別れの朝 後編(執筆者:金城 暁大)
文字数 2,840文字
一行は、トラン村付近の小さな飛行場に辿り着いた。
「ボンジュール、オーナー。ルノーの調子はどう?」
シェロが声をかけた先には、格納庫の隅で新聞を読むオーナーがいた。
彼は新聞を下げてシェロを見ると、年期の入った皺を顔に浮き立たせて笑った。
「おお、シェロ! ルノーはもうすっかり元に戻ったぞ。テスト飛行してみるか?」
「ノン。そんな時間は無いのよ。直ぐにでも飛びたいの」
「そうか……大丈夫なのか? 確かにメンテナンスは完璧すぎるくらいだが……」
彼が目線を送った先には一台、薄茶色の複葉機が停まっている。
「こいつがシェロの飛行機か」
「ぴっかぴかだな!」
「はい! あの時の傷もなくなっています!」
シェロの飛行機は、マキナとの空戦で付いた傷をすっかり無くしていた。それどころか、丹念に磨きがかかっており、何かワックスの様なものを塗ったのか、艶が出ている。
「良かったわねルノー。こんなに綺麗にしてもらって」
「ルノーって、この飛行機の名前?」
「そうよ。本当は“ルノワール”って名前なんだけど、略してルノーって呼んでるの」
飛行機に名前を付けるなんて、彼女は本当に空が好きなんだなと、シオンは思った。
その一方で、シオンは不思議にも思っていた。
ルノワールという名前は、自分が元いた世界で聞いた事があった気がしたからだ。やっぱり、ヒューマニーと元の世界とは、何かしらの繋がりがあるのかもしれない……。
しかしながら、――確か男の人の名前だった筈。飛行機に異性の名前を付けるあたり、よほどこの飛行機に愛着があるのだろう。だからこそ、シオンは名前 が気になって仕方がなかった。
「シェロ、聞いていい?」
「何かしら?」
「そのルノワールって人、シェロの恋人か何か?」
この質問に、シェロは始めキョトンとしていたが、意味が分かったのか、突然吹き出した。
「プッフフフフ! そんな事無いわ。ルノワールって言うのは、この子を設計した設計士の名前なのよ。それが、この人」
そう言って、シェロはオーナーを指差した。
「おう、俺がルノワールだ! よろしくな、坊や」
先程の新聞を無造作な束にし、シオンの前に現れたオーナー。その人は、たわしの様な短髪に、筋骨隆々の日に焼けた肌の持ち主だった。
もっと繊細な人かと思っていたんだけどな――あまりにも想像とかけ離れた人物だった為、シオンは絶句するしかなかった。
「おーい、そこで何を話しているんだ? 早く行こうぜ」
後ろの方から、トウラ達の急かす声がする。シェロはオーナーのルノアールに別れを告げようとしたその時だった。
「おいおいシェロ……もしかして、あの2人、賞金首の――」
「え――」
ルノワールの察しに、シオンとシェロに冷や汗が流れる。
「ち、違うわよ! 確かによく似ているけど、別人よ! ね、シオン?」
「そ、そうです! 賞金首とは似ても似つかない、とっても良い人達ですよ」
「うーん、とてもそっくりなんだがなぁ」
ルノワールの懐疑的な態度は消えそうにない。
その時、シェロは気付いてしまった。
ここで竜化の力を使えば、2人が賞金首だってバレてしまう――!
「シェロ、どうしよう。ルノワールさん、疑り深いみたい……」
「……大丈夫。ここは私に任せて」
シェロはルノワールの前で手を合わせた。
「ねぇ、ルノワールさん? 突然で悪いんだけど、あの2人にも飛行機を貸してくれない? もちろんタダでとは言わないわ」
「飛行機か――」
シェロの要望に、ルノワールは眉間に皺を寄せた。
「うーむ。申し訳無いんだが、今ちょっと立て込んでてな。あれくらいしか無いんだ」
ルノワールの指差した先。格納庫の端にそれはあった。
「……え、あれなの?」
「シェロ。あれ、ひどく汚れているよ」
2人乗りの、シェロの複葉機より一回り小振りな単葉機。プロペラもエンジンも付いておらず、有るのは翼と2人乗りの操縦席だけだ。しかも、シオンの言う通り汚れはひどく、傷も多かった。
それはどう見ても、とても飛べそうにない代物だった。
「今、殆どここにあった飛行機は出払っててな。元々ここの飛行機が少ない上に、今は空輸業の繁忙期なんでな。
申し訳ないが、あれで勘弁してくれ」
「そんな……あれでどうやって飛ぶのよ?」
「方法はある」
ルノワールは、シェロの飛行機の後部を指差した。
「ルノーの後ろから、アンカーワイヤーであいつを牽引すれば良い。推進力はルノーが受け持つから、あいつは操縦だけで済むって仕組みだ。翼もそんなに傷んでない。飛べはする筈だ。
一旦空に出てしまえば、後は手放しでも問題ない。ただ、離着陸は……」
「オーケー、オーナー。あれで良いわ、貸してちょうだい」
「ちょっとちょっと! シェロ、オーナーに上手く」
誤魔化すつもりだったんじゃ――と耳打ちしようとしたシオンの口を、シェロは抑えた。
「仕方ないじゃない! ここでトウラが竜化でもしてみなさい! オーナーがたちまち追っ手を呼ぶわよ。そうなったら貴方だって、身の上が危なくなるのよ」
「……そっか。誤魔化せても意味無いんだね。竜化しちゃうから」
「そういうこと。――大丈夫。操縦技術なら自信があるわ」
「でも、あんなにオンボロじゃあ……」
「私を信じて、シオン」
シェロの自信に、シオンは渋々状況を飲み込んだ。
「シェロ。何をコソコソ話してるんだ?」
「い、いいえ、何でも無いわ。そんな事より、オーナー、あの飛行機はいくらになるの?」
ルノワールは顎に手を当てて考えた。
「あれだけの品だし、割引して……ざっと50万アイロだな」
「50万!? いくななんでも、あんなボロに高過ぎよ!」
「あれでも親機さえいれば使えるんだ。それにさっきも言ったが、今は繁忙期なんだ。1台でも惜しいんだよ」
シェロは目を瞑り、長い間唸った末。
「……分かった。分かったわ。50万アイロ。それで良いわ」
「50万って、シェロ。大体どのくらいなの?」
「ひと月分の、ちょっと良い宿と食事にありつけるくらいの金額よ」
「それってまさか――」
「ええ。あのお爺さんに渡そうとした金額よ」
あのお爺さん――そう。大賢人オウルニムスの事だった。
確か彼は、シェロが渡そうとした金貨を「近いうちに必要になる時が来る」と言って断っていた……。
「叡智の梟……さすがよね。私、もしまた会えたら、ちゃんとお礼を言わなくっちゃ」
シオンは静かに頷く。
もしかしたらあの老人は、語らなかっただけで、もっと沢山の事を自分達の背中に見ていたのかもしれない、と、シオンは想像したのだった。
「ボンジュール、オーナー。ルノーの調子はどう?」
シェロが声をかけた先には、格納庫の隅で新聞を読むオーナーがいた。
彼は新聞を下げてシェロを見ると、年期の入った皺を顔に浮き立たせて笑った。
「おお、シェロ! ルノーはもうすっかり元に戻ったぞ。テスト飛行してみるか?」
「ノン。そんな時間は無いのよ。直ぐにでも飛びたいの」
「そうか……大丈夫なのか? 確かにメンテナンスは完璧すぎるくらいだが……」
彼が目線を送った先には一台、薄茶色の複葉機が停まっている。
「こいつがシェロの飛行機か」
「ぴっかぴかだな!」
「はい! あの時の傷もなくなっています!」
シェロの飛行機は、マキナとの空戦で付いた傷をすっかり無くしていた。それどころか、丹念に磨きがかかっており、何かワックスの様なものを塗ったのか、艶が出ている。
「良かったわねルノー。こんなに綺麗にしてもらって」
「ルノーって、この飛行機の名前?」
「そうよ。本当は“ルノワール”って名前なんだけど、略してルノーって呼んでるの」
飛行機に名前を付けるなんて、彼女は本当に空が好きなんだなと、シオンは思った。
その一方で、シオンは不思議にも思っていた。
ルノワールという名前は、自分が元いた世界で聞いた事があった気がしたからだ。やっぱり、ヒューマニーと元の世界とは、何かしらの繋がりがあるのかもしれない……。
しかしながら、――確か男の人の名前だった筈。飛行機に異性の名前を付けるあたり、よほどこの飛行機に愛着があるのだろう。だからこそ、シオンは
「シェロ、聞いていい?」
「何かしら?」
「そのルノワールって人、シェロの恋人か何か?」
この質問に、シェロは始めキョトンとしていたが、意味が分かったのか、突然吹き出した。
「プッフフフフ! そんな事無いわ。ルノワールって言うのは、この子を設計した設計士の名前なのよ。それが、この人」
そう言って、シェロはオーナーを指差した。
「おう、俺がルノワールだ! よろしくな、坊や」
先程の新聞を無造作な束にし、シオンの前に現れたオーナー。その人は、たわしの様な短髪に、筋骨隆々の日に焼けた肌の持ち主だった。
もっと繊細な人かと思っていたんだけどな――あまりにも想像とかけ離れた人物だった為、シオンは絶句するしかなかった。
「おーい、そこで何を話しているんだ? 早く行こうぜ」
後ろの方から、トウラ達の急かす声がする。シェロはオーナーのルノアールに別れを告げようとしたその時だった。
「おいおいシェロ……もしかして、あの2人、賞金首の――」
「え――」
ルノワールの察しに、シオンとシェロに冷や汗が流れる。
「ち、違うわよ! 確かによく似ているけど、別人よ! ね、シオン?」
「そ、そうです! 賞金首とは似ても似つかない、とっても良い人達ですよ」
「うーん、とてもそっくりなんだがなぁ」
ルノワールの懐疑的な態度は消えそうにない。
その時、シェロは気付いてしまった。
ここで竜化の力を使えば、2人が賞金首だってバレてしまう――!
「シェロ、どうしよう。ルノワールさん、疑り深いみたい……」
「……大丈夫。ここは私に任せて」
シェロはルノワールの前で手を合わせた。
「ねぇ、ルノワールさん? 突然で悪いんだけど、あの2人にも飛行機を貸してくれない? もちろんタダでとは言わないわ」
「飛行機か――」
シェロの要望に、ルノワールは眉間に皺を寄せた。
「うーむ。申し訳無いんだが、今ちょっと立て込んでてな。あれくらいしか無いんだ」
ルノワールの指差した先。格納庫の端にそれはあった。
「……え、あれなの?」
「シェロ。あれ、ひどく汚れているよ」
2人乗りの、シェロの複葉機より一回り小振りな単葉機。プロペラもエンジンも付いておらず、有るのは翼と2人乗りの操縦席だけだ。しかも、シオンの言う通り汚れはひどく、傷も多かった。
それはどう見ても、とても飛べそうにない代物だった。
「今、殆どここにあった飛行機は出払っててな。元々ここの飛行機が少ない上に、今は空輸業の繁忙期なんでな。
申し訳ないが、あれで勘弁してくれ」
「そんな……あれでどうやって飛ぶのよ?」
「方法はある」
ルノワールは、シェロの飛行機の後部を指差した。
「ルノーの後ろから、アンカーワイヤーであいつを牽引すれば良い。推進力はルノーが受け持つから、あいつは操縦だけで済むって仕組みだ。翼もそんなに傷んでない。飛べはする筈だ。
一旦空に出てしまえば、後は手放しでも問題ない。ただ、離着陸は……」
「オーケー、オーナー。あれで良いわ、貸してちょうだい」
「ちょっとちょっと! シェロ、オーナーに上手く」
誤魔化すつもりだったんじゃ――と耳打ちしようとしたシオンの口を、シェロは抑えた。
「仕方ないじゃない! ここでトウラが竜化でもしてみなさい! オーナーがたちまち追っ手を呼ぶわよ。そうなったら貴方だって、身の上が危なくなるのよ」
「……そっか。誤魔化せても意味無いんだね。竜化しちゃうから」
「そういうこと。――大丈夫。操縦技術なら自信があるわ」
「でも、あんなにオンボロじゃあ……」
「私を信じて、シオン」
シェロの自信に、シオンは渋々状況を飲み込んだ。
「シェロ。何をコソコソ話してるんだ?」
「い、いいえ、何でも無いわ。そんな事より、オーナー、あの飛行機はいくらになるの?」
ルノワールは顎に手を当てて考えた。
「あれだけの品だし、割引して……ざっと50万アイロだな」
「50万!? いくななんでも、あんなボロに高過ぎよ!」
「あれでも親機さえいれば使えるんだ。それにさっきも言ったが、今は繁忙期なんだ。1台でも惜しいんだよ」
シェロは目を瞑り、長い間唸った末。
「……分かった。分かったわ。50万アイロ。それで良いわ」
「50万って、シェロ。大体どのくらいなの?」
「ひと月分の、ちょっと良い宿と食事にありつけるくらいの金額よ」
「それってまさか――」
「ええ。あのお爺さんに渡そうとした金額よ」
あのお爺さん――そう。大賢人オウルニムスの事だった。
確か彼は、シェロが渡そうとした金貨を「近いうちに必要になる時が来る」と言って断っていた……。
「叡智の梟……さすがよね。私、もしまた会えたら、ちゃんとお礼を言わなくっちゃ」
シオンは静かに頷く。
もしかしたらあの老人は、語らなかっただけで、もっと沢山の事を自分達の背中に見ていたのかもしれない、と、シオンは想像したのだった。