南方に配されし荼枳尼の法【第三話】
文字数 2,681文字
☆
一応、珠総長に小栗判官を逃したことを告げに行かないと、と思い、僕は自室で腰を上げた。
更科美弥子さんは好き勝手言ったのち、自分の部屋に戻っていってしまっていた。
「美弥子さんもフリーダムなひとだよなぁ」
「そんなこと、ないんじゃないか、山茶花」
振り向くと、部屋の玄関に破魔矢式猫魔がいた。
背中を壁に預けて立っている。
いつからここにいたんだ、こいつ。僕は全く気づかなかった。キーを解錠したのかな。
僕はたしなめるように言った。
「猫魔。勝手にピッキングで解錠しちゃダメだろ、一応さ。常識を持とうよ」
ため息を吐く僕。猫魔はケラケラ笑う。
最近、長くなってきている破魔矢式猫魔のアッシュグレイの髪はさらりと揺れた。
「鍵、開いてたぜ。チェーンもしてなかったし」
「え。マジで」
「大真面目さ。更科美弥子さんとの情事を枢木くるるあたりの人物に見られなくて良かったな」
「情事なんてしてないし、くるるちゃんは関係ない。ていうか、くるるちゃんが人様の部屋に勝手に入ってくる人間だとは思えないけど?」
「それもそうだな」
また、ケラケラと破魔矢式猫魔は笑う。
「山茶花、部屋に上がらせてもらうぜ」
「もう上がってるじゃないか」
「靴を脱いでない」
「そーですかー。仕方ないなぁ」
「そう言うなって」
玄関で靴を脱ぐとスリッパをはいて、ずかずかと六畳間に上がり込んでくる破魔矢式猫魔なのだった。
「で。なんのようなんだ、猫魔」
「おれは酒が好きでね」
「はいはい。出しますよーっと。ったく。普通に酒が飲みたいって言えよな」
キッチンの冷蔵庫から、冷えたズブロッカのボトルを僕は取り出す。
「フレイバーウォッカか。気が利くじゃないか、山茶花。ストレートで飲もうぜ」
「言われなくとも」
二人でテーブルを囲んで座る。
僕はテレビを観ない人間なので、オーディオコンポの電源を入れる。
流すのはアルバート・アイラーだ。
「ビバップでも流すのかと思ったぜ」
「ビバップねぇ。チャーリー・パーカーなんかも好きだけど、ズブロッカにはフリージャズのアイラーが合うかな、って」
「なるほどね。おれもその意見には同意だ。今流れている曲は『スピリッツ・リジョイス』か。スピリッツであるズブロッカを飲むのにスピリッツ・リジョイスを聴くなんて、洒落を理解してきたんじゃないか。アイラーは天才だとおれは思う。アイラーも、夭折の天才に含まれるのかな、山茶花。どうだい、一九六〇年代のフリージャズムーブメントの中心人物だった、三四歳で亡くなった前衛ジャズ・サックス奏者は、早死にだと思うかい? それとも、天才故に、早世したと考えるのかな?」
「なんだよ、やけに挑発的な発言じゃないか、猫魔。どうしたんだい。死亡フラグって奴か?」
鼻で笑う猫魔。
「ははは、死亡フラグ。いいな。笑える〈この台詞を言う奴はお約束的に死んでしまう、その伏線の台詞〉と言った言葉を、死亡フラグと言うのだとおれは理解しているが。調べてないから本当の意味は知らないが、な。それに、この俗語の語源にある、テレビゲームって奴も、おれはプレイしたことがないからなぁ。まあ、いいさ。どう思う、山茶花」
「スピリッツ・リジョイスと酒のスピリッツで対比するなら、アルバム『ニュー・グラス』と、ズブロッカに入っている薬草『バイソン・グラス』でも、洒落としてか、または韻を踏めるんじゃないか」
「と言っても『ニューグラス』は、セールスはふるわなかったらしいが、な。ファンからひんしゅくを買ったと聞いてるぜ。マニアックにすぎるかな」
「確かにひんしゅくを買ったらしいね。あるとき、アイラーは悩んで、自殺するのを止めるよう説得しようとすると、テレビの上に置いてあったサキソフォンを1本取り上げて、粉々に打ち砕いたことがあったらしい。ついには、自由の女神像のフェリーに乗って、船がリバティ・アイランドに近づいたところで川に飛び込んだ、って証言がある。バカな話さ。天才は、特に神様に気に入られて、みんなより早く天国に連れていかれてしまうことが多くてさ。アイラーもまた、その一人だったんだろう」
冷えたズブロッカを自分のグラスに注ぐと、猫魔はストレートでその〈桜餅味〉とも形容される透明な液体を一気にあおった。
「天才は、神様に気に入られてみんなより早く連れていかれてしまう、か。山茶花らしい解釈だな」
僕もグラスに注ぎ、ズブロッカを飲む。
「そう思わなくちゃ、やりきれないよ。もっと活躍すべき人物だったけど、往々にして、そういうひとは早死にしやすい。でも、それは無駄死にではなかっただろ。後続のジョン・コルトレーンは、アルバート・アイラーに影響を受けたし、そういう意味でアイラーは、生き続けている、その意志が、ね」
「綺麗にまとめやがって。今、飲んでる酒は、さ。ポーランドで聖牛とされるジュブルが好んで食べ、ビアウォヴィエジャの森にしか自生しないとされる貴重なイネ科の植物であるところの『バイソングラス』が入っているわけだが。ヨーロッパバイソン、別名〈ジュブル〉という聖牛に捧げるためのバイソングラスだ。バイソングラスもまた、神の使いに捧げられている。神への捧げものだ。アイラーなんかの天才もまた、神に捧げられている〈供犠〉である、というのも見当外れではなさそうだな」
「供犠……。特定の宗教的目的と共同体の結束のため、神に捧げる犠牲、か」
「まあ、与太話はこれくらいにして飲もうぜ」
「これ、僕のお酒だけどね。猫魔に捧げるかたちになっちゃったよ」
「はふぅ。良い酒だぜ。つまみはないのか、山茶花」
「いや、それよりもさ、猫魔」
「なんだ?」
「なにか用があって来たんじゃないのか、ここに」
「あー、あー、そうだった、そうだった。実は、さ。また怪盗野中もやいから予告状が届いているんだ」
「怪盗の野中もやいから予告状? 今度はなにを盗む気なんだ、あの怪盗は」
「ああ。なんでも、常陸松岡にある〈本町銀行〉の奥の大金庫に収蔵してある指定文化財〈胎蔵界曼荼羅〉の掛け軸を盗むんだってさ」
「指定文化財を盗む予告状……。それ、予告日はいつなんだ、猫魔」
「明日の深夜、午前零時だ」
僕は小栗判官との決着がついていない。
同様に、猫魔も野中もやいとの決着はついていないのだ。
「忙しさが増すね」
と、僕。
「今度こそ、お宝の死守だけでなく、あいつを捕まえてやるぜ」
破魔矢式猫魔はそう言うと、またそのウォッカを注いで、飲んだ。
「おれたちは、いつだって忙しいさ」
「酒飲みながら言う台詞じゃないよ、猫魔」
「それもそうだ」
僕らは笑い合ったのだった。
一応、珠総長に小栗判官を逃したことを告げに行かないと、と思い、僕は自室で腰を上げた。
更科美弥子さんは好き勝手言ったのち、自分の部屋に戻っていってしまっていた。
「美弥子さんもフリーダムなひとだよなぁ」
「そんなこと、ないんじゃないか、山茶花」
振り向くと、部屋の玄関に破魔矢式猫魔がいた。
背中を壁に預けて立っている。
いつからここにいたんだ、こいつ。僕は全く気づかなかった。キーを解錠したのかな。
僕はたしなめるように言った。
「猫魔。勝手にピッキングで解錠しちゃダメだろ、一応さ。常識を持とうよ」
ため息を吐く僕。猫魔はケラケラ笑う。
最近、長くなってきている破魔矢式猫魔のアッシュグレイの髪はさらりと揺れた。
「鍵、開いてたぜ。チェーンもしてなかったし」
「え。マジで」
「大真面目さ。更科美弥子さんとの情事を枢木くるるあたりの人物に見られなくて良かったな」
「情事なんてしてないし、くるるちゃんは関係ない。ていうか、くるるちゃんが人様の部屋に勝手に入ってくる人間だとは思えないけど?」
「それもそうだな」
また、ケラケラと破魔矢式猫魔は笑う。
「山茶花、部屋に上がらせてもらうぜ」
「もう上がってるじゃないか」
「靴を脱いでない」
「そーですかー。仕方ないなぁ」
「そう言うなって」
玄関で靴を脱ぐとスリッパをはいて、ずかずかと六畳間に上がり込んでくる破魔矢式猫魔なのだった。
「で。なんのようなんだ、猫魔」
「おれは酒が好きでね」
「はいはい。出しますよーっと。ったく。普通に酒が飲みたいって言えよな」
キッチンの冷蔵庫から、冷えたズブロッカのボトルを僕は取り出す。
「フレイバーウォッカか。気が利くじゃないか、山茶花。ストレートで飲もうぜ」
「言われなくとも」
二人でテーブルを囲んで座る。
僕はテレビを観ない人間なので、オーディオコンポの電源を入れる。
流すのはアルバート・アイラーだ。
「ビバップでも流すのかと思ったぜ」
「ビバップねぇ。チャーリー・パーカーなんかも好きだけど、ズブロッカにはフリージャズのアイラーが合うかな、って」
「なるほどね。おれもその意見には同意だ。今流れている曲は『スピリッツ・リジョイス』か。スピリッツであるズブロッカを飲むのにスピリッツ・リジョイスを聴くなんて、洒落を理解してきたんじゃないか。アイラーは天才だとおれは思う。アイラーも、夭折の天才に含まれるのかな、山茶花。どうだい、一九六〇年代のフリージャズムーブメントの中心人物だった、三四歳で亡くなった前衛ジャズ・サックス奏者は、早死にだと思うかい? それとも、天才故に、早世したと考えるのかな?」
「なんだよ、やけに挑発的な発言じゃないか、猫魔。どうしたんだい。死亡フラグって奴か?」
鼻で笑う猫魔。
「ははは、死亡フラグ。いいな。笑える〈この台詞を言う奴はお約束的に死んでしまう、その伏線の台詞〉と言った言葉を、死亡フラグと言うのだとおれは理解しているが。調べてないから本当の意味は知らないが、な。それに、この俗語の語源にある、テレビゲームって奴も、おれはプレイしたことがないからなぁ。まあ、いいさ。どう思う、山茶花」
「スピリッツ・リジョイスと酒のスピリッツで対比するなら、アルバム『ニュー・グラス』と、ズブロッカに入っている薬草『バイソン・グラス』でも、洒落としてか、または韻を踏めるんじゃないか」
「と言っても『ニューグラス』は、セールスはふるわなかったらしいが、な。ファンからひんしゅくを買ったと聞いてるぜ。マニアックにすぎるかな」
「確かにひんしゅくを買ったらしいね。あるとき、アイラーは悩んで、自殺するのを止めるよう説得しようとすると、テレビの上に置いてあったサキソフォンを1本取り上げて、粉々に打ち砕いたことがあったらしい。ついには、自由の女神像のフェリーに乗って、船がリバティ・アイランドに近づいたところで川に飛び込んだ、って証言がある。バカな話さ。天才は、特に神様に気に入られて、みんなより早く天国に連れていかれてしまうことが多くてさ。アイラーもまた、その一人だったんだろう」
冷えたズブロッカを自分のグラスに注ぐと、猫魔はストレートでその〈桜餅味〉とも形容される透明な液体を一気にあおった。
「天才は、神様に気に入られてみんなより早く連れていかれてしまう、か。山茶花らしい解釈だな」
僕もグラスに注ぎ、ズブロッカを飲む。
「そう思わなくちゃ、やりきれないよ。もっと活躍すべき人物だったけど、往々にして、そういうひとは早死にしやすい。でも、それは無駄死にではなかっただろ。後続のジョン・コルトレーンは、アルバート・アイラーに影響を受けたし、そういう意味でアイラーは、生き続けている、その意志が、ね」
「綺麗にまとめやがって。今、飲んでる酒は、さ。ポーランドで聖牛とされるジュブルが好んで食べ、ビアウォヴィエジャの森にしか自生しないとされる貴重なイネ科の植物であるところの『バイソングラス』が入っているわけだが。ヨーロッパバイソン、別名〈ジュブル〉という聖牛に捧げるためのバイソングラスだ。バイソングラスもまた、神の使いに捧げられている。神への捧げものだ。アイラーなんかの天才もまた、神に捧げられている〈供犠〉である、というのも見当外れではなさそうだな」
「供犠……。特定の宗教的目的と共同体の結束のため、神に捧げる犠牲、か」
「まあ、与太話はこれくらいにして飲もうぜ」
「これ、僕のお酒だけどね。猫魔に捧げるかたちになっちゃったよ」
「はふぅ。良い酒だぜ。つまみはないのか、山茶花」
「いや、それよりもさ、猫魔」
「なんだ?」
「なにか用があって来たんじゃないのか、ここに」
「あー、あー、そうだった、そうだった。実は、さ。また怪盗野中もやいから予告状が届いているんだ」
「怪盗の野中もやいから予告状? 今度はなにを盗む気なんだ、あの怪盗は」
「ああ。なんでも、常陸松岡にある〈本町銀行〉の奥の大金庫に収蔵してある指定文化財〈胎蔵界曼荼羅〉の掛け軸を盗むんだってさ」
「指定文化財を盗む予告状……。それ、予告日はいつなんだ、猫魔」
「明日の深夜、午前零時だ」
僕は小栗判官との決着がついていない。
同様に、猫魔も野中もやいとの決着はついていないのだ。
「忙しさが増すね」
と、僕。
「今度こそ、お宝の死守だけでなく、あいつを捕まえてやるぜ」
破魔矢式猫魔はそう言うと、またそのウォッカを注いで、飲んだ。
「おれたちは、いつだって忙しいさ」
「酒飲みながら言う台詞じゃないよ、猫魔」
「それもそうだ」
僕らは笑い合ったのだった。