ナディールの剣士

文字数 4,077文字

 市民によく見えるよう、木で組まれた台の上に、年頃の娘たちがずらりと並んでいる。娘達の顔は皆憂愁に沈み、中には虚ろな目を天に向ける者もいた。

 アスカトラの娘は生涯に二度天を振り仰ぐ──という、ワタリの宿で聞かされた詩句をウィルは思い出した。
 一度は奴隷主に手を引かれ故郷を離れる時、二度目はこうして奴隷市に立ち並ぶ時。天空の彼方に座すと言われるこの国の主神・アガトクレスに我が身を救い出して欲しいと祈りを込めるため、彼女達は虚空を見つめるのだ。

 アスカトラ合邦王国がカイザンラッド皇国に収める平和税の取立てが厳しいため、娘を身売りしてようやく税を払えるものが多い、とウィルはワタリの宿で老人から聞かせられたのだが、やはりこの娘達もそうして身売りされてきた者達だというのだろうか。

 娘の一人が祈りのため組んでいた両手を解き、空から視線を目の前に戻す。
 クロノイア市民の多くが娘の前で足を止め、興味深げに品定めを始めた。
 娘の血色の悪い頬は優美な曲線を描き、潤んだ黒い瞳は長い睫毛とあいまって見る者の庇護欲を掻き立てる。身体は痩せぎすでとても丈夫そうには見えない。薄幸という言葉を絵に描いたような娘だ。

「さて紳士淑女の皆様、この娘はこう見えても体力には恵まれておりまして、そこらの娘の倍は働きます。あまり飯も食わないので維持費もかからない。食わない分だけ眠りも浅いのでそれだけ長く働きますよ」
 
 大柄な奴隷主はにやついた顔で娘を眺めやると、聴衆に向き直った。ここに集う者は皆クロノイアに奴隷を求めに来た者達であるらしい。

「しかし、口だけなら何とでも言える。すぐに倒れちまいそうに見えるんだが、本当にそいつが人一倍働くという証拠はあるのかい」
 
 聴衆の一人が奴隷主に問を向けた。
「なら、こうして見せれば納得していただけますかな」
 
 奴隷主は贅肉で膨れた太い腕を振り上げると、その場で力いっぱい娘の頬を張り飛ばした。
 乾いた音が辺りに響いたが、娘はわずかに奴隷主から顔をそむけただけで、倒れるどころか痛がる素振りすら見せない。

「いかがですかな、このように、この娘は大層丈夫で従順でございます」
 
 奴隷主が得意気に胸をそびやかすと、聴衆の間にどよめきが広がった。
 並の男でもふらつくほどの打撃を頬に食らったはずなのに、娘はその場から微動だにしない。
 見た目が美しく、しかも頑丈で主人にも逆らわないとなれば、これは奴隷としては理想的だ。

「10ギルダスだ」
 
 聴衆の一人からそう声が飛んだ。
 奴隷の競りはこうして誰からともなく値が付けられることから始まる。もちろんこの値で競り落とせるなどとは誰も思ってはいない。

 「12ギルダス!」
 
 その隣の男が声を張り上げた。その声につられて、聴衆が次々と値を付けていく。

 「いや、15だ」「17ギルダス」「20だ!」 
 
 あっという間に娘の値は最初の値の二倍に釣り上がった。奴隷主の平手打ちがよほど効いたのか、聴衆の間にいつにない熱気が立ち込めている。

「25ギルダス」「30ならどうだ?」「40ギルダスなら出せる」

 互いが互いの声に煽られるように競争が加速し、みるみるうちに娘の値は高くなっていく。奴隷主は満足気に唇の端を釣り上げた。

 「75ギルダスならどうかしら」
 
 人垣の奥から艶めいた声をかけた婦人がいた。黒貂の艶やかな毛皮をまとったその姿はいかにも裕福そうにみえる。
 聴衆は互の顔を見合わせ、何事か囁き交わしている。どうやらこの婦人を超える額を出せる者はこの場にはいないらしい。

「それでは、そちらのご婦人の75ギルダスで決定、でよろしいですかな」
 
 奴隷主がそう問いかけると、誰も答える者はいない。婦人は艶然と微笑み、この場の勝者となったことに心から満足している様子だ。
 しかしその時、人垣の後ろから鋭い声が飛んだ。

「150ギルダスならばどうだ」

 その声に皆が一斉に後ろを振り向くと、そこに立っていたのはウィルだった。
 驚きに目を丸くするコーデリアの脇で、ウィルは静かに微笑んでいる。

「一体何をする気なんです、ウィル?貴方には奴隷を買う趣味があるのですか?そもそも私達にはそんなお金は……」
「150ギルダスですって?貴方のような方にそれほどのお金が払えるのかしら」

 コーデリアの言葉を遮るように、婦人は眉根を寄せつつ問いかけてきた。

「実のところ、今は持ち合わせがないのですがね」
 
 ウィルは平気な顔でそう答えた。奴隷主が訝しげな視線を投げてよこす。

「おいおい、そいつは困るね。うちではツケは受け付けてないよ。この場できっちり頂くものはいただく方針なんでね」
「なら、少々待ってはもらえないかな?あと四半刻もあれば、この場で150ギルダス、耳をそろえてお支払しよう」
「本当にそんなことができるのかい、お兄さん」
「あれを御覧(ごろう)じろ」

 ウィルの指差した先には小さな舞台が用意されており、その上で半裸の逞しい男が横幅の広い男と激しく剣を交えている。紅い入れ墨を彫り込んだ身体はナディール族であることの証だ。男が動くたびに、後頭部で馬の尾のように束ねられた黒髪が激しく揺れる。
 男達の周りには人だかりができており、しきりにそれぞれの剣士の名を叫ぶ声が聞こえる。

「いいぞ、ベリル、そのままそいつをやっちまえ!」
「クムラン、負けるんじゃねえぞ!今日の酒代がかかってるんだからな!」

 どうやら、ここでは剣士の勝負を巡って皆が賭けをしているらしい。
 場の熱気が頂点に達する中、半裸の男がもう一人の男を追い詰めつつあった。ナディール族らしき男は素早く何度も打ち込むと相手の剣を叩き落とし、尻餅をついた男の眼前に切っ先を突きつけた。

「そこまで!勝者、クムラン!」

 審判の鋭い声が飛ぶと、クムランと呼ばれた男は細い目を怒らせ、天に剣を突き上げ雄叫びをあげた。
 傍目に見ていても、クムランの剣技は圧倒的だった。剽悍(ひょうかん)なナディール族の中でも、この男はひときわ優れた戦士であるらしい。

「クムラン!クムラン!」

 天を衝くような歓声に応え、クムランはその場で剣舞をひとさし舞ってみせた。
 流れるように滑らかな動きは神々しさすら感じさせ、見るものの目を釘付けにする。

「ちょっと失礼するよ」

 クムランの勝利に湧く観客たちをかき分けつつ、ウィルは客席の前へと進んだ。

「ここでは飛び入りの剣士は受け付けているかな」

 闘技場の脇に立つ興行主らしき男に問いかけると、男は目を見張った。

「ああ、受け付けてるが、本気かい?あんたは剣士なんて柄にゃあ見えないが……」
「真の戦士は見た目で人を判断しないものだ。そうではないか?」

 ウィルがクムランの方に首を回しつつ言うと、クムランは細い目の奥から刺すような眼光を送り込んできた。

「ほう、クムランが笑わない……か。あんたも多少はできるらしいな。ならばよし。参加を認めよう」
「ところで、自分自身に張ることは認められるだろうか」
「もちろんだ。好きなだけ張るがいい。なんなら財布が全て空になるまで張ってもいいぞ」

 興行主の男がにやりと笑うと、周りの男達がざわめいた。
 ウィルは若い娘の捧げ持つ銀の盆に15ギルダスをこともなげに置くと、やおら外套を脱いで舞台の上へと上がった。

「名を名乗れ」
「ウィル・アルバトロスだ」

 ぶっきらぼうに問いかけてくる興行主の方は見ず、ウィルは答えた。

「へえ、阿呆鳥(アルバトロス)か。そいつはいい」

 ウィルをその名の通りの阿呆とでも思ったか、男の語尾には嘲笑が混じった。
 しかしクムランは唇を真一文字に引き結んだまま、真顔でウィルを睨みつけている。

(ナディールには優れた戦士が多いと聞くが、戦う前からすでにこちらの力量を測っているのか)

 クムランの表情にはどこにも油断が見られない。ゆっくりを剣を構えると、その立ち姿はそのまま彫像にしても良いくらいに見事だ。身にまとう闘気は圧倒的で、気の弱い者なら傍に寄ることすらできないだろう。

「では、お手並み発見といこうか」

 それでも全く気負うこともなく、ウィルはそう言ってのけた。
 腰の剣を引き抜き、切っ先をクムランに向けると、クムランが低く唸り声をあげた。

「お前、必ず仕留める」

 初めて聞くクムランの声は、思ったよりも高かった。抑揚に欠ける話しぶりは中原語に慣れていないためか、もとより感情に乏しいせいなのか。
 そうウィルが考えているうちに、クムランの額に蛇の形の紋章が浮かび上がり、鈍い光を放った。クムランが剣から左手を離すと、その指先の爪が鋭く尖り、毒々しい濃い青に染まる。

(これは……よもや呪紋なのか)

 ナディール族の戦士は先ハイナム時代から伝わる呪法を使うというが、どうやらクムランもこの呪法の使い手らしい。額に怪しく光る紋章は聖紋のようにまばゆく光ってはいない。

「ヴァナ・グシュルム・ニーグルヘルド!」

 ナディール語らしき言葉で叫ぶと、クムランは右肩に爪を突き立てた。鮮血が舞台に滴り、クムランの全身が激しく震え始めた。
 全身の筋肉が隆起し、額には青筋が浮き出て、クムランの身体は一回り大きくなったようにみえる。

「ほう、ナディールの蛇咬剣(じゃこうけん)か」

 ウィルが目を眇めると、クムランは白い歯をむき出して笑った。
 蛇の毒を満たした壺に手を浸し続け、十年間修業を続けたものだけが使えるようになるというこの秘剣は、自らの身体に毒爪を立てることで筋力や動体視力、耐久力などを大幅に上昇させる力を持つ。
 クムランがこの技を用いるということは、彼がウィルの力量を測ったからこそだった。しかし、ウィルはこの呪法の欠点をもすでに知っていた。
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