第5話 街灯の暗がりで獏を見た。②

文字数 2,210文字

 獏の幻を見たこと以外はいつも通りの帰路を辿り、家に着いた私は着替えもせずにベットに倒れこむ。
 珍しく定時ピッタリに帰れたはずなのに、心にはよくわからないもやもやが渦巻いている。思い出すつもりはないが、目を閉じると、会社での敦子先輩の姿が目に浮かぶ。


「――もう帰っていいわよ」
 書類の確認を終えた敦子先輩はぶっきらぼうに言った。
「えぇ?」
 訂正したにも関わらず、私の書類の不備はなかなか無くならない。むしろ最初よりも増えたのではないかとも思えるミスの量に、残業を覚悟していた私は思わず間抜けな声を出してしまう。
 馬鹿じゃないの、とそんな私を怪訝そうに一瞥してから敦子先輩は続ける。
「もう定時でしょ」
 時計を見るともう少しで17時になろうかというところだった。他の先輩たちもちらほらと帰り支度を始めている。
「でも、書類の訂正がまだ――」
「いいから。帰れって言われてるうちにさっさと帰っときなさいよ」
 食い下がる私の言葉を無理やり遮るように敦子先輩は言う。もう既に敦子先輩の顔は自分のパソコンのモニターを向いている。それでも帰ろうとしない私に、敦子先輩は慌ただしくキーボードを打ちながら、こう続けた。
「あんたがいてもいなくても、たいして変わんないわよ」
 たいして感情はこもっておらず、淡々とした言葉だったが、私は言葉を返すことができない。
 少しの沈黙の後にやっとのことで「お疲れ様でした」の言葉を絞り出すと、私はふらふらと自分のデスクに戻る。ほんの数mの距離なのにいくら足を前に出してもたどり着かないような気がした。


「……しまった」
 目を開けると外は真っ暗で、どうやら私は小一時間ほど寝てしまったようだった。
 とりあえずお風呂に入ろうと脱衣所へと向かう。もう既に手遅れかもしれないが、シワができないように、スーツを丁寧にハンガーにかけ、それ以外は適当に洗濯機に放り込む。
 一人暮らしになって、久しく湯舟には浸かっていない。長い間洗われていない浴槽にはうっすらと埃が積もっている。今日もいつもと同じように、シャワーだけにしておこう。温度の調整には慣れたもので、うまい具合に水とお湯の蛇口をひねり、少しぬるめのお湯にしてから、頭からシャワーを浴びていく。
 いつもなら、1分ほどシャワーを浴びているうちに気持ちがさっぱりするはずなのに、いつまでたっても心は鬱々としたままだ。今度は目を瞑り、できるだけ肩の力を抜いてみる。
 ぐるん、
 と体がひっくり返るような感覚。突然のことに思わず息が止まる。
 ……まただ。
 間髪入れずに今度は体が内側から押されるようにこわばる。
 ……またあの夢を見ているのか。
 変な感覚は治まるどころかどんどんひどくなっていくが、私は目を閉じたままでいる。しばらくすると、肘に何かが当たる。そこでようやく私は目を開けた。
 目の前にはさっきまでと同じ埃まみれの浴槽。ただ違う点と言えば、浴槽にあるものすべて、もっと言えば浴室全体が一回り小さくなっていることだ。

 ――いや違う、浴室が小さいんじゃなくて、私が大きくなっているんだ。

 とどまることを知らずに私はどんどん大きくなっていく。あっという間に背中が天井に付き、難なく天井を突き破る。上に部屋はなく、見上げると少しだけ夜空が近く見えた。体はとっくの昔に薄い壁を突き破っていて、これは隣の人には悪いことをしたと、ちょっぴり罪悪感に苛まれる。
 やがて、床がみしみしと嫌な音を立てだしたので、とりあえず私は衝撃に備えてお尻に力を入れる。どうか下に人がいませんように。
 バキバキッ、と木造建築特有の音とともに、私のお尻を硬い衝撃が襲う。尾てい骨の鈍い痛みに涙が出るが、同時に誰も尻に敷いていないことに安堵する。
 巨大化はしばらく続き、その間も私の体は無抵抗の築20年のぼろアパートを破壊していく。やっとのことで私の体が大きくなるのを止めたとき、ぼろアパートは半分以上が破壊され、もはやそこにかつての面影はない。せっかく20年も倒れることなく立っていたのに、突然内側から体を突き破られるとは。このぼろアパートのことをひどく気の毒に思ってしまう。
 巨大な全裸の女が突然現れたというのに、不思議なことに辺りはしんと静まったままで、人っ子一人いない。誰も見る人がいないので羞恥心なぞ感じるわけもない。
 とりあえず私はいつもより近い夜空の星を眺めることにしたが、あいにく空は曇っていて、見える星などありはしない。ふと下を見ると繁華街の明かりがまぶしくて、不本意ながら、こっちの方が綺麗だなと思ってしまった。


「さて、ここからどうするかのう」
 轟音とともに現れた巨大な裸の女性を前に、獏はのんびりと僕に尋ねる。
「とりあえず、目のやり場には困りますね」
 夢とはいえ、いや夢だからこそ、まじまじと見るのも悪いと思い僕は女性から目をそらす。こういう時はなぜだか罪悪感が全面に出てきてしまうものなのだ。
 ういやつめ、と馬鹿にしたように獏は鼻を鳴らす。
「あまりにも出番がないから暇じゃったが、ここからが本番じゃな。」
 獏はあたかも美味しそうな匂いを楽しむかのように、目を細める。獏は楽しそうだが僕の心は不安でいっぱいだ。そんな僕にはお構いなしに獏は続ける。

「さあ、お前はこの夢をどう料理する?」
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