第1話

文字数 4,973文字

部署の新年会を終えて乗り込んだタクシーの後部座席から、ルームミラーにぶら下がる、銀色のキーホルダーが目に留まった。
酔っ払って寝落ちしかけていた私の意識が、必死に何かを思い出そうとしている。
キーホルダーは、カプセル型の形状で、錠剤や手紙などを中に入れられるタイプだ。ビクトリノックスのパチモノと一目でわかる赤十字が印刷されている。
私はたしかにあれに見覚えがある。
今の今まで忘れていたくだらない思い出が、私の頭にふと蘇ってきた。

二十年前のその日は、冷たい雨が降っていたように思う。当時大学生だった私は、合コンに誘われて繁華街のある駅にやってきた。改札を出て時計を見ると、集合時間まで少し時間があったので、人混みから外れたところで壁に背を向けタバコをふかしていた。しばらくして、隣に少年が座っているのに気づいた。少年は、虚ろな目で改札の方を眺めている。
着ているTシャツはヨレヨレで薄汚く、半袖から覗く腕には青アザらしき跡。
ろくでもない親の元に生まれたか、もしくは心無い同級生にいじめられたか。何らかの理由で家に帰りたくなくて、雨をしのげて明るい駅で時間を潰している…私はそんな想像をした。
みじめな少年を眺めていた私は、大学生特有の愚かな頭でくだらない悪戯を思いついてしまった。

「俺、殺し屋なんだよ。動くと殺すぞ。話だけ聞け」
少年にだけ聞こえるように小さく、ただし低く威圧するような声でささやいた。
少年はビクッとしてこちらを見た。
「アニメとかで見たことあるだろ? 人を殺す仕事をしている、あの殺し屋だ」
少年は身動きひとつせず固まっている。
私はコートの内側に手を入れ、当時なんとなくポケットに入れていたビクトリノックスのパチモノの十得ナイフをちらりと見せて、刃をパタパタと出し入れした。我ながら滑稽な芝居だが、少年は目を見開いた。
私はコートの前を閉じて、今度は外側のポケットから銀色のキーホルダーを取り出した。こちらもビクトリノックスのパチモノだ。
チェーンの先についたカプセルをつまんでひねると、スクリューキャップのように蓋が外れた。中から、黄色い錠剤が二粒コロリと俺の手のひらに落ちた。
「毒薬だ。人を殺す、毒。ヒ素ってしってるか?」
少年は首を横に小さく振った。
「俺がお前くらいの頃、どこかのババアがカレーに入れてご近所さんを毒殺した事件があって話題になったんだよ。クラスの女の子がそれが原因でいじめられてた」
少年の顔が曇った。いじめという言葉に反応したように見えた。
「このキーホルダーの中に、俺はいつも毒薬を二錠入れている。一錠は相手を殺すため。もう一錠は足がついて追われた時に、自分が死ぬためだ。」
俺の言葉に、少年の目が錠剤をまじまじと見つめる。
俺は錠剤をカプセルにしまい、少年に差し出した。
「これをおまえにやろう」
少年は首を横に振った。
「いや、持っていた方がいい。おまえは痩せっぽっちで、なんの力もない。でも、この毒薬があれば、お前にとってどうしても許せないほど憎い相手が現れた時、そいつをぶっ殺すことができる。2粒しかねえからな。使い方に気をつけろよ。なんでおれがそんなものをやるかわからないって顔してるな。答えはお前が俺の若い頃にそっくりだからだ。同情ってやつだ」
少年の手にキーホルダーを押し付けた。
「どうしても辛くなったら、お前が飲んで死んでもいいぞ。でも、死ぬくらいならほかにできることがないか、もっとよく考えてみたほうがいい。人を殺して生きるのも、楽じゃねえんだ」
頭に浮かんだそれっぽいセリフをあらかた喋り終えた俺は、満足して腰を上げた。
「じゃあな。幸運を祈る」
それっぽい捨て台詞を吐いて、私は立ち上がった。
そのまま振り返らず、待ち合わせ場所へ向かって歩き出した。

居酒屋へ向かう私の顔は、やけにニヤニヤしていたはずだ。
少年に渡したのは、もちろん猛毒のヒ素などではなく、ただの風邪薬だ。誰もが知っている、効いたよね、早めのパブロン。成人男性の一回の服用量二錠を持ち歩いていたのだ。
あの少年がそれなりに賢ければ、変な男に絡まれたと思って、あんなキーホルダーすぐに捨てるだろう。ただ、もしかすると、あのパブロンを毒薬かもしれないと思い込んで、誰かを殺そうとするかもしれない。うまくいけば、人を殺せる力を手にしたと思い込むことで、これまでより気が強くなって、親か同級生か知らないが、境遇に屈せずに生きていく助けになるかもしれない。ただの風邪薬が、あの少年のこれからの人生になんらかの影響を与えるかもしれないのだ。私は脳内で飛躍し続ける馬鹿馬鹿しい推測をただ楽しんでいた。
雨の中、私はさらに考えた。少年は、いったい誰を殺そうとするだろう。
もし親に暴力を振るわれているなら、家に帰ってすぐに、親の飯に砕いた粉末を混ぜて殺そうとしてもおかしくはないのではないか。
同級生にいじめられているなら、今度給食の配膳係になった時に、殺したい相手のカレーにうまくぶち込むなんていう可能性もある。
でも薬は二錠しか入ってないから、一人一錠として殺せてもたった二人だ。それならいっそ、苦しみに満ちた自分の生涯を終えようとするなんてこともありうるか。
あの少年が、絶対に許せないと憎み、殺したいと思う相手はだれなんだろう。ははは。パブロンなんかで人は殺せはしないのに。

そんなどうしようもない記憶が、銀色のキーホルダーをきっかけに蘇った。
私はルームミラー越しに運転手の顔を見た。おそらく二十代後半。年齢だけいえば、私の記憶にある少年と符合している。どこでも売っているようなキーホルダーだから、まだ確信はないが。
私は我慢できずに声をかけた。
「運転手さん、そのキーホルダー、お守りか何か?」
急に話しかけられ、運転手がルームミラー越しに私の顔を確認しつつ、返事をする。
「ああ、これですか? そうですね。お守りです。」
私はさらに質問する。
「普通つけるなら交通安全のお守りとかだよね。珍しいなと思って。なにか意味があったりするの?」
「実はこのカプセルの中身が特別なんですよ」
彼の答えに、私の鼓動が早くなる。
「へー、何が入ってるの?」
「それが、毒薬なんですよ」
私が驚いて息を飲むと、それは予期せぬリアクションだったようで、彼は
「いや、もちろん本当に毒薬が入っているわけないんですけど」
と自分でツッコミを入れた。
「なんか滑ったみたいになってしまいましたけど、なぜこんなことを言ったかというと言いますとね。お客さんがご自宅に着くまでの退屈しのぎに、よければお話ししますよ…」
運転手は慣れた口調で話し始めた。

「今でこそ客商売のタクシードライバーなんてやってますけど、子供の頃、僕は無口で無愛想な少年でした。小学校に上がる前に、母が家を出て行ってしまって、少ししたら父の再婚相手が家にやってきたんですけど、義母は仕事も家事もろくにしない、だらしない遊び人だった。一緒に暮らすようになって、僕が反抗的な態度ばかりとるものだから、義母はだんだん暴力を振るうようになった。父はもともと子供に興味がない人間だったから、無関心で守ってはくれない。家には僕の居場所はなかった。それは学校でも同じでしたよ。いつもおどおどしていて、無口なものだから、友達なんて一人もいなかった。しかも、途中からは着ているものが汚い、臭いと、いじめられるようになった」
私の陳腐な想像はあたっていたらしい。
「放課後は家に帰りたくないし、同級生がいる児童館や公園にいくのもいやだったから、街をうろついてましたよ。その中でも一番長く時間を過ごしたのが、お客さんを乗せたあの駅です。夜遅くまで明るいし、誰かに咎められることもない。なにより、いろんな人が行き来する駅だから、もしかしたら出て行ってしまった母に偶然会えて、また一緒に暮らせるんじゃないかって。でも、あるとき、急に変なお兄さんが話しかけてきたことがありました。その人、自分のことを殺し屋だなんていいだしてね。得体が知れなくて、すごく怖かった。そのお兄さんが、このキーホルダーをくれんですよ。中には毒薬が入っているからって」
それは私だ、と言いだしたくなる気持ちをぐっとこらえた。
「お兄さんが行ってしまった後、、試しに薬をペロッと舐めてみたら、舌がピリッとした。慌ててトイレで口をゆすぎました。こりゃ本物だぞ、と思ったら急に怖くなって、雨の中びしょぬれになりながら急いで帰りました。冷たい雨に打たれながら、誰を殺そうか考えている自分がいました。義母、クラスメイト、父。自分を捨てた母、助けてくれない先生、情けない自分」
彼は続けた。
「その夜は、びしょ濡れになったことで義母に散々怒鳴られた挙句、熱まで出してしまいました。ひどい風邪で床にゲロをぶちまけたらぶん殴られたのですけど、見かねた義母が風邪薬を飲めと言ってきたんです。その色と形が完全に同じなんですよ。毒の薬と。僕は、義母が僕のことをついに殺そうと決意して、毒薬を用意したのだと確信しました。考えれば、今日駅で殺し屋なんかにあったのも、きっと義母が邪魔な僕を殺すために雇ったからだったんだ、とすべてが繋がった気がしました。おかしいですよね。だから義母に向かって、こんな薬絶対に飲まない、と泣き叫んで、薬はトイレに流しました。そしたら、じゃあ勝手にしろって布団にぶち込まれて、悲しくって悔しくて、そのまま寝てしまいました。殺し屋にもらったキーホルダーは握りしめたまま」
「その日以来、僕は義母に殺されたくない一心で、とにかく気に入られようと努力するようになりました。手伝いも宿題もしっかりやって、学校でも問題をできるだけ起こさないように気をつけて。そうしたら暴力もへったし、学校でもあまり絡まれなくなった。キーホルダーは、いつの間にか僕のお守りになっていました。人を殺せる毒。それがあるというだけで心強かった」
私した他愛のない悪戯が、まさかこんな出来事を生んでいようとは。
「薬が偽物だと気づいたのは…?」
「それが、中学1年生のころに、風邪ひきまして。日曜日で病院もやってないから、薬箱を漁っていたらあったんですよ。瓶に入ったパブロンが」
彼はパブロンのところを面白おかしく強調して言った。
「中には、見覚えのある黄色い小さな薬。あ! これは! って、今度こそ本当にすべてが繋がりましたよ。毒薬じゃないのかよって」
彼がおかしそうに話すので、あわせるように私も笑ってみた。
奇跡のような偶然に頭の整理がつかぬまま、かつて浮かんだ疑問をぶつけていた。
「真実に気づくまでの間に、毒薬をだれかに使おうと思ったことはなかったのか?」
彼は困っているようだった。
「え? 難しい質問ですね。いままでこの話をして、そんな質問してきたのお客さんがはじめてですよ」
そういって、彼はしばらく考えてから答えた。
「うん、使おうと思ったことはなかったですね」
彼はそう言い切って、続けた。
「毒薬がなくなるのが怖くて、使おうとすら思えなかったというのが正しいかもしれません。というのも、その時々で、こいつだけは許せない、という相手は出てくるものですけど、毒薬は二錠しかないわけじゃないですか。今使ってしまうと、もう毒薬は無くなってしまって、もっと憎い相手が現れたら殺せなくなってしまう。ならいっそ、目の前の相手のことはさっさと許してしまって、毒薬は手元に残しておいた方が、いつまでも強気でいられる。そんなことを幼心にわかっていたように思うんです」
私はなるほど、と思った。
毒薬の数に限りがあるからこそ、目の前の問題は自力で解決すべきものになり、正々堂々と立ち向かえるようになる。
たしかに、彼にとっては何物にも代えがたいお守りだろう。それがたとえ風邪薬であったとしても。
そこからは特に言葉を交わすこともなかった。

「つきましたよ」
しばらくして、タクシーは路肩に静かに止まった。
料金を支払った私は、降りぎわに一言言い残した。
「じゃあな、幸運を祈る」
それは、二十年前とは違い、心から出た言葉だった。
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