもんだよ」
 岡田はどこ吹く風というような表情である。

 室内は梅雨真っ只中だと言うのに、真夏のように蒸し暑い。そんな中、男2人がタバコを吸っている。沈黙がしばらく続いた後、
「丹野さんでしたっけ? あなたのことはいろいろ聞いてますよ。とても優秀でリーダーシップもあるって、施設長がベタ褒めです」
 と岡田が話しかけてきた。丹野は残り少なくなったタバコの箱をしまうと、
「いやいや、言い過ぎですよ。そう思ってるなら、施設長に面と向かって言ってほしいくらいです」
 と言い、顔を赤らめた。
「そうでしたか、だいぶあの施設長さんに苦労させられてるみたいだね。ここで会ったのも何かの縁だ。あなたにアドバイスしておきたいことがあってね」
 岡田の口調に、上から物を言う感じを受けた。また施設長とそりが合わないことを見透かされたことで、丹野の顔は警戒感を帯びた表情になっている。
「これから話すことはここだけの話にしてほしいんです」
 岡田の顔から笑みが消えた。屋根に当たる雨音が絶え間なく鳴り続ける。
「この施設はいろんな意味でヤバい。今すぐ転職を考えた方がいい」
「どういうことですか?」
 この質問の後に続く答えを丹野は聞きたくなかった。どうせろくでもない回答であることは見当がついていたからだ。それでも、聞きたいという好奇心が一瞬で彼の心を支配した。
「実はね、うちの会社、このシフトいっぱいでこの施設から撤退しようと思ってるんだよ」
 派遣会社の撤退は、人手不足の深刻化を意味する。丹野は顔色を変え、岡田に尋ねる。
「どうしてですか? 何か、こちらに落ち度でもあったんですか?」
「ここまで内情を暴露すると、君のためにならないとおもっていたのだが、聞かれたことに答えないわけにいかない。落ち度というか、君の勤める会社が契約料を払ってくれてないんだよ。しかも、三か月に渡ってね」


 その瞬間、雨音も車のエンジン音も聞こえなくなった。それほど、丹野は動揺していた。それに対し、岡田は落ち着き払っている。派遣の契約料が支払われないというのは、相当な一大事であるはずだ。それなのになぜ、その事実を淡々と語ることができるのだろうか? 丹野の疑問は、岡田のこめかみを見ることによって解消された。彼のこめかみ近くの血管は遠目に見ても分かるほどに浮き上がっている。込み上げてくる怒りを必死で抑えているのだ。
「僕から施設長に頼みましょうか?」
 丹野の起こそうとしている行動が無意味なことは分かっていた。でも、そう言わない訳にはいかない。
「ありがとう。でも、ほぼ話は着いているんだ。施設長は『来月こそは支払うから』と言っているのだが、三か月も滞納しておいて、その言葉を信じる方が難しい。それに理事長の差し金らしいから、まあ覆すのは無理だろう」
 この施設を運営する法人の理事長と施設長の折り合いが悪いということは、公然の事実だった。施設長が理事会に参加させてもらえないとか、理事長室から施設長を執拗に叱責する声が聞こえてきたとか、そのような話は山のように出てくる。

つづく
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