第7話 乗客たち

文字数 3,985文字

 稲井は渋滞で動かないバスの座席でウトウトしていたが、急なブレーキで目を開けた。窓に顔を近づけると、すでに前方で停車している紺のアウディにウインカーがついた。
 稲井はあの車が強引な割り込みをしたのだろうと予想した。この町の人たちは、運転が荒いと言われていい気になっているが、稲井に言わせれば単に下手なのである。市電とはいえ運転を生業としている稲井の自論は、高い運転技術に必要なのは頭と運動神経が良いことで、その両面においてこの町の人間は弱いと決め込んでいた。現にこのバスの運転手がそうだと稲井は思う。今日のように路面状況や視界が悪いときは、いつも以上に先を予測しながらハンドルを握るべきだ。俺だったら絶対に、さっきみたいな急ブレーキを踏むことはない。
  稲井はそんなことを考えながら、交差点から出て行こうとしているアウディを見ていて目を見張った。その先の横断歩道に妻がいたのだ。雪が邪魔しているものの、あれは綾子に間違いない。そして追い越しざま近くから見た彼女の顔には、雪焼けにゴーグルの跡がくっきりとついていた。
  稲井は彼女が高瀬のところにいることを確信した。漠然と予想はしていたものの現実を突き付けられると、それは思いのほか重かった。子どもには恵まれなかったが、夫婦としての絆はあったと思っている。しかし彼女は高瀬のところへ行ってしまった。一緒に過ごした十数年間は一体何だったのだろう。
  彼女が視界から消えても、稲井は視線を動かすことができなかった。答えの出ない疑問が、降り止まぬ雪のように浮かんでは消えていく。ただ一つだけ分かったのは、彼女が自分のところへ帰ってはこない、ということであった。
  いつもより一時間近く長い時間をバスに揺られて稲井は局に着いた。乗務員室に入ると、後輩の山﨑が人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
「稲さん、おはようございます」
「ああ」
 稲井は彼をじっと見ながらつぶやいた。
「ずいぶん早いですね。確か出番は午後遅くからですよね?」
 こいつも俺の状況を聞いているのかもしれない、と稲井は思った。長年連れ添った女房に逃げられた情けない男、と笑顔の裏で馬鹿にしているのだ。
 稲井は問いかけに答えず彼を見続けた。それに耐えられなくなった山﨑は、軽く会釈をして去っていった。稲井にとって乗務員室の光景は、いつもと変わらぬようでいて、何もかも変わってしまっていた。
  不意に高瀬と目が合った。稲井は駆け寄っていき、雪焼けしたその顔に罵声を浴びせ拳を打ち下ろすところを想像した。それだけで鼓動が激しくなり息も荒くなっていく。稲井は胸を押さえてロッカールームへ向かった。冷や汗が止まらない。
 部屋の中に誰もいないことを確認すると、うつむいて膝に手をつき呼吸を整えた。汗でシャツが背中に貼りついている。今からでも乗務を代わってもらった方がいいのかもしれない、という思いが頭をよぎったが、奴らに貸しを作るのも詮索されるのも、ましてや同情されるのもごめんだ、とロッカーに常備してある替えのシャツに手をかけた。今の自分には乗務しかないのだ、と思いながら。
  稲井は車両内で乗務前点検をしながら、ササラ電車が車庫から出ていくのを見送った。一日に二度も走ることは、この数年なかったはずである。昨日からの雪の影響を考えて早めに局に入ったが、もうすぐ乗務の時間になろうとしていた。
  稲井は運転台に立つと指さし確認を終え、本部からの指示を待った。ふと問題の高校生たちのことが頭をよぎったが、ちょうどそのとき発車指示がきた。稲井は思いを切り替えると、制動レバーを解放にしてから、いつもより強い力で制御レバーを右に回した。駆動音が車内に響く。
 この車両は局内で一番古いが雪には強い。その代わり制動操作にクセがあり、高い運転技術が求められる。稲井はこの車両を完璧に操れるのは自分しかいないと思っていた。
  車庫をゆっくり出ると運転台から見えてきたのは降りしきる雪である。稲井は車内の温度が下がったような気がして、暖房を少し上げた。
  今日の乗客が少ないのは雪の影響であろう。仕事帰りでの利用は普段より多いが、それでも席が埋まることはない。
  千歳町電停を発車したあたりで雪が小降りになってきた。陽が少しかげってきたので、視界が良くなるのはありがたい。しかし慢性的な財政難のこの町では除雪が行き届かないため、深い圧雪にハンドルをとられた車が軌道に突然飛び出してくることも考えられる。稲井は再び前方に注意を集中すると、制動レバーを握り直した。
  松風町電停を過ぎると正面に駅舎が見えてくる。いつもの光景がそこにあった。しかしいつもいるはずの彼女はもういないのだ。
 いつか高瀬は自分に事情を説明してくるに違いない。彼女が抱いてきた不満を理由に自分たちを正当化するのだろうか。それとも、ただただ謝るのだろうか。どちらにせよ、あいつはこめかみをかいていることだろう。
  稲井は近づいてきた駅前電停に立つ数人の乗客を注視したが、あの高校生たちはいなかった。やはりこの雪で出歩いていないのだ、と思いながら乗降口を開ける。
 乗り降りが落ち着いたのを見計らって、安堵のため息と共に乗降口を閉めようとした。そのとき、けたたましく乗り込んできたのは、彼らだった。
「たけるはぜってえ久美ちゃんをヤルつもりでいるって思ってたわ」
「だからよ!マジでうぜえっけや、あのババア。そのうちボコるから金子も協力しろや」
「でもよ、ケーサツとかヤバくね?」
「大丈夫だって、うちの親父が何とかすっから」
  電停を出発する前の比較的静かな車内で、彼らの話し声は運転台の稲井にまで聞こえてくる。客室確認用の鏡越しに、大声で話していた二人が優先席に大股開きで座り、もう一人はつり革を両手で握って、ぶら下がるように向かい合っているのが見えた。幾人かの乗客は明らかに眉をひそめている。
  稲井が視線を前方に移した直後、地元出身のロックバンドの曲が大音量で流れてきた。鏡に目をやると、つり革の少年が携帯に出ようとしている。大きな話し声が聞こえてきた。
「岩澤と金子もいるけど。おう、後で行くわ。岩澤、なまら喜ぶって。じゃ、切るから」
 それから大きな笑い声と、何かを叩く音がして、「だったら谷地頭まで乗ってけばオッケーじゃん」と言う声が聞こえた。
  稲井は彼らが終点まで降りないことを知ると、急に息苦しさを感じた。鏡に目をやると、数人の乗客が次の十字街電停で降りる準備をしている。面倒でも後続の車両に乗り換えようということであろう。
  前方に目を移そうとしたとき、一人の少年と目があった。稲井を睨むように見ており、視線をそらすのに一瞬の間ができた。そのために、一台の車が進行方向に入ろうとしているのに気づくのが遅れた。
  咄嗟に稲井は制動レバーを回す。しかし速度が落ちない。そこで強い力をかけて一気にレバーを回した。
 慌てた稲井は忘れていたのだ。この車両を滑らかに減速させるには、強い力でゆっくりと制動レバーを回さなければいけないことを。
 稲井の操作を受けた車両は、急ブレーキに近い減速をした。制動用の金属板と車輪が擦れる音、背後から聞こえる乗客の悲鳴。結局、車は軌道に入ってはこなかった。
 稲井は完全に停車してから、平静を装ってマイクに向かって言った。
「急なブレーキ大変失礼いたしました。お怪我をされた方はおりませんでしょうか」
 それから形式的に振り返って客室の確認をする。やはり転倒や怪我をした乗客はいないようだ。さっき稲井を睨んでいた少年が怒鳴った。
「危ねえ運転してんじゃねぇよ。親父に言ってクビにすんぞ、この下手くそっ」
  運転台後方の仕切り壁のネームプレートを見ていたもう一人の少年が、「センス無いんじゃないの?稲ちゃ~ん」と、にやけ顔で言った。
  稲井は自分の体温が下がったように感じた。そして心の中で同じ言葉を繰り返していた。
  お前たちのせいでこうなったんだ。
  お前たちのせいでこうなったんだ。
  お前たちのせいでこうなったんだ。
「何をぶつくさ言ってんだ、テメェ」
  そう言われて我に返った稲井は、自分が声に出していたことに気がついた。他の乗客は怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。胸が苦しい、息ができない。
「申し訳ございませんでした。発車いたします」
  稲井は絞り出すようにそれだけ言うと、運転台に向き直り、深呼吸をした。大丈夫だ……大丈夫だ……、と自分に言い聞かせる。
  十字街電停に着くと、少年たちを残して全ての乗客が席を立った。最後に降りようとしていた女性が言った。
「あの子たちのこと、ちゃんと注意しなさいよ。乗務員なんだから」
 稲井は彼女に目を向けずにいたが、次に聞こえてきた言葉は驚くべきものだった。
「だから妻に逃げられるのよ」
 稲井は彼女の方を向いて、はっとした。そこには誰もいなかったのだ。開いている扉から雪が舞い込んでいる。
 稲井には、さっきの女性も、少年たちも、目の前の運転台も、現実のようで虚構のような、あるようでないように感じられた。
  宝来町電停へ向けて速度をさらに上げようと制御レバーを握る手に力を入れたとき、稲井の胸を今までにない痛みが襲った。まるで心臓を重い何かで挟まれているようだ。吸っても吸っても息ができない。視界の四隅から黒いベールのようなものが徐々に垂れ込め、やがて何も見えなくなった。
  前のめりになった稲井の巨体は、運転台へもたれかかった。その弾みで強く握っていた制御レバーは全開となり、大きな駆動音と共に速度が増していく。少年たちは相変わらず騒いでいた。
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