【3日目 8月3日】

文字数 3,544文字

約束の時間より10分早くラウンジに着くと、横川さんはすでに到着していた。今日は紺のスーツにネクタイを締めている。
「おはようございます。朝食は済ませましたか」
「はい」
朝は、1階のレストランで、いつもバイキング方式の食事を頂いている。
「まもなくオーナー様がいらっしゃると思いますので、少しお待ちください。
一応、私の方からお二人をご紹介いたしますので、私のアシスタントという事で、了承しておいてください」
「わかりました」と、二人で答えると、そこへオーナーらしき男性が現れた。
濃いグレーのスーツに紺と白の柄物のネクタイを締めた紳士だ。
85歳と聞いていたが、姿勢もよく実年齢よりも10歳位若く見える。
「こんにちは、薮下と申します」
そう言うと右手を出して握手を求めて来た。
横川さんが、僕らを紹介したあと、テーブルを囲み席に着いた。
「今回は色々とお世話になります。宜しくお願いいたします。お若い好青年がお二人もいらして心強いです」
終始、笑顔で上機嫌のようだ。
その後、30分程度の打ち合わせで、今回の絵画入れ替えはロビーの一点だけ、という事になった。すでに交換する絵はオーナーの中で決めてあるそうだ。一応、今夜その絵を確認するために、地下の保管庫に行く事に決まった
。横川さんはオーナーの薮下さんと連れ立ってホテルをでて行った。

僕らは、ラウンジに残り、ぬるくなったコーヒーを啜っている。
「薮下さんて、ええ人そうじゃない」哲也がこんな風に言うのも珍しいことだ。
「僕もそう思ったよ。あの人が、そんな事件に関わっているなんて想像しにくいな」
そんな話をしていると、突然、僕の携帯が震えた。見ると浩二からのラインだ。「君達にとても大事な話がある。ホテルでは話せないので15:00に『凡』で会えないか?」という内容だ。
「どうする哲也?」
「断る理由がないやろう」
「じゃあ、返事するぞ」
「ああ」
そして、その日の午後、浩二と待ち合わせる事になった。

鴨川沿いの喫茶『凡』は30人程度の客席のある店だ。今までには気にも留めなかった壁の絵画に目が行く。
約束よりもだいぶ早い時間に着いてしまった。
何だか落ち着かず、早めにホテルを出てしまったのだ。
浩二は18:00からのバイトで、僕たちは保管庫調べで、17:30にラウンジで横川さん達と待ち合わせをしている。
15:00、浩二が現れた。哲也と僕は向かい合って座っている。その僕の横に腰を下ろした。
「時間がないので、早速本題に入るで。こらバイト先の上司に聞いた話なんや。横川はんというのは、昔、このホテルの社員として働いとった人なんだそうや。ここ2、3日、よく見かけるので、その話が出てきた。」
「え、ほんまか!」
「どうりでオーナーと親しいはずだ。信頼がある訳は、そういう事だったんだな」
「ほして横川はんのお父はんというのが、名画の修復士として有名な人やったらしい」
「なんや、その修復士ってのは?」
「それは何百年も昔の名画がきれいに残っとるのは、現代の科学とか技術を使って、定期的に修復しとるからなんや。その仕事をしとるのが修復士」
「つまり横川さんのお父さん」
「そう言う事。もともとは画家志望やったらしい」
「へえーたいしたもんやね」
「1968年のロートレック《マルセル》盗難事件の時も、何度も事情徴収に呼ばれとったらしい。結局のところ、なんもわからず時効をむかえて《マルセル》は戻ったものの、真相は謎のまんま」
「その人、横川さんのお父さんは生きているの?」
「いや、10年前に亡くなっとる」
「結局、真相は誰も分かれへんまんまか・・・」
「いや、その横川はんのお父はんと、うちの薮下はんはが、当時、懇意にしとったらしい」
「という事は、オーナーが何や知っとるとか・・・」
「たぶん」
「横川さんと、オーナーの薮下さん、そして横川父。それにふたつの盗難事件。何処かで繋がっているのだろうか」
「壮太、俺もそれを考えとったんやけど、その先が見えてこない」哲也が浩二と僕の顔をみて吐く・・・・
浩二のお陰で新たな情報を得ることが出来てものの、この先、真相が見えてくるのだろうか。
三人で話し込んでいるうちに、そろそろホテルに戻らなければいけない時間になっていた。

ホテルの部屋に戻り、時間を確認すると、すでに17:00をまわっている。支度を済ませてロビーに降りることにする。
ロビーには早々と横川さんとオーナーが到着していた。
「遅くなってすんまへん」
「いやいや、まだ時間前だ。少し早いですが、皆お揃いの様なので早速行きますか」
オーナーを先頭に4人はホテルのバックヤードから、地下に行くエレベーターに乗り保管庫に向かう。このエレベーターまでの道程は、浩二に教えてもらった通りだ。地下2階に降りて長い廊下を進む。ここからは浩二の情報にも無い未知の場所だ。廊下の突き当りを曲がったところで大きな扉の前に着いた。
扉には2か所、鍵がかかっている。オーナーが施錠を外す。扉が開き広い空間が目に飛び込んできた。多分、25mプールが三個は入りそうなおおきさだ。オーナーについて中へ進んでゆく。保管庫の中は湿度、温度全て調整されているようだ。さらに奥に進むと、幾つもの間仕切りが立ち並び、絵画が飾られている。テーブルと椅子のセットが幾つかあり、その一つを進められ腰を落とす。オーナーが僕と哲也にむきなおりながら「絵はお好きですか?」
「興味はあるんどすが、まるっきしの素人で」
「今日も、美術館に行って来たところなんです」
「ほう、それはそれは」
「素人にはどんな絵がええでしょうか」
「うん、そうだねー、フェルメールなんかどうでしょう」
一瞬、唾を飲んでしまった。
その時の横川さんの顔を見たかったのだが、とても視線を向ける事ができなかった。多分、哲也も同じだったろうと思う。
「よかったら、ゆっくり見て行ってください」
横川さんがここぞとばかり進んで立ち上がり。「じゃあ、僕も少し拝見させて頂くかな」
僕ら二人もそれぞれに続いた。
しばらくすると、オーナーが奥より一枚の絵を持って近づいて来る。
「皆さんのお捜しの絵はこちらかな・・」オーナー手には縦横70センチ程の油彩画がある。
3人共、言葉を失い立ちすくんでしまう。
そばに寄らなくとも、その絵はなんであるかは、三人共、十分に認識できた

しばらくの沈黙の後、最初に口を開いたのは哲也だ。
「フェルメールの《合奏》、ですよね」
「その通り。1990年にイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から盗難に遭い、行方不明になったフェルメールの《合奏》だ」
「薮下さん、何故これを・・・」横川さんがやっと言葉を口にした」
「横川君、よく見たえ」
「え!」
「これは複製画だ」
「どういう事でしょうか」
僕らはしばらく二人の会話を見守っていた。
「実によく描かれたレプリカだ。この絵は君のお父さんが生前に描いたものだ」
「なんですって」
「君のお父さんは、修復士として、とても腕のいい持ち主だった。しかし、もともとは画家志望。当時フェルメールの世界が好きだった。その頃に彼が描いたのがこの作品だ」
オーナーの話は続く
「1968年に京都国立近代美術館でロートレックの盗難事件が起きた時に、お父さんを含めた画家、修復士、美術関係者、それに私の様なコレクターまでも皆、呼び出されて事情聴取を受けた。結局のところ何もわからず、時効を迎えている。
その後に起きたフェルメールの事件。当初はフェルメールの熱狂的ファンの仕業と思われていた。
そこでお父さんは、昔の騒動を思い出して、このレプリカの絵を私に預けに来た。もう二度と、あんな騒動に巻き込まれたくなかったんだろうね!
私がこの絵を所有している事は、内々の人間で知っている者も何人かいるはずだ。おそらく、尾ひれが付いて君の耳にも届いたかもしれない」
「え、そんな・・・」
「皆さん、今回の絵画入れ替えは、この絵を飾ろうと思います」
「あ、はい!」
僕たち3人は、一拍おくれた返事をした。
「秋までの予定だ。その後は・・・・横川君、君に返したいのだが、構わないだろう」
横川さんは、暫く絵に見入っていたが、オーナーの方を振り返り。
「はい、わかりました。絵画コレクションの交換、及びその後の引き取り、承知致しました」
「うん、宜しく頼むよ」
「薮下さん。」
「うん、何かな」
「長い間、お預かり頂きまして有難うございます」
オーナーと横川さんの顔には笑みが戻っていた。
その時、僕と哲也は虚を突かれた顔をしていた事だろう。

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