第1話 オオカミ

文字数 1,924文字

 しとしとと雨が降り続く夜、外から犬のような動物の鳴き声が聞こえてきた。
「狼かな?」
ベランダの方を見て弟がそうつぶやく。僕は笑って、
「日本に狼はいないよ。昔はいたらしいけどね。あの鳴き声は狐か何かじゃない?」
そう言い終わるか否か、突然強烈な既視感に襲われた。ずっと昔、確かに誰かから狼がいた話を聞いたことがある。あれはこんな蒸し暑い晩、おじいちゃんから聞いた・・・。

 その夜も雨が降っていた。お盆だというのに両親は仕事で忙しいからと帰ってしまった。僕はひとりぼっちで祖父母の家にいたのである。がらんとした平屋を満たす闇に、ザァザァと雨音がよく響く。蒸し暑さと心細さでなかなか寝付けない僕を見て、おじいちゃんはこんな話をしてくれた。
 これはおじいちゃんのおじいちゃん、万造じいさんが若い頃の話。万造じいさんは田植えの手伝いで、ここからずっと山奥の史駒村ってところに向かっていた。その途中の峠道で一匹の狼が死んでいるのを見つけた。血はついていなかった。今じゃ日本に狼なんていないが、昔はいたんだぞ。万造じいさんは、朝から縁起が悪いななんて思いながら、放っておいて先を急いだ。
 さて田植えは順調に進んで、ひと段落ついた日の夜、労をねぎらおうってんで、酒と肴をみんなでご馳走になった。酔いも回って、みんなでだらだらとおしゃべりしていたんだが、ふとした拍子に、ここに来る途中道端で狼が死んでいて気味が悪かったことを話したんだと。さっきの宴会気分はどこへやら。みんなさぁーっと静まり返っちゃって。あれなんかまずいこと言ったかななんて思った矢先、
「そのオオカミはどこで死んでたんだ?」
と質問された。
「どこってそこの峠道のすぐそばだよ。バタッと倒れていたね。」
「近くに池とか川はあったかい?」
「いやなかったなぁ。」
「近寄って見た?」
「いや遠目からだけだ。もし生きてて嚙まれたらおっかねえだろ。」
「嚙まれる?もしかしてそいつは山犬じゃねぇか?」
「ん?あぁ確かに山犬かもしれねぇが。なんせまじまじと見てないからな。」
そう言うと、みんな顔を見合わせて一斉に笑い出した。
「なんだよ、脅かすねい。オオカミなんてさ。」
「あーおかしい。真面目な顔で言うもんだから、信じちゃいそうだったわよ。」
山犬?確かに狼の方が怖いかもしれないが、なにもそこまで怖がるだろうか。そんな小さな違和感は、酔いと笑い声にかき消され、いつしか夜も更けていった。
 翌朝帰る準備をしている時、家の子供たちが万造じいさんの方を見て
「オオカミ見たんだって?」
と囃し立てた。そこで
「狼がそんなに珍しいかい?」
と尋ねてみた。
「珍しいもなにも最近は出てねぇよな。庄助んとこのばあちゃんが会ったって言うけど、もともとぼけてっからな。」
「そうそう。もう池に近寄る人もいないしね。」
「池?池にいるのか?」
「俺も知らないけど、昔は奥の鏡池にでたらしいよ。」
「水場ならどこにでもいるんじゃなかったっけ?」
「そうか?」
昨日万造じいさんが感じた小さな違和感は、嫌な予感に変わっていった。
「そのオオカミっていうのは、どんな姿なんだい?」
「なんだ。兄ちゃんも見たことないの?」
「俺は母ちゃんから聞いたよ。見た目は猿みたいだって。でも猿よりもずっと大きくて水かきがあるからすぐわかるって。人の声で喋るらしいよ。」
「兄ちゃんも雨の夜は気をつけなよ。たまに家まできて戸を叩くって言うから。」
「そうそう、開けろ開けろってね。」
万造じいさんが怖がっているのを見て取ったのか、子供たちはクスクスと笑っている。
「で、戸を開けるとどうなるんだ。」
子供たちは顔を見合わせると、笑いながら知らなーいと言ってどこかに逃げてしまった。
 それからというもの、こんな雨の晩が恐ろしくてな。だれかが戸を叩くんじゃないか?開けろ開けろって。雨音まで戸を叩く音に聞こえてな。
 おじいちゃんはそう言って話を終えた。雨はますます激しくなり、降りやむ気配を見せない。僕はベランダの窓ガラスを透かして、ずっと山奥にあったという今は無き史駒村を見ていた。鹿も猪も眠りにつく雨夜、まだオオカミはあそこをさまよっているのだろうか。

「おにい。どうかしたの?」弟が頼りなさげにこちらを見つめている。僕は一気に現実に引き戻された。いつの間にか雨音に紛れて動物の鳴き声も聞こえなくなっていた。しとしとと降り続いた雨は、叩きつけるような大雨に変わっていた。
「ん、なんでもない。」
弟の方に目をやると、なんだかもじもじしている様子である。
「トイレ行きたくなってきたな。お前も行くか?」
「うん!」
 弟は嬉しそうにトイレへと駆け出した。今年のお盆も両親はいないが、もうひとりぼっちだとは感じなかった。
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