第37話 天野さんたちが帰ったあと

文字数 2,990文字

 研究室に戻ると、近藤先生は打ち合わせデスクに座って院生たちと話をしていた。
 アクセスの便利さとか必要性とかを院生たちに説明して、研究資料作成の役に立つから勉強したらどうだと勧誘していた。
 私の知り合いだから無料でレッスンして貰えるからチャンスだとか、勝手にうちの院生を勧誘しないで欲しい。

 私が戻ると、彼女たちのおしゃべりがいつもの如くピッチを上げた。
「先生! 今日来られた男の人は、先生の彼氏なんですか?」
「一緒におられた美人の方は何者ですか?」
「秘密ですからお答えできません」と勿体ぶっておいた。
 私の余裕のある笑顔はそれなりに武器となるのだ。

 実際は、近藤先生がどうせ、『コンピュータの関係の人で、美人は秘書』と説明していたはずだ。だから、私が説明するまでもない。
 でも、近藤先生からすると、天野さんが私の恋人かも知れないと疑心暗鬼になっているかもしれないから、ちょうどいい。
 こういうのは、はっきりと説明しないまま、噂に任せておくのが正しいのだ。何でもベールに包まれているのが美しい。

「近藤先生と打ち合わせの続きをするから、貴方たちはあっちに行ってね」
 とうるさい彼女たちを追い払った。

「先生ありがとうございました。いい人を紹介していただきまして、何か少し明かりが見えてきたような感じです」
 近藤先生が感謝してくれた。
「いえ、たいしたことしてませんから。でも、アクセスのソフトが入ってないのには困りましたね」
 と一番の問題点を指摘した。
 そもそも、私はアクセスを勉強する気がない。これは、近藤先生が持ち出した問題なのだ。今まで、困っていなかったのに、面倒だと思った。

「先生、アクセスが素晴らしいのは分かりましたけど、今まで左程困っていなかったのに無理やり導入する必要はあるのでしょうか?」
「そうですよねぇ……一番問題なのは、学生みんなのパソコンにインストールされているわけではなくて、少数しか持ってないプログラムを利用する正当性というか、必然性の説明が必要ですよねぇ」
 あれば便利かも知れないけど、今のところ無くても困らないみたいなこと。
 
「結局は、私だけが利用するために天野さんの時間を使っていただくことになりますねぇ」
 近藤先生もそこは分かっているのよね。
 この人は悪い人じゃないのだなぁ、自分勝手にしようと突っ走っているわけじゃなくて、一応はバランスを考えたり立ち止まることもできるみたいな人なんだと、少し好意的に感じてしまった。……多分、弱さを見せてくれたからだと思う。

「う~ん、やっぱり院生たちの為になるかどうかを中心に考えませんか?」
 私は冷たく言った。弱さが見えたら強気になれるのだ。
「研究室の1台にアクセスを入れてみるという話もないですか?」
「入れたとしても、誰も使えなければ意味がないですよね? 正直に言って、私は無理かも」
「そうですねぇ……私の研究室だけにでも入れて様子を見てみるのは如何でしょうか?」
 近藤先生も食い下がる。
 
「それは先生のお考えですから、私は何も異存はありません」
 と、軽く答える私。
「ありがとうございます。……そうすると、先生の教室に関係ないのに、天野さんにボランティアで教えていただくのは、まずいと思います」
 近藤先生は、きちんとそこの道理をわきまえているのね。元々、この話も、先生が私との接触機会を作ろうと画策した結果なんだろうし、私としても天野さんに無理が言えないのは確かだ。

「そうですよねぇ……私の研究室に関しての協力依頼だったので、確かにちょっと変わってしまいますよねぇ」
 私も思案顔で答えた。
「その場合は、私として何らかのお礼を考慮した上で、個人指導をお願いさせていただいても構いませんか?」
「それはいいと思いますが……今日結論を出さなくても、じっくり考えてからで良いのではないですか? それに、院生の子たちも本音でどう感じているのかも聞いてみたいですし」
「そうですね。うちの院生たちにも聞いてみます。その上で改めて先生と相談させていただくということで」
 
 近藤先生も迷いながら、戻っていった。
 それはさておき、私も院生たちに聞いてみなくてはならない。そもそも、この話の原因を説明する必要もある。

「近藤先生からどんな説明を聞いたのかは知らないけど、さっきのアクセスの話、本当に興味があるの?」
 と、取り敢えず質問してみた。
 さっき手を揚げた子たちは、何を言われるのかわからないと思ったのか、凍ったように動かない。
「正直に言ってくれていいのよ? じゃ、ちょっとこの話の経緯を説明するわね?」
 私は、にこやかに話を始めた。

「近藤先生が例の資料を持ってこられて、研究会が始まったわよね? それ自体に問題があるとは聞いてないのだけど、近藤先生が先週『少し課題がある』と言ってこられたわけ。その理由は、『コンピュータで処理する能力が少し足りないと思う』ということで、『エクセルだけでは深く掘り下げられないので、アクセスを利用してはどうか?』という提案だったわけ。それで、誰か知らないかと言われたから、私の知っている専門家にお願いして来て頂いたわけです。その結果、みなさんも知ってのとおり、そもそもそのソフトが入っている人は僅かしかいなかった。そこで、先ほど、どうするかを近藤先生と相談していたの。私としては、皆さんの為になるか否かで判断したい。そして、希望者だけでいいのではないかと。そもそも、エクセルのままでも、現在はそれほど困っているわけではないと認識しています。そこで、みなさんの気持ちを改めて聞きたいの。近藤先生のお考えも大切ですが、私の教室にとって何が大切かということです」

 長い説明だったけれども、分かってくれたのか、みんな少し明るい表情になった。
「先生、ありがとうございます。今、近藤先生と研究している内容は、そもそも文献も多く真新しい成果が上がっているわけではないと思います。大切な研究なのですが、ある意味研究され尽くしていて、医学的進歩がない限り私たちの言及すべきものは少ないと考えています。多分、詩織先生が仰ることもそういう意味かと解釈しました。そうすると、今、ここでアクセスの話は必要ないと思っています。ただ、アクセスに興味はあるんです」
「私の言いたいことを整理してくれてありがとう」
 と褒めておいた。優秀よね、この子は。

「私もそう思います。たまたま私のパソコンにはそのソフトが入っているので、何をするソフトなのかなぁと疑問に思っていて、放置していたから無料の説明会をして頂けるのであれば受講してみたいと思っただけです。すみません」
「それもありよね。新しいこと、未知のことに興味を持つことも大切よ」
 これも前向きでよろしい。
 
「それに、テキパキと話を進めておられた方が、ちょっと格好いいかなと興味もありましたし、先生の彼氏かなとか」
「あのねぇ、貴方の話はボツ」
 と拳骨の真似をした。みんなが笑った。
「私のパソコンには、アクセスがないのですけど、何ができるのかに興味があるのです。受講は可能ですか?」
「受講自体は、ここでやれば可能だと思うわ。ただ、誰かのパソコンを覗くだけになるけどね」
 良くは分からない私が答える。

 他には意見がなかったので、
「近藤先生とも相談しつつ検討してみます」
 と言って、解散した。


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登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

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