第8話

文字数 959文字

 ある夜のことだった。
 幸子は初めての客についた。幸子の客から、幸子のことを聞いてやってきた客だった。
 男は若かった。二十七になっていた幸子とさほど変わらなかった。
 その年で銀座でひとりで遊べるということは、男は結構な成功をおさめているということだ。
「麗子ちゃんって、テレビ出てなかった?」
 幸子の源氏名は麗子だった。
 幸子と同時期にデビューし、成功している女優の名前だった。
「え?」
「ほら、あの、学園ものの、先生が寺のお坊さんもしてるやつ。なんってドラマだったっけ?」
 客が首をひねる。
 幸子は全身の血がすっとひくような気がした。
 これまで幸子が芸能活動をしていたことを指摘する客はいなかった。
 それだけ自分は「たいしたことない芸能人」だったということだ。それが悲しかったり、くやしかったりしたことは一度もない。
 むしろ、この世界に入ってからは好都合だと思っていた。
 しょぼい過去ならないほうがいい。
 しかし、幸子が昔の幸子とつながってみえないのは、幸子が大した活動をしなかったからばかりではなかった。
 幸子は天使といわれるような清潔感や透明感をまったくその身に残してなかった。
 幸子の容姿は年齢により、確実に変化をとげるものだったのである。
 驚きがおさまると、不思議な感情が押し寄せる。
 幸子はうれしいような恥ずかしいような、複雑な思いに襲われた。
 当時の自分は枕営業を繰り返しながら、その合間にテレビや映画に出るような生活を送っていた。
 十代とは思えないすさんだ日常だった。
 芸能界での成功は自身が望んだことではなかった。
 あやつり人形だった自分。それをどこか良しとしていた自分。
 過去を消したいと、そのときだけははっきりと思った。
「それ、私じゃありません。私、芸能界なんて一度も興味もったことがありませんから」
 幸子は満面の笑みを客に見せる。
「そうか~。じゃあ、違う人だったんだな。いやあ、似てたなあ」
「世の中に三人は同じ顔をした人がいるって、言いますでしょ」
 幸子は銀座での会話の中で得た知識を披露する。
 この街は自分をオトナにしてくれたと思う。
 自分の過去が恥ずかしいものだと気づかせてくれるほどの大人に。
 その夜、幸子は初めて男を買った。
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