06 瞬間、すがるような目を
文字数 2,113文字
もくもく会は、その年の夏休みに始まった。
当初は思ってもみなかったけれど、結果として、あたしたちは高校2年のあの日まで、ほぼ毎週の木曜に、宿題をしたり勉強したり――もちろんそれは口実で、大半はおしゃべりを――するために、会っていた。
月・火・水の放課後は、あたしがバレエ、ピアノ、英語のレッスンがあるのでNG。
金曜の放課後と土・日は、りべかが「家族サービス」を強いられていて、外出禁止。
要するに木曜しか会える日がなかった。それを彼女は、「鈴木にも楠にも木があるから、ちょうどいいね」とおかしがり、もくもく会と命名したのだ。
***
もくもく会を始めるきっかけとなったのは、夏休みに入ってすぐ、りべかがかけてきた1本の電話だった。
当時、小学生は携帯電話なんか(もちろんスマートフォンも)持っていなかったから、家の電話にかかってきたのを母がとってあたしにかわった。
「しっかりしたお嬢さんね」
子機を渡しざま、ふだんはあたしの交友関係に辛口の母が、珍しく褒 めた。
「月曜日から木曜日までの間なら、いつでもいいから、つき合ってくれない」
りべかはいきなりあたしを誘った。
港を見下ろす丘の上の公園に、夏休みの宿題の絵を描きに行こう、と。
「私の家、ひとりで長時間の外出は禁止だから。友だちと一緒じゃないとダメなんだ」
耳にあてた受話器から響く梨紅香の声を、あたしはどきどきしながら聞いていた。学校で、耳元に囁 かれたときのことを思い出したのだ。
「わかった、ちょっと待って」
落ち着いているふりをして、子機のマイクを手で押さえ、母に許可を求めた。
母の答えはいつもどおり、「お父さんに聞いてから」。
母はいつでも、なんでも父の顔色ばかり気にしていた。でもりべかのことは好印象みたいだったから、援護 は期待できると踏んで、
「あした、きちんと返事するけど、きっと大丈夫」
そう伝え、電話を切った。
無事に父のOKをもらい、直近の木曜に、小学校の正門で落ち合った。
丸まった猫みたいな綿雲 が、青空にいくつも浮かんでいる昼下がりだった。
りべかは登校時と同じ体操着だったので、遠目にもすぐにわかった。
あたしはバツが悪かった。黄色い小花柄のワンピースに、つば広の麦わら帽子をかぶり、画板のほかに麦茶の水筒を斜めにかけて、手提 げ袋には絵の具とお菓子まで入れてやってきた自分が、いかにも浮かれすぎているようで。
「おまたせ」
かろうじてあたしが笑顔をつくっても、りべかはにこりともしなかった。よれた体育帽のつばの影で、白目が異様に浮きあがって見えた。
「行こう」
ぶっきらぼうに小さく言い、りべかはくるりと背を向けて、公園へ歩き出した。
あたしたちが住んでいたのは、西洋の文化がいち早く入ってきた港町で、小学校は海に近い坂道の中腹にあった。
道の左右には古い洋館がちらほらとあり、少し歩くと、港を見下ろす高台がある。
高台のてっぺんからふもとまでは広大な公園になっていて、展望台や薔薇 園、古い資料館、中世の遺跡を思わせる廃墟 めいた構造物――歴史的な遺構 らしい――などが緑に隠れて点在していた。
絵の題材には事欠かず、だからあたしは、少しも疑っていなかった。
公園に着くなり、りべかがこう言い放つまで。
「さっさと下絵だけ終わらせて、行こう」
当然のように言う梨紅香に、あたしはびっくりして聞き返した。
「行くって、どこに」
「教会。前に言ったでしょ。近所の教会に行こうとしたら、怒られたって」
すでに決定事項であるようだった。
ひとりでは家を出られないので、あたしを誘った。
誘うからには理由がいる。
宿題の絵を描くなんて体裁だ。
すべては教会へ行くための筋書だった。
あたしは駒 として利用されただけ。
ゆっくりと、トランプを1枚ずつめくっていくように、あたしは理解していった。考えがひとつ進むたび、悲しい気分が深まった。
「ひとりで行って来なよ。あたし、ここで待ってるから。口裏も合わせてあげる」
自分でも戸惑うくらい、乾いた声が出た。悲しみが怒りへと、色を変えつつあったのだ。
あたしは彼女を睨 んだのだと思う。
その瞬間のりべかの目を、あたしはいまでも忘れない。
仔犬や仔猫みたいにまっすぐで、鼈甲色の虹彩に、すがるような光があった。
「わかった。ありがと」
彼女はうつむき、意外なほど素直に引き下がり、そして、あたしはわかったのだ。
りべかとあたしは同じだった。
家や学校が窮屈 で、理不尽な孤独を押しつけられ、たったひとりで闘っている。だから、ただのアリバイづくりのためなどではなく、本当に同行してほしくて誘ったのだと。
「いいよ、やっぱりつき合うよ。あたしも興味あるし」
あたしが言い直すと、りべかはとたんに顔を上げた。
あたしは目を奪われた。りべかが、まるで裸の表情をしていたからだ。
安堵と、歓喜と、信頼の。
当初は思ってもみなかったけれど、結果として、あたしたちは高校2年のあの日まで、ほぼ毎週の木曜に、宿題をしたり勉強したり――もちろんそれは口実で、大半はおしゃべりを――するために、会っていた。
月・火・水の放課後は、あたしがバレエ、ピアノ、英語のレッスンがあるのでNG。
金曜の放課後と土・日は、りべかが「家族サービス」を強いられていて、外出禁止。
要するに木曜しか会える日がなかった。それを彼女は、「鈴木にも楠にも木があるから、ちょうどいいね」とおかしがり、もくもく会と命名したのだ。
***
もくもく会を始めるきっかけとなったのは、夏休みに入ってすぐ、りべかがかけてきた1本の電話だった。
当時、小学生は携帯電話なんか(もちろんスマートフォンも)持っていなかったから、家の電話にかかってきたのを母がとってあたしにかわった。
「しっかりしたお嬢さんね」
子機を渡しざま、ふだんはあたしの交友関係に辛口の母が、珍しく
「月曜日から木曜日までの間なら、いつでもいいから、つき合ってくれない」
りべかはいきなりあたしを誘った。
港を見下ろす丘の上の公園に、夏休みの宿題の絵を描きに行こう、と。
「私の家、ひとりで長時間の外出は禁止だから。友だちと一緒じゃないとダメなんだ」
耳にあてた受話器から響く梨紅香の声を、あたしはどきどきしながら聞いていた。学校で、耳元に
「わかった、ちょっと待って」
落ち着いているふりをして、子機のマイクを手で押さえ、母に許可を求めた。
母の答えはいつもどおり、「お父さんに聞いてから」。
母はいつでも、なんでも父の顔色ばかり気にしていた。でもりべかのことは好印象みたいだったから、
「あした、きちんと返事するけど、きっと大丈夫」
そう伝え、電話を切った。
無事に父のOKをもらい、直近の木曜に、小学校の正門で落ち合った。
丸まった猫みたいな
りべかは登校時と同じ体操着だったので、遠目にもすぐにわかった。
あたしはバツが悪かった。黄色い小花柄のワンピースに、つば広の麦わら帽子をかぶり、画板のほかに麦茶の水筒を斜めにかけて、
「おまたせ」
かろうじてあたしが笑顔をつくっても、りべかはにこりともしなかった。よれた体育帽のつばの影で、白目が異様に浮きあがって見えた。
「行こう」
ぶっきらぼうに小さく言い、りべかはくるりと背を向けて、公園へ歩き出した。
あたしたちが住んでいたのは、西洋の文化がいち早く入ってきた港町で、小学校は海に近い坂道の中腹にあった。
道の左右には古い洋館がちらほらとあり、少し歩くと、港を見下ろす高台がある。
高台のてっぺんからふもとまでは広大な公園になっていて、展望台や
絵の題材には事欠かず、だからあたしは、少しも疑っていなかった。
公園に着くなり、りべかがこう言い放つまで。
「さっさと下絵だけ終わらせて、行こう」
当然のように言う梨紅香に、あたしはびっくりして聞き返した。
「行くって、どこに」
「教会。前に言ったでしょ。近所の教会に行こうとしたら、怒られたって」
すでに決定事項であるようだった。
ひとりでは家を出られないので、あたしを誘った。
誘うからには理由がいる。
宿題の絵を描くなんて体裁だ。
すべては教会へ行くための筋書だった。
あたしは
ゆっくりと、トランプを1枚ずつめくっていくように、あたしは理解していった。考えがひとつ進むたび、悲しい気分が深まった。
「ひとりで行って来なよ。あたし、ここで待ってるから。口裏も合わせてあげる」
自分でも戸惑うくらい、乾いた声が出た。悲しみが怒りへと、色を変えつつあったのだ。
あたしは彼女を
その瞬間のりべかの目を、あたしはいまでも忘れない。
仔犬や仔猫みたいにまっすぐで、鼈甲色の虹彩に、すがるような光があった。
「わかった。ありがと」
彼女はうつむき、意外なほど素直に引き下がり、そして、あたしはわかったのだ。
りべかとあたしは同じだった。
家や学校が
「いいよ、やっぱりつき合うよ。あたしも興味あるし」
あたしが言い直すと、りべかはとたんに顔を上げた。
あたしは目を奪われた。りべかが、まるで裸の表情をしていたからだ。
安堵と、歓喜と、信頼の。