第2話 それは牧師なのか神父なのか
文字数 3,276文字
私は浅田次郎氏を私淑している。
とにかく凄い作家だ。
コメディにエッセイ、恋愛、歴史、時代、推理、アドヴェンチュアまで、ありとあらゆる作品を書く。
清朝から日本統治時代に到る中国大陸を舞台にした、「蒼穹の昴」、「中原の虹」、「天子蒙塵」と続く人気大作の著者でもある。
また直木賞作家で近年では直木賞選考委員も勤めていた。
浅田氏の作品にハズレはなく、私も彼の作品は殆どと言って良い程読んだが、総てが完璧でぐうの音も出ないとは、正に彼の作品に対してあるべき言葉だ。
それこそ人工知能に優るとも劣らない完璧な作家である。
しかしそんな大作家の著作に『悪魔』、と、言う短編があるのだが、その作品にだけ彼の人としての部分を垣間見れる表現が存在する。
しかもその短編集の単行本には、彼の直木賞受賞作品である「鉄道員(ぽっぽや)」も含まれる。
一九九七年四月三十日に第一刷が集英社から発行されており、その『悪魔』自体は講談社発行「オール読物」の一九九五年十一月号に掲載されたものである。
やはり直木賞受賞作品を含む単行本だけに、誤字、誤植、脱字など初歩的なミスは一切存在しない。
しかし一点だけどう考えても誤りと言わざるを得ない箇所が有る。
それは「牧師」と表現されている聖職者についてなのだが、これは「神父」と言わざるを得ないのだ。
この作品は幼少期の浅田氏自身の体験を基にした短編であるが、主人公である少年の「僕」は実家の家産が破れた原因を家庭教師の蔭山に見い出す。
彼を悪魔だと思い込んだ「僕」は救いを求めて教会に駆け込むのだが、そこで「物言わぬ聖体を見ているうちに涙が出てしまったのだ」、と、言う表現と、牧師のセリフで「悪魔を君の前から追い払うのには、イエスの名を呼ぶことも、十字をきることも、福音書を読むことも必要ないのです」、と、言う表現が出てくる。
つまり物言わぬ聖体とは十字架に磔にされたイエス像或いはマリア像を指し、十字をきる必要もないと言うことは、その牧師が普段十字を切っている、と、言うことに繋がる。
ご存知かと思うがキリスト教には、大きく分けてカトリックとプロテスタントの二種類の宗派がある。
もうひとつロシア正教会と言うものもあるが、ここではプロテスタントかカソリックかと言う事で説明が付くので敢えて二つの宗派に限
‐3‐
る事にする。
プロテスタントでは神に仕え迷える子羊たる信者を導くと言う意味から聖職者を「牧師」、カトリックでは神の教えを説く信者の父たる存在として、聖職者を「神父」と呼ぶ。
英語で書けば「M i n i s t e r」と「F a t h e
-r」と言うことになり、明らかに違う。
しかし日本語にしてキリスト教信者が少数派である日本人が聴くと、どちらがどうか曖昧で分かり難いと言うのが偽らざる現状だと思う。
それ等はそれぞれに教義があり慣習なども違ってくるので、或る意味まったく違う宗教と言っても過言ではない。
英国のEU離脱によって再び懸念される北アイルランド問題も、IRA(アイルランド共和軍)を組織したカトリックの過激派と、対するプロテスタントが多数を占める英国との間で起こった武力闘争に端を発する。
何が言いたいかと言えば、作中で「牧師」と表現されるキリスト教の聖職者は、その教義から言うならば明らかに「神父」とすべきなのである。
つまり偶像崇拝を禁止されたプロテスタントの教会にはイエスの磔になった像もマリア像も存在しないし、プロテスタントの牧師が十字をきることは勿論、十字をきる必要性について言及することもないと言いたいのだ。
逆に言うとこの作品の中での教会はカトリック教会であり、牧師であるとされる聖職者の言動は、飽くまでカトリックの聖職者である神父の取ったものなのである。
と、言うことはこれがAIの書いた作品であったなら、ここで登場する牧師は確実に神父と書かれていたことになる。
仮に人が書いたものであってもAIが赤ペンを入れて校閲をしたら、その時点で牧師は神父に書き変わっていた筈である。
だからこそ私は浅田氏を批判することも、この作品を掲載或いは刊行した二社の出版社の編集者や校閲者を批判することも、決してしない。
何故ならAIに依る詰まらない作品よりも、ここで神父と表現されるべき牧師にこそ私はロマンを感じるからだ。
礼こそ言え批判など以ての外である。
ここからは私の、妄想、或いは、推理、と、でも考えて貰おう。
この作品を読む前から浅田氏のファンである私は、家産が破れる前の彼の実家が如何に裕福であったかを当然知っていた。
ミッションスクールに通っていたことも事実である。
唯、それがプロテスタントのミッションスクールだったのか、或いはカトリックのミッションスクールだったのか迄は知らなかった。
‐4‐
しかし図らずもこの作品が彼の通っていたミッションスクールが、プロテスタントのミッションスクールだったことを裏付けてくれた。
その裏付けを信じてットで再調査してみると、やはり彼の通っていた小学校はプロテスタントのミッションスクールであった。
神父を牧師としてしまった彼の脳裏には、当時通っていた小学校に居たせんせいが牧師だと、強く、強く焼き付いていたのである。
彼の記憶は変えようがなく、無意識の内に作家として描いたイメージであるカトリックの教会や神父に、幼少期の記憶の中に焼き付いたプロテスタントの教会や牧師が重なってしまったのだろう。
博識の彼がカトリックとプロテスタントの違いを知らぬ筈がない。
と、するならば、この作品に取っては全体の文脈から鑑みてとか、その表現はとか言う尤もらしい意見をすっ飛ばして、絶対に牧師は牧師でなくてはならないのだ。
仮に牧師を神父とすれば、それは彼を否定することになるからだ。
言い換えればそれは、AIとは人間を否定するものなのではないか、と、言うことになるが、そう考えるのは行き過ぎだろうか。
加えてもうひとつの疑問点は、「オール読物」に掲載した講談社の校閲と、或いは単行本を発刊した集英社の校閲は、この牧師と神
父の相違点に気付いていたかどうか、と、言う点だ。
英語ならまだしも日本語にすると「牧師」と「神父」になり、どちらがどうかと問われれば、日本人の大半がその詳細を答えられないのではないだろうか。
大手出版元の二社の校閲が二社ともそのことに気付いていないとしても、それはそれで肯ける。
プロテスタントがどうのカトリックがどうのなどと言う議論は、日本人に取って取るに足りない他人事にしか過ぎないのだから。
斯く言う私もそんな日本人のひとりだ。
無神論者の私がキリスト教のことを云々すること自体、ピューリタンな国のクリスチャンからするとまたそれも滑稽な話であろう。
私は常々太平洋戦争を通じて、その血に注ぎ込まれた国家神道と言う名の治療不可能なウイルスから、未だに日本人は解き放たれていない、と、そう考えている。
だからこそ国民の多くは無神論者なのだ、と。
そのことはさておき、もしも二社ともにこの牧師と神父の件に気付いていてわざとそのままにしていたのなら、それは賞賛に値する。
或いは浅田氏に於いては尚更の事である。
この作品に於いて神父は牧師であるべきである、との信念を以て表現されていたのならばそれこそがロマンではないか。
-5-
とは言えその真相は定かではないし、またそのことを知る必要もこれ等一連の表現を訂正する必要もない。
何故ならそれがこの「悪魔」と言う作品であり、この作品から生まれるもうひとつの物語を形成する重要な要素だからである。
しかし最後に一点だけ、私はとても気に掛かっていることがある。
それはアイルランドや英国領の北アイルランド地方で、この作品の英語版が出版されているのかいないのか、また今後出版される予定があるのかと言う点についてだ。
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とにかく凄い作家だ。
コメディにエッセイ、恋愛、歴史、時代、推理、アドヴェンチュアまで、ありとあらゆる作品を書く。
清朝から日本統治時代に到る中国大陸を舞台にした、「蒼穹の昴」、「中原の虹」、「天子蒙塵」と続く人気大作の著者でもある。
また直木賞作家で近年では直木賞選考委員も勤めていた。
浅田氏の作品にハズレはなく、私も彼の作品は殆どと言って良い程読んだが、総てが完璧でぐうの音も出ないとは、正に彼の作品に対してあるべき言葉だ。
それこそ人工知能に優るとも劣らない完璧な作家である。
しかしそんな大作家の著作に『悪魔』、と、言う短編があるのだが、その作品にだけ彼の人としての部分を垣間見れる表現が存在する。
しかもその短編集の単行本には、彼の直木賞受賞作品である「鉄道員(ぽっぽや)」も含まれる。
一九九七年四月三十日に第一刷が集英社から発行されており、その『悪魔』自体は講談社発行「オール読物」の一九九五年十一月号に掲載されたものである。
やはり直木賞受賞作品を含む単行本だけに、誤字、誤植、脱字など初歩的なミスは一切存在しない。
しかし一点だけどう考えても誤りと言わざるを得ない箇所が有る。
それは「牧師」と表現されている聖職者についてなのだが、これは「神父」と言わざるを得ないのだ。
この作品は幼少期の浅田氏自身の体験を基にした短編であるが、主人公である少年の「僕」は実家の家産が破れた原因を家庭教師の蔭山に見い出す。
彼を悪魔だと思い込んだ「僕」は救いを求めて教会に駆け込むのだが、そこで「物言わぬ聖体を見ているうちに涙が出てしまったのだ」、と、言う表現と、牧師のセリフで「悪魔を君の前から追い払うのには、イエスの名を呼ぶことも、十字をきることも、福音書を読むことも必要ないのです」、と、言う表現が出てくる。
つまり物言わぬ聖体とは十字架に磔にされたイエス像或いはマリア像を指し、十字をきる必要もないと言うことは、その牧師が普段十字を切っている、と、言うことに繋がる。
ご存知かと思うがキリスト教には、大きく分けてカトリックとプロテスタントの二種類の宗派がある。
もうひとつロシア正教会と言うものもあるが、ここではプロテスタントかカソリックかと言う事で説明が付くので敢えて二つの宗派に限
‐3‐
る事にする。
プロテスタントでは神に仕え迷える子羊たる信者を導くと言う意味から聖職者を「牧師」、カトリックでは神の教えを説く信者の父たる存在として、聖職者を「神父」と呼ぶ。
英語で書けば「M i n i s t e r」と「F a t h e
-r」と言うことになり、明らかに違う。
しかし日本語にしてキリスト教信者が少数派である日本人が聴くと、どちらがどうか曖昧で分かり難いと言うのが偽らざる現状だと思う。
それ等はそれぞれに教義があり慣習なども違ってくるので、或る意味まったく違う宗教と言っても過言ではない。
英国のEU離脱によって再び懸念される北アイルランド問題も、IRA(アイルランド共和軍)を組織したカトリックの過激派と、対するプロテスタントが多数を占める英国との間で起こった武力闘争に端を発する。
何が言いたいかと言えば、作中で「牧師」と表現されるキリスト教の聖職者は、その教義から言うならば明らかに「神父」とすべきなのである。
つまり偶像崇拝を禁止されたプロテスタントの教会にはイエスの磔になった像もマリア像も存在しないし、プロテスタントの牧師が十字をきることは勿論、十字をきる必要性について言及することもないと言いたいのだ。
逆に言うとこの作品の中での教会はカトリック教会であり、牧師であるとされる聖職者の言動は、飽くまでカトリックの聖職者である神父の取ったものなのである。
と、言うことはこれがAIの書いた作品であったなら、ここで登場する牧師は確実に神父と書かれていたことになる。
仮に人が書いたものであってもAIが赤ペンを入れて校閲をしたら、その時点で牧師は神父に書き変わっていた筈である。
だからこそ私は浅田氏を批判することも、この作品を掲載或いは刊行した二社の出版社の編集者や校閲者を批判することも、決してしない。
何故ならAIに依る詰まらない作品よりも、ここで神父と表現されるべき牧師にこそ私はロマンを感じるからだ。
礼こそ言え批判など以ての外である。
ここからは私の、妄想、或いは、推理、と、でも考えて貰おう。
この作品を読む前から浅田氏のファンである私は、家産が破れる前の彼の実家が如何に裕福であったかを当然知っていた。
ミッションスクールに通っていたことも事実である。
唯、それがプロテスタントのミッションスクールだったのか、或いはカトリックのミッションスクールだったのか迄は知らなかった。
‐4‐
しかし図らずもこの作品が彼の通っていたミッションスクールが、プロテスタントのミッションスクールだったことを裏付けてくれた。
その裏付けを信じてットで再調査してみると、やはり彼の通っていた小学校はプロテスタントのミッションスクールであった。
神父を牧師としてしまった彼の脳裏には、当時通っていた小学校に居たせんせいが牧師だと、強く、強く焼き付いていたのである。
彼の記憶は変えようがなく、無意識の内に作家として描いたイメージであるカトリックの教会や神父に、幼少期の記憶の中に焼き付いたプロテスタントの教会や牧師が重なってしまったのだろう。
博識の彼がカトリックとプロテスタントの違いを知らぬ筈がない。
と、するならば、この作品に取っては全体の文脈から鑑みてとか、その表現はとか言う尤もらしい意見をすっ飛ばして、絶対に牧師は牧師でなくてはならないのだ。
仮に牧師を神父とすれば、それは彼を否定することになるからだ。
言い換えればそれは、AIとは人間を否定するものなのではないか、と、言うことになるが、そう考えるのは行き過ぎだろうか。
加えてもうひとつの疑問点は、「オール読物」に掲載した講談社の校閲と、或いは単行本を発刊した集英社の校閲は、この牧師と神
父の相違点に気付いていたかどうか、と、言う点だ。
英語ならまだしも日本語にすると「牧師」と「神父」になり、どちらがどうかと問われれば、日本人の大半がその詳細を答えられないのではないだろうか。
大手出版元の二社の校閲が二社ともそのことに気付いていないとしても、それはそれで肯ける。
プロテスタントがどうのカトリックがどうのなどと言う議論は、日本人に取って取るに足りない他人事にしか過ぎないのだから。
斯く言う私もそんな日本人のひとりだ。
無神論者の私がキリスト教のことを云々すること自体、ピューリタンな国のクリスチャンからするとまたそれも滑稽な話であろう。
私は常々太平洋戦争を通じて、その血に注ぎ込まれた国家神道と言う名の治療不可能なウイルスから、未だに日本人は解き放たれていない、と、そう考えている。
だからこそ国民の多くは無神論者なのだ、と。
そのことはさておき、もしも二社ともにこの牧師と神父の件に気付いていてわざとそのままにしていたのなら、それは賞賛に値する。
或いは浅田氏に於いては尚更の事である。
この作品に於いて神父は牧師であるべきである、との信念を以て表現されていたのならばそれこそがロマンではないか。
-5-
とは言えその真相は定かではないし、またそのことを知る必要もこれ等一連の表現を訂正する必要もない。
何故ならそれがこの「悪魔」と言う作品であり、この作品から生まれるもうひとつの物語を形成する重要な要素だからである。
しかし最後に一点だけ、私はとても気に掛かっていることがある。
それはアイルランドや英国領の北アイルランド地方で、この作品の英語版が出版されているのかいないのか、また今後出版される予定があるのかと言う点についてだ。
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