第三話 森の奥で
文字数 3,585文字
これで何個目だろう。気がつくと、数を忘れるほど赤い球体を辿っていた。
家の周辺や森の入口に多く生息している、ツリビトトカゲやホシヨビグモと言った、光を放ち、獲物を誘き寄せる小動物達の姿は消え、木々の隙間からちらちらと見えていた、星の瞬きのような細かな点滅もすっかり息を潜めている。
森の奥にも、輝きの花の姿を失ってはいなかったのだが、圧倒的に数が少ない。大きな間隔を開けながら、数輪からなる小さな群れを成しており、その陽だまりはこの霧や闇に全くもって敵っていない。
獣によるものなのか、ときおり森の奥から聞いた事のない、甲高い叫び声のようなものが聞こえてくる。そろそろ本格的に恐怖心が全身を覆っていた。
もう帰りを待つ家族はいない。家を出た時は、この森で倒れてしまっても構わないという想いがあった。その気持ちが強かったからこそ、こんな夜中に森に入れた部分もあった。
しかし、いざ森の中に入り、死を意識し始めると、やはりどうしてもその恐怖心が大きな強さを見せつけてくる。一歩を踏み出す度にそれは膨れてゆき、少しでも衝撃を与えようものなら、すぐにでも破裂しそうであった。ほんの少しの風で、なびいた草木の擦れる音がこんなにも大きく聞こえた事は今までになかった。
来る前に呑んだ、あの紅茶が妙に懐かしい。なにげない生活の一部の記憶が、やたらと恋しさを教える。この先グリンデがいるのではないかという好奇心と、真夜中に森の中にいる恐怖とを天秤にかけた時、もはや後者が勝ってきていた。
そして何だか、突かれる様な痛みを伴う変な頭痛と、眩暈がしている。不思議と、眠くなってきたような気もする。
もう止めよう。こんな所に魔女など要る訳がない。そろそろ引き返そうと思い、後ろを振り返った時だった。目の前に行く手を塞ぐものが現れた。来た時にはなかったはずの、手首くらいの太さの枝が垂れ下がっていたのである。
道を間違えたかと思ったが、やはりその枝の向こう側にはあの赤い球体が続いており、こちらを出口へと導いている。
(……やっぱりなんか変、かも)
もはや帰路へ向かう疑問はない。急いでかがみながらその枝をすり抜けた。
それは、さて立ちあがろうとした時であった。心臓が大きな音をたて、全身に鳥肌が生まれた。乾いた何かが腕に纏わりつく感触がしたのだ。振り返る前に、大きく振りほどく仕草をしたが、その感触は離れない。手首を見ると、道を塞いでいたあの枝……いや老婆のものように、しわがれた手に掴まれていたのである。
「いやぁぁぁ!」
駆けると同時に、思い切り腕に力を入れて、その手を振りほどく。あとは狂乱である。
(赤い目印、赤い目印!)
ひたすらにあの赤い球体の後を追った。
しかしどうしていきなり手が。妙な事を考えていたから、それが現実化したとでもいうのだろうか。
足元を覆う草木が邪魔で仕方なかった。跳ねるようにして、それを飛び越えて行く。
「あぁ!」
恐れていた事態が起きてしまった。生い茂った草の塊を飛び越えた際、着地しようとした場所に大きな木の根が張っており、それに足を囚われてしまったのだ。オリビアは枝や草木で手足をすりむきながら、森の湿った土に転がるようにして雪崩れ込んでしまった。
「うぅ……」
辺りに火花が散る。一瞬意識がくらんだ。しかし倒れこんでいる場合ではない。ぐらついた風景をよそに立ちあがり、前を向いた時であった。低く重い声が耳に響く。
「……無理だと言っただろうに」
何と、悪夢で見たあの骸が、こちらを見て不気味な笑みを浮かべているではないか。
「い、いや!」
もはやあの赤い球体しか見えていない。いやそれを見ることすらやっとである。オリビアはよろめく足に鞭を打ち、ひたすらに来た道を駆け戻った。
(な、何が起きているの?)
森の中の険しい道は予想以上に体力を削る。今や、草木や木の根は邪魔というより、憎しみの対象でしかない。息もだんだん上がってきて、指先は痺れを覚えている。
(もうだめ……)
手足が重い痛みを唱え、いよいよオリビアは地面に膝をついてしまった。妙な頭痛は痛みを増し、眩暈からか、触れている地面は何かの生地の上にでもいるかのようである。
しかし悪夢は冷めてはくれない。無様な四つん這いの恰好で、はぁはぁと粗い呼吸をしていると、見つめていた地面にそろそろと蔦のような物が伸びてきた。
(つ、次は何?)
朦朧とする意識の中で顔を上げると、細長い突起物が目に入った。その突起物は大きな楕円形をしており、まさに植物の蕾を思わせ、太い茎に支えられている。そして根の部分には、伸びた蔦が何本もびっしりと生えており、それが手足のようにうねうねと蠢いている。
その奇妙な植物のようなものは、根のような触手を足にして少女の近くまで寄ると、細長いつぼみを大きく開いた。ふいに、熟した果実を潰したような、甘ったるい匂いが辺りにたち込める。花はなんとも不気味で、ぼこぼこと赤黒い瘤のようなものをつけ、花弁の淵に獣の牙のような刃を連ねている。その花は、よだれのようにだらぁと粘着性のある液体を垂らしながら、ゆっくりとオリビアに覆いかぶさろうとしてきた。
(まさか、私を食べようとしているの!?)
この行動に移れたのは、火事場が見せた少女の底力であろう。咄嗟に肩にかけていた革の鞄に手を入れ、ナイフを取り出すと、花が覆いかぶさって来るのと同時に、大きく真上にそれを突き上げた。
「キキー!」
寸でのところで花の中心にナイフが突き刺さり、赤黒い液体が流れ出る。何処から放ったかはわからないが、その植物は大きな悲鳴を上げ、触手をうねらせながら地面にのたうちまわり、暫くすると静かになった。
オリビアは隣で生えていた細い樹木を掴むと、それを支えにして立ちあがった。
先ほど植物にナイフを突き立てた時に触れた体液のせいか、手は痺れだけでなく赤々と腫れを帯び、震えている。ランタンは掴む事が出来ず、地面に置くことしか出来ずにいた。地から伸びたその灯りを頼りに森を見渡すと、眼前に生えている草達の陰が、大きく揺れている事に気が付いた。
(ま、まさか……)
この奇妙な植物が何匹も群れをなしてオリビアに向かって歩いて来ているのが、暗闇でもわかった。
痛む手でなんとかナイフを掴み、急いでその植物たちへ切っ先を向ける。
先ほどはかがんでいたせいもあってか、その植物はとても大きく見えたが、今こうして立ちあがってみると、さほど大きくはない、オリビアの胸くらいの高さしかなかった。動きも遅く、なんとかなるかもしれない。いやなんとかするしかない。
近づいて来る植物の茎をめがけて水平にナイフを振り、一匹一匹刈ってゆく。
何度断末魔を聞いただろう。結構な数を刈ったはずだが、まだまだ沸いて出る。
花から飛ばされた粘液を全身で浴びてしまったせいか、もはや足には力が入らず、横に生えている木を支えにしなければ立っていられなくなっていた。意識も朦朧としていて、景色は完全に歪んでいる。
──キン
二つに重なったようにぶれる、その赤黒い花に向けて大きくナイフを振りかざした時、甲高い金属音と共に、握っていた手のひらが軽くなった。触手にはじかれ、ナイフが何処かへ飛ばされてしまったようだ。
(……お母さん)
もはやここまでか……。オリビアは、とうとう崩れるようにして倒れて込んでしまった。大きな衝撃が全身を襲ったが、痛みは全く感じない。
(……苦しまないで死ねるなら、まだ良かったのかな)
声を出すことも出来ない。最も、出したところで、こんな森の奥に人がいるはずがない。誰も自身を助けてはくれない。もう諦めるしかないのだ。
とろりと、自然に瞼が閉じかかった。
「散れ!」
先程の恐怖心が骸を呼んだように、今度は自分の淡い願い、妄想が具現化したのであろうか。それは完全に幻聴だと認識していた。薄れる意識の中、女性の力強い声が辺りに響いた。その声と同時に赤い光が視界を包む。
ちりちりと何かが燃えるような音が聞こえると、次々と聞き覚えのある甲高い叫び声が何度か聞こえ、目の前を覆っていた花達が、少しずついなくなってゆく。
暫くして辺りが静かになると、ゆっくりとした足音が段々と自分に近づいて来た。身体を起こしたいが、全身の感覚が全くない。その者の足先をぼんやりと見ることしか出来なかった。
その者は丈の長い腰衣を着ているのか、ひらひらと黒い布をなびかせている。もう瞼はほんの少ししか空いていない。確認するのがやっとだが、目の前でなびくその黒い腰衣は、不思議とうっすらと赤い光をまとっているように見える。
とうとう、少しずつ近づいてきたその黒い布が視界を塞ぎ、辺りの世界が閉ざされてしまった。微かだが腰元を掴まれているような気がする。
(花じゃなくて、さっきの死神に殺されるのかな)
抱きかかえられるような感覚を最後に、少女は完全に意識を失った。
家の周辺や森の入口に多く生息している、ツリビトトカゲやホシヨビグモと言った、光を放ち、獲物を誘き寄せる小動物達の姿は消え、木々の隙間からちらちらと見えていた、星の瞬きのような細かな点滅もすっかり息を潜めている。
森の奥にも、輝きの花の姿を失ってはいなかったのだが、圧倒的に数が少ない。大きな間隔を開けながら、数輪からなる小さな群れを成しており、その陽だまりはこの霧や闇に全くもって敵っていない。
獣によるものなのか、ときおり森の奥から聞いた事のない、甲高い叫び声のようなものが聞こえてくる。そろそろ本格的に恐怖心が全身を覆っていた。
もう帰りを待つ家族はいない。家を出た時は、この森で倒れてしまっても構わないという想いがあった。その気持ちが強かったからこそ、こんな夜中に森に入れた部分もあった。
しかし、いざ森の中に入り、死を意識し始めると、やはりどうしてもその恐怖心が大きな強さを見せつけてくる。一歩を踏み出す度にそれは膨れてゆき、少しでも衝撃を与えようものなら、すぐにでも破裂しそうであった。ほんの少しの風で、なびいた草木の擦れる音がこんなにも大きく聞こえた事は今までになかった。
来る前に呑んだ、あの紅茶が妙に懐かしい。なにげない生活の一部の記憶が、やたらと恋しさを教える。この先グリンデがいるのではないかという好奇心と、真夜中に森の中にいる恐怖とを天秤にかけた時、もはや後者が勝ってきていた。
そして何だか、突かれる様な痛みを伴う変な頭痛と、眩暈がしている。不思議と、眠くなってきたような気もする。
もう止めよう。こんな所に魔女など要る訳がない。そろそろ引き返そうと思い、後ろを振り返った時だった。目の前に行く手を塞ぐものが現れた。来た時にはなかったはずの、手首くらいの太さの枝が垂れ下がっていたのである。
道を間違えたかと思ったが、やはりその枝の向こう側にはあの赤い球体が続いており、こちらを出口へと導いている。
(……やっぱりなんか変、かも)
もはや帰路へ向かう疑問はない。急いでかがみながらその枝をすり抜けた。
それは、さて立ちあがろうとした時であった。心臓が大きな音をたて、全身に鳥肌が生まれた。乾いた何かが腕に纏わりつく感触がしたのだ。振り返る前に、大きく振りほどく仕草をしたが、その感触は離れない。手首を見ると、道を塞いでいたあの枝……いや老婆のものように、しわがれた手に掴まれていたのである。
「いやぁぁぁ!」
駆けると同時に、思い切り腕に力を入れて、その手を振りほどく。あとは狂乱である。
(赤い目印、赤い目印!)
ひたすらにあの赤い球体の後を追った。
しかしどうしていきなり手が。妙な事を考えていたから、それが現実化したとでもいうのだろうか。
足元を覆う草木が邪魔で仕方なかった。跳ねるようにして、それを飛び越えて行く。
「あぁ!」
恐れていた事態が起きてしまった。生い茂った草の塊を飛び越えた際、着地しようとした場所に大きな木の根が張っており、それに足を囚われてしまったのだ。オリビアは枝や草木で手足をすりむきながら、森の湿った土に転がるようにして雪崩れ込んでしまった。
「うぅ……」
辺りに火花が散る。一瞬意識がくらんだ。しかし倒れこんでいる場合ではない。ぐらついた風景をよそに立ちあがり、前を向いた時であった。低く重い声が耳に響く。
「……無理だと言っただろうに」
何と、悪夢で見たあの骸が、こちらを見て不気味な笑みを浮かべているではないか。
「い、いや!」
もはやあの赤い球体しか見えていない。いやそれを見ることすらやっとである。オリビアはよろめく足に鞭を打ち、ひたすらに来た道を駆け戻った。
(な、何が起きているの?)
森の中の険しい道は予想以上に体力を削る。今や、草木や木の根は邪魔というより、憎しみの対象でしかない。息もだんだん上がってきて、指先は痺れを覚えている。
(もうだめ……)
手足が重い痛みを唱え、いよいよオリビアは地面に膝をついてしまった。妙な頭痛は痛みを増し、眩暈からか、触れている地面は何かの生地の上にでもいるかのようである。
しかし悪夢は冷めてはくれない。無様な四つん這いの恰好で、はぁはぁと粗い呼吸をしていると、見つめていた地面にそろそろと蔦のような物が伸びてきた。
(つ、次は何?)
朦朧とする意識の中で顔を上げると、細長い突起物が目に入った。その突起物は大きな楕円形をしており、まさに植物の蕾を思わせ、太い茎に支えられている。そして根の部分には、伸びた蔦が何本もびっしりと生えており、それが手足のようにうねうねと蠢いている。
その奇妙な植物のようなものは、根のような触手を足にして少女の近くまで寄ると、細長いつぼみを大きく開いた。ふいに、熟した果実を潰したような、甘ったるい匂いが辺りにたち込める。花はなんとも不気味で、ぼこぼこと赤黒い瘤のようなものをつけ、花弁の淵に獣の牙のような刃を連ねている。その花は、よだれのようにだらぁと粘着性のある液体を垂らしながら、ゆっくりとオリビアに覆いかぶさろうとしてきた。
(まさか、私を食べようとしているの!?)
この行動に移れたのは、火事場が見せた少女の底力であろう。咄嗟に肩にかけていた革の鞄に手を入れ、ナイフを取り出すと、花が覆いかぶさって来るのと同時に、大きく真上にそれを突き上げた。
「キキー!」
寸でのところで花の中心にナイフが突き刺さり、赤黒い液体が流れ出る。何処から放ったかはわからないが、その植物は大きな悲鳴を上げ、触手をうねらせながら地面にのたうちまわり、暫くすると静かになった。
オリビアは隣で生えていた細い樹木を掴むと、それを支えにして立ちあがった。
先ほど植物にナイフを突き立てた時に触れた体液のせいか、手は痺れだけでなく赤々と腫れを帯び、震えている。ランタンは掴む事が出来ず、地面に置くことしか出来ずにいた。地から伸びたその灯りを頼りに森を見渡すと、眼前に生えている草達の陰が、大きく揺れている事に気が付いた。
(ま、まさか……)
この奇妙な植物が何匹も群れをなしてオリビアに向かって歩いて来ているのが、暗闇でもわかった。
痛む手でなんとかナイフを掴み、急いでその植物たちへ切っ先を向ける。
先ほどはかがんでいたせいもあってか、その植物はとても大きく見えたが、今こうして立ちあがってみると、さほど大きくはない、オリビアの胸くらいの高さしかなかった。動きも遅く、なんとかなるかもしれない。いやなんとかするしかない。
近づいて来る植物の茎をめがけて水平にナイフを振り、一匹一匹刈ってゆく。
何度断末魔を聞いただろう。結構な数を刈ったはずだが、まだまだ沸いて出る。
花から飛ばされた粘液を全身で浴びてしまったせいか、もはや足には力が入らず、横に生えている木を支えにしなければ立っていられなくなっていた。意識も朦朧としていて、景色は完全に歪んでいる。
──キン
二つに重なったようにぶれる、その赤黒い花に向けて大きくナイフを振りかざした時、甲高い金属音と共に、握っていた手のひらが軽くなった。触手にはじかれ、ナイフが何処かへ飛ばされてしまったようだ。
(……お母さん)
もはやここまでか……。オリビアは、とうとう崩れるようにして倒れて込んでしまった。大きな衝撃が全身を襲ったが、痛みは全く感じない。
(……苦しまないで死ねるなら、まだ良かったのかな)
声を出すことも出来ない。最も、出したところで、こんな森の奥に人がいるはずがない。誰も自身を助けてはくれない。もう諦めるしかないのだ。
とろりと、自然に瞼が閉じかかった。
「散れ!」
先程の恐怖心が骸を呼んだように、今度は自分の淡い願い、妄想が具現化したのであろうか。それは完全に幻聴だと認識していた。薄れる意識の中、女性の力強い声が辺りに響いた。その声と同時に赤い光が視界を包む。
ちりちりと何かが燃えるような音が聞こえると、次々と聞き覚えのある甲高い叫び声が何度か聞こえ、目の前を覆っていた花達が、少しずついなくなってゆく。
暫くして辺りが静かになると、ゆっくりとした足音が段々と自分に近づいて来た。身体を起こしたいが、全身の感覚が全くない。その者の足先をぼんやりと見ることしか出来なかった。
その者は丈の長い腰衣を着ているのか、ひらひらと黒い布をなびかせている。もう瞼はほんの少ししか空いていない。確認するのがやっとだが、目の前でなびくその黒い腰衣は、不思議とうっすらと赤い光をまとっているように見える。
とうとう、少しずつ近づいてきたその黒い布が視界を塞ぎ、辺りの世界が閉ざされてしまった。微かだが腰元を掴まれているような気がする。
(花じゃなくて、さっきの死神に殺されるのかな)
抱きかかえられるような感覚を最後に、少女は完全に意識を失った。