第60話 言語在存論(説)

文字数 1,083文字

言語在存論(或いは、言語在存説)とは、言葉になっているものはすべて存在している、と考える立場である。

例えば、「神」というものが存在するか否か、は古来様々な議論があったし、これからもそれは続いていくであろう。

比較的若い人は、ご自身の憧れの人を「神」と呼び、接触できるととても喜んでいたりする。

それ故、その場合、神は実在している、こととなる。

つまり、哲学的に考えるとは、「言葉の意味を定義する」ことが出発点である。

多くの人々には
「神は祈りを捧げる対象であるにもかかわらず、その存在すらをも揺らいで見え、信ずることによって現れる(或いは現れないこと)もの」であるらしい。

筆者的感覚に従えば
「神とは存在するのは確実であるが、実際にお会いした記憶はない、が、自分を助け、見守ってくださっているであろう、有難きもの、である」

つまり、存在するが、実在するとは限りなく難しくて断言できない、大いなる者である。

勿論、あなたがどのように考えるかは、まったくの自由だ。

無神論者ゆえに罰せられることもなく、どのような神も信ずる、信じないも自由に選択可能の時代だ。

神を信じない(認めない)ゆえに罰せられることもなく、神など存在しない、と考え、主張するのもすべて自らに由るものである。

あなたがあなたを批判・否定することがなかったら、あなたが地獄に落ちることもなく、そもそも、地獄など存在する訳がない、と純粋に考え、行動しているものにとって、洗脳装置でしかないテレビなどは悪影響しか齎さぬだろう。

あなたは死が怖いだろうか ?

筆者自身もとても怖いのであろうが、未だ来ぬ死を考え、想いに耽っても、恐らく、解決には遠いだろう。

だが、この世界を観察して気づいたことなのだが、自分はこの世界が出現した時点から、常になにものか(例えば、水とか空気など)として、存在してきたし、これからも世界(宇宙)があり続ける限り、なにものかとしてあり続けることは確実である。

この事実に気づいた頃から、自分は死を殆ど怖く感じないようになった。

これこそが「悦ばしき知識」であり、抹消への恐怖の消失、である。

つまり、筆者自身は自分という存在が全く無くなってしまうことが怖かったのであり、形態を変化させながらも自身が存在する、ことを知って、安心立命とでもいうべきものを得られたのである。


これから、やり遂げたいこと満載で、あと少なくとも100年は生きそうに想えている。

「幸せ」「至福」「愛」「コミュニケーション」「友」etc.

すべて、大切で有難いものは揃っている。

あとは「言葉の魔術師」として、奇跡のような軌跡を描き行くのみ !








ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み