第8話 正立桂馬と猪之頭ヘレナの再会 

文字数 2,164文字

 新1年生が入ってきた、今年の春。桜並木が並ぶ、新生活の門出としてはとても鮮やかだった。
 
「先輩、ウチもこの高校入ったんすよ! また一緒に走りましょうぞ!」

 それはあまりにも唐突で、金槌で頭を殴られたみたいに衝撃的だった。
 退屈な始業式でぼーっと歩いていたら、ヘレナに腕を掴まれる。

「先輩も、もちろん陸上部っすよね! また、ご指導ご鞭撻のほどよろしくおなしゃす!」
「……なんか、見違えたな」
「高校生になってから、魅力が上がったでしょ? あれから、ウチも成長したんすよ!」

 そうやってキャッキャとはしゃぐところは変わってない。けれど、容姿は大人びた気がする。
 中学生の頃はもうちょっと小柄な気がしたけど、175センチの僕より身長が高い。
 体もガッチリしてて、引き締まった体はチーターのようなしなやかさ。胸のボリュームも凄まじく、ついガン見してしまった。
 
「ちょっと、先輩……どこ見てるんっすか!?」
「え、ああ! すまん」
「先輩のエッチィ~」

 そうやって自分の豊満なおっぱいを抱きしめて意地悪く笑うヘレナ。
 東欧系のハーフだからか、彫りの深い整った顔に日本人にはない赤毛。肌は白く、強気な感じが魅力的な健康優良少女。
 女の子にもモテそうなボーイッシュで、高嶺の花のとても綺麗な子になったしまったんだな。
 
「それで、先輩は100m続けてるんっすか? どれだけ速くなったか試してみたいっす!」
「いや、そのなんというか」
「もしかして……」

 訝しげに見つめるヘレナに、僕はごくりと唾を飲む。
 
「もしかして、競技変えちゃったんっすか? でも、先輩と一緒ならなんだって―――」
「いや、陸上はやめちゃったんだ……」

 恐る恐る、自分の羞恥心を押し殺して放った言葉。

「え?」

 けれど、ヘレナは僕の予想以上にショックを受けていたのか、目を見開いてわなわなと不機嫌な声をこぼした。
 
「嘘でしょ……先輩? ウチを騙そうとしてるんすよね?」
「いや、本当だ。高校に入ってから、もう陸上はやらないって決めてて」

「嘘だッッ!!」

 悲鳴のような怒声。ヘレナの表情は強張り、今にも泣きそうだった。
 
「ウチ、先輩とまた走れると思ってこの学校選んだんっす! てっきり、鐘ヶ丘が強豪校だから、先輩も陸上続けるって」
「なあ、落ち着けよヘレナ。僕だって色々――」
「先輩がいっぱい練習してたの知ってるんすよ。ウチも先輩に追いつきたくて、頑張って」
「とっくに通り越してるじゃないか。俺なんて、足元にも及ばない」

 僕はまったく芽生えなかった凡人で、ヘレナは全国で優勝した天才。
 実力なんか歴然なのに、ヘレナはどうしてそんな言葉を使うのだろう。
 なんだか、嫉妬と苛立ちが混ざり合って、ヘレナの必死な形相とは裏腹に僕は言葉を選べなくなった。

「そういうのじゃないんっすよ……」

 わなわなと握った手を震わせるヘレナは、僕の胸ぐらを掴んで叫んだ。
 
「ウチは、先輩がいてくれたから頑張れたんっす!! 努力家の先輩がいたから、ウチだって諦めずに走れたんです……」
「僕はただ、諦めただけだ。ごめん、不甲斐ない男で」

 歯を食いしばり、僕をにらみつけるヘレナ。その視線から目が離せず、そしてだんだん自分が惨めになってくる。
 僕の胸ぐらを握りしめたヘレナの手を払い、僕は言いたくないことを言わなきゃいけなかった。
 
「陸上に戻る気もないし、一緒に走ることはない。分かってくれ」

 多分、僕は陸上部に入ったところでただの凡人にしかなれない。強豪校だから、追いつくのも無理だろう。
 最初から僕は弱腰のままで、ヘレナという傑物の邪魔にしかならない。だからこそ、僕のことを忘れてほしかったのに。
 
「そんなん、どうだっていいんすよ」
「だから!」
「先輩がいてくれないと、ダメなんっす……だから、一緒に―――」
「いい加減にしてくれ! 僕を惨めにさせたいのか!?」

 感情的になってしまった。頭の中にぐるぐると、自分の走る姿が見える。
 肩で息をする、酸欠気味の肺、両手を膝につけて前屈し、恐る恐る太陽を見上げる自分。飛んでも跳ねたりしても、一生届かない青い空。
 ヘレナには絶対に届かないと。そんな単純なことは言うまでもなかったのに。僕は口にしないと気がすまなかった。先輩失格だ。
 
「絶対に諦めません。ウチは、ウチは先輩と頑張りたい。この気持をごまかせないんすよ」
「ヘレナ、お前は十分強いよ。他の速いやつと仲良くすればいいじゃん」

 厭味ったらしい。僕はまた言葉を間違えて、ヘレナは眦に涙を溜め込んでいた。
 
「先輩のバーカバーカ!!」

 ぎゅっと握った拳で肩をわなわなとさせるヘレナ。
 手の甲で目を拭い、そのままどこかへと走り去っていった。
 
「ちょっと、待てよ!………やっぱ、あいつとんでもなく速いな」

 まるで光陰のように、あっという間にあいつの影は消えてしまった。
 反射的に手を伸ばすが、何も掴めない。いや、僕には掴む勇気も、根性もなかったからだ。
 女の子にあんな顔されて。泣かせてしまう僕は男としても、先輩としても落第点しか与えられなかった。
 
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