第6話  家出

文字数 5,006文字

 2008年8月、結婚生活が破局に向かう転機となるほどの大きな出来事が起きた。きっかけは達也の携帯電話に残されたメールの履歴である。
 その一週間ほど前、達也は東京への出張のついでに横浜で、とある女性と昼食を共にしている。その女性はネット上で知り合ったメール相手であり、達也にとっては自身が直面している家庭内の不和が児童心理に及ぼす影響などについて、異性としての立場から気軽に意見を求めることができる存在であった。
 このような極めてプライベートなことは、日常的に関わりのある相手には相談しにくいものである。むしろネット上の見ず知らずの相手のほうが本音で語れることから、何人かとメールのやり取りをしていたうちの一人である。
「子どもを育てていく過程は、純白のキャンバスに絵を描いていくのと似ているように感じます。」
 送られてきたメールの文面に共感できたことが、この女性と直接、話をしてみたいと興味を抱いた最大の動機であった。
 パソコン上のメール交換にとどめているぶんには、エリカにその内容を盗み読まれる心配はなかった。だがお互いの顔も知らない者同士が初めて待合わせ場所で落ち合うために、携帯の番号とメールアドレスを教え合っていたのである。横浜駅前にあるホテルのレストランで一緒にランチをとりながら、二人にとって共通の関心事であった幼児期における子どもの心理などを話題に二時間ほど話し込み、再会の約束もなく別れた。ただそれだけのことだったのである。
 ところが迂闊にも達也の携帯には、
「シェラトンホテル前でお会いしましょう。」
待ち合わせ時の相手女性からのメール内容が、消去されずにそのまま残っていた。
 なるほど、文字面だけを読めば誤解されても不思議はない。そのメール履歴を、机の上に放置しておいた達也の携帯を開いたエリカが読んでしまったものらしい。

 その晩は、達也が北京オリンピック野球中継の日韓戦を一階の居間でくつろいで観戦していたときで、麻奈美はすでに二階のベッドで寝付いていた。
 険悪な形相で二階から下りてきたエリカはいきなり達也にくってかかった。夕食時のワインのせいか、酔っているようにも見えた。
「この前、横浜で会った女は誰なの!」
 達也は最初、何のことか解らなかったがどうやらあのメール相手の女性のことらしい。
「ただのメール友達だよ、出張のついでに会うことになってホテルのレストランで一緒にランチを食べた。ただそれだけ。」
と、ありていに話をした。
 しかしエリカは、
「ホテルで会って浮気をしてきたんでしょう!」
 ますます興奮している様子である。どうやら本気で誤解しているらしかった。達也にとっては意外であった。エリカは嫉妬心をむき出しにしている。
 だが達也自身は普段の生活こそ普通の夫婦を演じていたものの、すでに信頼関係が失われてしまった妻に対して、もはや女としての興味をまったく失っていた。夫婦としての証である営みもあの家裁での調停以来、三年近く途絶えたままである。だからエリカも同様に達也を男として見ることはなくなったのではないか、と勝手に考えていたのである。ところがそうではなかったらしい。エリカは執拗に達也を問い詰めた。
 達也はせっかくの野球観戦を邪魔されてしまったことと、酔った上、興奮状態のエリカにはこれ以上どのような言い訳をしても無駄だと思い、寝室に引き上げて麻奈美の傍で寝ようとした。
 だがエリカはそこまでやってきて、
「逃げるつもりなの!」
 今度は、就寝さえ許さないと言わんばかりの興奮ぶりである。傍らでは、麻奈美が小さな寝息を立てている。
「いい加減にしろ!」
 達也は平手打ちを軽く一発見舞った。
「やったわね、もっと叩いてみなさいよ!」
 挑発してきたエリカに対して、今度は、少し強く往復ビンタを喰らわせる。
「ウワー!」
 エリカは、近所にも響き渡るほど大きな叫び声をあげた。その大声にびっくりして飛び起きた麻奈美は、鬼のような形相のママを目にすると火がついたように泣きだした。それを見てようやく我に返ったエリカは、娘を抱きかかえながら客間として使っていた隣の和室に閉じ籠った。
 降ってわいたような災難に達也も気持ちが高ぶってなかなか寝付けなかったが、眠れないときのために常備してあった睡眠導入剤を飲んで気を静めることにした。うとうとしながらも何度か目を覚まし、隣の気配を探ろうとするが物音ひとつ聞こえない。
 たぶん、母子で寝ついてしまったのだろうと考えながら眠りにつき、そして朝を迎えた。隣の部屋があまりにも静かなので、そっと襖を開けてみて仰天した。
 もぬけの殻である。一体、どこに?とりあえずなんとか連絡を取ろうと、何度もエリカの携帯に連絡を入れてみるのだが不在通知が繰り返されるばかりである。電話にでるつもりはないらしい。ならばメールならどうか?
「叩いたことは悪かった。とにかく落ち着いて話をしよう。」
 送信したところ、夕方になって反応があった。
「携帯電話を見てしまったこと謝ります。考えたいことがあるので、とりあえず友達の所にお世話になります。連絡を待っています。」
 どうやらだいぶ落ち着いてきたらしい。それにメールでなら連絡を取り合うつもりはありそうだ。それだけでも救いであった。ただ、麻奈美を連れてどこに潜んでいるのか、所持金もほとんどないはずなのでそれがもっとも心配である。、数日後、達也はエリカのバイト先であるホテルの同僚で、自宅まで車で送ってきたときに顔を見知っていた日本人女性を、働いているホテルに訪ねてみた。喫茶店で待ち合わせ、何か心当たりはないか訊ねたところ、図星だった。あの日の深夜、エリカが泣きながら電話をかけてきて、家を出たいので車で迎えに来てほしいと頼まれたのだという。
 ただ事ではないと感じ、車を走らせて来てみるとエリカはすでに荷物をまとめていて麻奈美を連れてそのまま家を出た。そしてエリカが予め連絡を取り、フィリピンの友人から借りたというウィークリーマンションの部屋まで送ったのだという。
 だがその居場所は達也には教えないでと頼まれた、と彼女は語った。たぶん達也の携帯を盗み見た非を詫びたような文面のメールは、この友人から諭されて送ったものだろう。それはともかく、もっとも気がかりだった麻奈美の身の安全だけは確保されているらしい。達也は安堵するとともに、早く家に戻るよう説得のメールを打ち続ける。
 しかし、その後のエリカの態度は頑なで達也には麻奈美を盾にとって抵抗を続けているようにしか思えなかった。一週間が過ぎ、業を煮やした達也はメールを送った。
「このまま麻奈美を辛い目に合わせるのならまた裁判所に行くしかないが、どうしますか?」
 それに対して返信があった。
「どうぞ、それなら私にも言いたいことがあるから。」
 達也は、すぐに行動した。エリカの借金癖は不治の病のようなものであり、いずれ離婚は避けられないだろうと考え続けてきた達也にとって背中を押されるような状況が生まれたのである。迷うことなく家庭裁判所に赴き、「子の引き渡し請求」と二度目となる離婚調停の申立て手続きをとった。
 その申立てのために必要な書類の一つに、エリカの外国人登録原票があった。区役所でそれを取り寄せてみて達也は驚愕した。三年間であるはずのエリカの在留資格が、なんと永住者と記されていたのである。
 資格を取得した日付を見ると、2007年2月となっている。一年半も前のことではないかしかしどうやって?あの時、達也が署名押印したのは三年間の在留資格延長用の身元保証書一通だけで、永住資格申請には別途、もう一通必要なはずである。離婚調停直後のあの時期に、永住に同意するような身元保証書など書いたはずがない。
どちらも書式は同じであるが、身元保証の内容として以下の事項が記されている。
一.滞在費  
二.帰国旅費  
三.法令の順守
 被保証人の滞在期間中、これらの保証責任を負うことになるのであるから決して軽々しく署名できるようなものではない。ましてや永住用となれば無期限を意味する。
 二通の身元保証書が存在する謎を解くには入国管理局を訪ねてみるしかないと思い、その窓口に足を運んだ達也に対してベテランの職員が応対した。その入国審査官の口を衝いて出たのは、いかにも役人らしいそっけないものであった。
「一度受理されたものを取り消すことなどできない相談です。申請書類も個人情報に関わるものですから、開示できません。不服があるなら、書面にてお伺いを立てていただくしかありませんな。」
 達也は納得できなかった。自宅に戻って、パソコンから霞ヶ関の法務省本庁のホームページを開き、クレーム受け付け用のフォームから、仙台の窓口で受けた対応はあまりにもお役所仕事的すぎるのではないか、と抗議のメールを送った。
 その数日後、くだんの審査官から電話があった。
「本庁にあのようなメールを送られて、甚だ迷惑している。」
 どうやら、効果はあったようである。いかに自己保身に徹する役人でも、上からの叱責には弱い。その後、何度も足を運び、ようやく在留資格延長申請と永住資格申請に、別々に提出された二通の身元保証書の写しを開示させるのには、更に三ヶ月を要した。

 エリカが家を出て二週間ほど経ち、所持金が底をついたことを窺わせるような内容のメールが届くようになっていた。まだ四歳前の幼い麻奈美を連れて家を出ているので、保育所にでも預けない限り仕事に出ることはできない。たちまち生活に窮することは目に見えていた。
 その頃には、家庭裁判所での二度目となる離婚調停申し立ても既に受理されてはいたが、達也はエリカに対する懐柔策に出た。
「麻奈美も外で遊びたがっているのでは?今度の土曜日に一緒に動物公園に連れて行きませんか?」
とのメールを送ってみたのである。最初は、
「麻奈美だけ連れ戻す気ではないでしょうね?」
と警戒していた様子だったが、ようやく提案に応じてきた。そして土曜日の昼に街中で待ち合わせることにしたのである。
 達也は繁華街のアーケード通りのベンチに腰をおろして二人が現れるのを待っていた。買い物客で賑わう、かなり離れた所から達也の姿を見つけた麻奈美が、
「パパ!」
と叫びながら走り寄ってきた。あの晩から、二週間ぶりに目にする愛娘の笑顔である。
「麻奈美!元気だった?」
 達也は麻奈美の小さな手を握り、頭をなでてあげる。その後、三人でファミリーレストランのランチを摂り、車で目的地の八木山動物公園へと向かった。さすがに車中でもエリカは言葉少なである。しかし動物園に着いて、初めてみる本物のゴリラや象などの姿をみてはしゃぐ麻奈美につられ、幾分、心もほぐれてきたように見えた。
 その一週間後、エリカは運び出した荷物をまとめて家に戻った。結局、三週間で生活費が底をつき、このまま別居を続けることはできないと自ら悟ったのであろう。後に家裁で陳述したように、幼い麻奈美のために戻ったものでなどないことだけは明らかだった。
 その証拠に、翌日から夜の仕事で働き始めたのである。仕事先は、自宅から五キロほど離れた場所のスナックらしかった。エリカはこの夜の仕事で、月に15万円以上の収入を得ることができたはずである。家出の期間中借りていたウィークリーマンションの家賃を請求され、それを返済する必要があったためであろう。その仕事は翌年の春まで半年以上続いた。水商売であるから帰宅の時間は全くあてにならない。早くて深夜の12時から1時、客に誘われれば店を閉めてからでも飲みに行くのだろうか、朝帰りも頻繁であった。
 エリカがいない夜の間、麻奈美は達也と二人だけで寝ることになったのだが、慣れてしまえばぐずって達也を困らせるようなこともなかった。ただ、38度を超えるような熱を出してしまい、達也が睡眠時間を削って夜通し看病しなければならないことも何度かあった。
 この頃に達也がつけていた日記の文調は、幼児を抱える母親としてあまりにもふさわしくないエリカの荒れた生活について、怒りを含んだ描写で綴られていた。
 その中には確信めいた記述もある。
「もし麻奈美をエリカから引き離す時期が来たとして、一時的な精神不安に陥ることはあっても、立ち直るまでそれほど時間は要しないだろう。」

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