終章 使えない箱舟

文字数 7,511文字

終章 使えない方舟

再び、通常練習の日がやってきた。紀夫が原田公民館に行くと、何人かのメンバーさんたちが、そこで待機していた。

あれれ、いつの間にやる気を出してくれたのかなと思っていたら、すぐに歌おうという姿勢を示してくれた。稲葉さんの姿はなかったが、そんなことはどうでもよかった。すぐに夢見たものは、の練習が開始された。メンバーさんたちは、決して技術的にうまいわけではないけれど、やろうという意欲は十分にあった。

紀夫が音をとると、外れることもなくなった。綺麗に三和音をとることもできるようになった。練習が終わりの時間のころは、ある程度歌の形になって人に聞かせる事も出来るのではないかと思われた。メンバーさんたちは、少し自信をつけてくれたようで、他の何か抒情歌をやってみたいねというようになった。

それは、素晴らしいことなんだけど、こうなると、紀夫の頭には、次の目的というか、それとも欲と言えることが、わいてくる。ゆめみたものは、を歌えるようになるほど、合唱の技術は身についた。そうなったら次はぜひ、高田三郎を歌いたい!

でも、それもどうやって皆に知らせたらいいのだろう、、、。高田三郎は、誰よりも好きな作曲家ではあるけれど、もしかしたら、勝手に決めるなとかそういわれるかもしれないし。どこかで大曲を歌いたいと言っても、皆さん果たしてついてきてくれるかなあ、、、。そんな不安もある。でも、やってみたい。不安もあるけれど、やってみたい気持ちが上回る。とにかく一度、メンバーさんに言ってみようと思う。とにかく、音楽家である以上、やってみたいという人は少なからずいる。合唱とか合奏は、人を巻き込むことが多くなるから、多かれ少なかれ衝突というものは避けられないだろう。衝突すれば、せっかく獲得した技術が失われる可能性がある。それも避けたいところだが、、、。でも、一度でいいから、高田三郎をやってみたい気持ちも捨てられない。抒情歌を歌いたいメンバーさんの意見を採用するのも必要だけど、自分にとっては、それだけではもったいないように見える。二極の間で紀夫は揺れ動いた。

実は、大学を出たばかりのころ、アマチュア合唱団とかオーケストラの指導者として「就職」していった大学の同級生たちの自慢話をよく聞かされていたことがあった。彼らは、うちは何々という曲を歌わせているが、全くうまくならないよという話を口をそろえていうのだった。それは、偉い音楽家たちに言わせれば、愚痴なのかもしれないけれど、紀夫にとっては、そういう会話ができるようになるというのはものすごい憧れだった。同級生の中には、うちはこんな珍しい作曲家の曲をやっていて、かえってこっちのほうが苦労する、なんていう自慢話を聞かされることもある。そういう自慢話ができたらいいなあと、頭の中でいつも思っていたのであった。

いつもそうなんだけど、東京へ戻って、他の音大卒者と酒をのみながら話をすると、今何を教えているんだ、と必ず聞かれる。夢見たものはと答えたら、まだそんな初歩的な物か、なんて失笑があがり、代わりにものすごい曲の名前を言われて、メンバーさんたちを統率するのに苦労をしているという自慢話をさんざん聞かされるのである。東京の合唱団では、いくらアマチュアであっても、ヘンデルのメサイアのような大曲を平気でやっているぞ、なんて言われて、ちょっとばかりむっとしてしまうことは結構ある。

その日も、久しぶりに音大の同級生たちと会って、話をした。彼等もまた、合唱団の指導者とか、学校の先生とか、そういう仕事に就いている。まあ、逆を言うと、音大卒者の就職先のほとんどはこれである。学校の先生になって、合唱とか吹奏楽とか指導している同級生も多いので、必然的に、合唱団のメンバーさんの話や、学校の生徒の話で大盛り上がりになっていく。

同級生たちは、まず曲のタイトルを話して、それらの曲を生徒やメンバーが、作曲者の意思通りになかなか歌ってくれないので、困っているという愚痴を言いあう。そして、こうしろああしろと、指示を出しあっていき、時に作曲者の生涯なんかを引き合いに出し、そこを教えて行かなきゃだめだとか、そういう事を話して言って、決定を下していく。特に女の人は、そうなれば話が長くなり、このようなおまけがくっついてくる。

「でもさ、紀夫ちゃんとこは、そんなに専門的にしなくてもいいんでしょ。」

この言葉が紀夫には堪える。方舟に招かれたばかりのころは、やった!これで俺もまともな音楽話ができるなんて喜んでいたけれど、何回か指導を重ねていくうちに、次第にほかの同級生からは、そういう話ができる人間ではないとみなされるようになった。これは、音楽を専門的に学んできた人間にとっては、結構な痛手だ。

「いや、俺たちも頑張って近づけていくよ。」

と、返すけれど、多かれ少なかれ失笑が上がる。

「でもさ、夢見たものはくらいじゃ、まだまだ初心者ね。じゃあ、教える側もかえって楽よね。あたしたちみたいに、女の手で大曲を作らなきゃいけないわけじゃないもんね。」

それは言うなと何回も言いたくなるけれど、使えない岳南電車が走っている地域なんじゃ言われても仕方ないか、と最近は我慢している。

「あたしなんか、最近さ、ひたすらな道をやりたいって人がでちゃった。あんな重たい曲、はっきり言ってやりたくないわ。でも、幸い皆さんやる気があるようだし、そりゃ、技術的に言ったら下手だけど、一生懸命歌おうとしているから、あたしも答えなきゃいけないかな。」

ある、音大卒者の女性がそう発言した。

「へえ、すごいね。あれ、結構難しいよね。歌詞も、何を言っているのかよくわからないし。今時の社会に会う曲なのかと言えば、そうでもないような気もするし。」

別の女性が返答する。

「まあねえ。でも、最近の人は、重たい曲に興味を持つ人が多いよね。かえって音大時代よりも難しいのを取り上げるかもしれない。なんか、大学時代にしっかり勉強すればよかったなあ。」

始めの女性がそういうのも最もだった。大体学生というものは、多くの者が遊びほうけてしまう。一番専門的な知識を得られるのは大学であると思うのだが、そのありがたみを知らないまま、なんとなくで卒業してしまう人が本当に多いのだ。

「いえいえ、誰でもそうやって後悔するもんだから、気にしないでいいのよ。」

と、別の女性がそういうほど、気にしないでいい物にもなっている。

「もし、知識が足りなければ、今改めて勉強すればいいだけの話よ。」

「そうよねえ。まあ、幸い、書籍もたくさんあるし、ネットで調べれば、参考情報もいろいろあるか。」

彼女たちの言う通り、何でもパソコンとかスマートフォンですぐにわかってしまうので、ある程度マニュアルもこっちで作ることはできる。

「でもさ、コンクールとか行くとさ、みんな同じような曲ばっかり歌いたがるよね。だから教える側から見れば、それもつまらないねえ。」

最初に発言した女性が言った。

「ま、ある程度パターン化はしてるよね。まあ、みんな憧れの曲というものはあって、一度や二度はそれをやってみたくなるだけの事よ。」

「でもさ、あたしたちから見たら、本当につまらないよ。だって、いつもおんなじような曲ばっかり教えなきゃならないんだもん。たまには、変わった曲というか、そういうのをやってくれるところはないのかな。大体さ、高田三郎とか、三善晃とか、そういう人ばっかりやりたがる。」

「ちょっと、意識の高い合唱団だと宗教曲とかもやりたがるところもあるけど、私たちが大学で習ってきた曲が、実際に現場で採用されたことはからきしないし、いざやらせると、本当にレベルが低いところから教えていかなきゃいけないから、もう、なんで私がこんなこと!って、思うときもまれじゃないわよ。」

あーあ。贅沢な悩みを言うもんだなあ。

「紀夫ちゃんところはいいわよね。」

不意に彼女たちは、そういうことを言い始める。

「何が。」

「だって、みんな僻地の人なんだから、もうそういう人たちだって割り切れるでしょ。都会の人は、中途半端に知識を得ちゃって、偉い人ぶる人が多いから、安易に発言できないわよ。」

こっちだって、悩んでいることはたくさんあるんだけどなあ。

「僻地の人には、高田三郎なんて教える必要もないんじゃないの。夢見たものはで満足できるんだろうし。楽でいいわね。それに、そんなに知識もないんだから、事前学習もあたしたちほどしなくてよさそうだし、そんなに争おうとする意欲もないだろうから、あんまりうまくなろうとしなくてもいいでしょう。」

「そんなことはないよ。田舎では、音楽を教えることよりも、物理的な障壁が多くて、それなりに大変だよ。」

と、紀夫が反論すると、女性たちは、何を言っているんだと言いたげな顔をして、一瞬ぽかんとしている。

「まあ、田舎なんて、のんびりしていて空気はよくて、人は元気でうまいものがあって、いいんじゃないかしら。」

それなら、あの人たちの傷ついた態度はどうなるんだろう。

大体ね、田舎の人たちに対してそういう優越感を持っているから、彼らが傷ついているのに気が付かないのか。

「それに引き換え、あたしたちはさ、都会の人ってただでさえコンクリートジャングルの中を駆けずり回って、疲れ果てている人が多いんだから、そう言う人たちに癒しの手を出すことも必要になるわけよね。まあ、あたしたちもただでさえ灼熱の都会にいるわけだけど、その人たちに対して、常に偉くて、常に優しい人を演じるのも、ある意味至難の業よ。」

「ほんとね。暑さも寒さも、平等にやってくるもんね。その中で、レベルのひくい人たちを相手にして、引っ張っていかなきゃいけないなんて、やっぱりあたしたちも、玄人よねえ。」

「お前らさ。」

紀夫は、ぼそっと言った。

「もっと恵まれているのに気が付けよ。」

「なに、紀夫ちゃん怒っちゃって。」

「大学時代でも怒ることなんてめったになかったのに?」

いきなりそんな事を言われても優越感が当たり前の彼女たちには、わからなかったらしい。

「レベルの低い人というが、そういう人たちがいて、俺たちは仕事をさせてもらっているのに気がついたら?」

ところが、紀夫がそういっても、都会に住んでいる彼女たちは、声を立てて笑い、こう返したのである。

「ああ、そんなことで悩む必要はないわ。東京には、楽団はごろごろあるんだし、あたしは、楽団が分裂したこともあったけど、あたしを支持してくれる人たちで再結成させたから。」

「それに、新しい楽団は、いろいろ作られているし、それぞれの楽団もコンセプトがあるから、それに合うのを探せばいいのよ。」

つまり、都会には、そういう楽団は星の数ほど転がっているので、仕事を失っても次のものがあるから困らないのである。

「俺たちは、一度入ったらもうやめれないよ。他に需要があるわけでもないし。お前らは、メンバーさんと対立したりしている?ないだろ?例えば、やりたい曲があっても、メンバーさんに受け入れられないとか。」

「あるわよ。でも、他にも行き場はあるって考えれば、怖いことじゃないわ、そんなこと。」

「多少ガチンコバトルして押し通したこともたくさんあるし。でも、例えそれが失敗しても、別の団体がそのトラブルに目を付けてくれることだってあるもんね。」

こればかりは人口の多い場所の特権だった。隣に誰が住んでいるかも気にしなくていい地域ならではの現象だった。

「俺たちがいっているところは、そういうところじゃないんだよ。」

「だから?」

「だから、一度トラブルが起こると、勤め先が失われる可能性だってないわけじゃないんだ。それを考えると、発言するのだって相当勇気が要るんだよ。だから、俺は悩むわけ。高田三郎の曲をやっていい物かどうか。」

「紀夫ちゃん、そういう事は気にしないでいいわ。だって、みんな音楽の知識なんてないんだから、ただいいところだけ強調して、アピールしちゃえばそれでいいのよ。田舎の人なんて、都会ほど悩むことも多くないでしょうし、音楽はさほど普及していないし。」

「まあ、言ってみれば、終身独裁官になったつもりでやればいいのよね。」

彼女たちのような気持が、稲葉さんのような人を生み出すのだと確信した。

「とにかく、気を楽に持ちなさいな。都会ほど、やる気があるわけでもないし、知識があるわけでもないんだから、まあ、ただの飾り物としていってやっているくらいの気持ちで、気軽にやればいいじゃない。」

そういう優越感こそ、一番の弊害だと思う。都会と田舎の一番の違いだと思う。そして、田舎へ行ってしまった自分は、彼女たちからも能力がないとみなされているような気がする。

「高田三郎の曲をやっていいか悩んでいるようだけど、そもそもそんなものを提供する必要もないんじゃないの?どうせ、やる能力も知識もないだろうし。かえって無駄骨折りをして、疲れちゃうわよ。」

女性たちは、多分自分を慰めてくれているというか、アドバイスしてくれていると思うのだが、彼女たちのような気分で生きることは、どうしてもできないと思った。

結局、彼女たちに言っても、解決方法は見つからず、話は平行線のまま終わってしまった。

なんだかなあ、、、家に戻っても、ぼやぼやしたまま、いつまでたってもこの悩みが抜けることがなかった。メンバーさんと軋轢が生じたら、自分の立ち位置がなくなるし、かといって高田三郎を一度でいいからやってみたい気持ちは取れない。あーあ、ダメだなあ、決断力ないなあ、、、。

女性たちと意味のない議論を交わした翌日。回収時間ぎりぎりのごみ置き場に、ため込んでおいたごみを捨てに行って、近くのコンビニにより、お茶を買ってきて、戻ってきたときの事だった。何気なく、玄関前のポストに目をやると、誰かから葉書が入っていた。まあ、都会ではほとんどの用事はダイレクトメールで済ませるのがほとんどで、紙の葉書が来ることはめったにない。あるとすれば、バーゲンセールのお知らせとかそういう宣伝程度なのだが、差出人は、商店ではなく、達筆な毛筆で「磯野水穂」であった。

裏は、漢字を少しばかり崩した、流麗な行書であり、多少解読するのに苦労したが、次のように書いてあった。

「謹啓、先日は、訪問してくださってありがとうございました。見苦しい姿を見せてしまいごめんなさい。皆さんがああして話してくれたのを、利用者さんたちはとても喜んでいたようです。あの、強固な朝原さんも、あんなこと言っていたけど、内心は喜んでいたんですよ。また、彼女たちのためにもいらしてくださいませ。教授も、いつでもお待ちしているそうです。敬白。」

葉書を持った手が震えた。

そうだよな。俺は全く必要とされてないわけではないんだ。

だから、俺がやりたいとか何とか、そういう事を考えるのではないな。

勿論、高田三郎をやれたら、きっと、自分はある程度合唱団を作り上げた人物として認めてもらうことはできるようになることは確かだ。あの作曲家の作品はそういうものだから。でも、俺がやっていることは、それとはまた違うような気がするよ、と誰かがささやく。

方舟は、音楽家という立場から見れば、全く使えない合唱団なのかもしれないけど、また別の面では使えるという特徴も持っている。

それを伸ばしていく事こそ大切なのだろう。

この世では、同じ名前の道具は数多くあるが、それをどのような目的で使うかは、人によって千差万別である。例えば、包丁は、ある人には殺人の道具として使うこともあるが、別の人は、うまいものを作って、人に感謝される喜びのために使う。包丁の側からすれば、すべて同じ包丁であることに代わりはないのだけれど。それに、包丁の種類だって、出刃包丁、柳葉包丁、菜切り包丁、ウナギ裂き包丁など、数多くの種類があり、それぞれ切るものが違う。

そう、昨日の彼女たちは、自分たちを出刃包丁だと思っていて、出刃包丁の立場としてそういう事を言ったんだということに気が付く。出刃包丁で野菜を切ろうとしてもうまく切れない。それなら、包丁を菜切り包丁にすればいい。それだけの事である。

俺は、菜切り包丁として生きて行けばいいな。

そう思えば、気が楽になるな。

事実、こうして、野菜を提供してくれる人から葉書をもらっている。

よし、そうしよう。と、決断した。

ただ、この都会は、菜切り包丁を軽視する人が多く、割と出刃包丁としての意見は多くあるが、菜切り包丁として活動する人には、あまりよい評価を下してくれる人は少ないので、共演者を探したり、会場などを確保するのは難しくなるかもしれない。それに、都会とはメンバーさんの意識が明らかに違っている。それに付け込んで思うがままに動かしてきた稲葉さんをどう動かすかも重要な問題である。そのためには、稲葉さんとガチンコバトルをする必要もあり、勝つために自分の支持基盤をある程度作っておくことも必要である。意外に音楽家は、田舎では四面楚歌に陥りやすいことも、なんとなくだけど聞かされたことがある。

今のところ、方舟の練習に稲葉さんが現れてはいないが、もしかしたら、また戻ってくる可能性もないわけではない。彼女が戻ってきたら、製鉄所で獲得した団結性が、一気に崩れてしまうかもしれない。その前に、何とかしてしまわなければ、ならないな。

よし、そうなれば、くよくよ悩んではいられないなと思った。次の方舟の練習日までに、菜切り包丁、つまり、合唱団の方向性を決定付けること、そして、青柳先生たちがまた訪問してくれと言っている事を伝えること。それを正式に定めたうえで、曲を決めること。

「なんだ、やることはあるじゃないか。」

何もしなくていいなんて大嘘だ。俺は俺でやらなきゃいけないことはいっぱいある。そして、それは、出刃包丁として生きている彼女たちにはわからないことだとは思うけど。

よし、やることがあるんだからぐずぐずしている暇はない。とりあえず、製鉄所をもう一度訪問するために、メンバーさんたちと話さなきゃな、と思いながら、楽譜店にむかって歩き出すのであった。
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