文字数 3,777文字


 あの電話があってから、二週間が経っていた……。
 その間、わたしはろくな学習指導もできず、生徒のひとりから
「先生、どうしたん、最近なんか調子おかしいで」
 などと、からかわれる始末だった。
 情けない話ではあったが、経済的な事情もあって、もともとまともな食事ができていない上に、食欲もなかったりするので、身体はみる間に痩せてきていた。
 そのせいなのだろう。抵抗力がなく、酷く咳き込んでいた生徒のひとりから風邪をうつされてしまった。
 高熱が全身に回り、歩くことさえままならなかった。
 生来、身体が弱く、よく風邪をひいていたが、その体質は大人になっても変わらなかった。誰かが風邪をひくと、必ずうつされるのだった。
 わたしは、塾長に着任して以来、初めての休みを取った。
 塾長の代わりは、すでに退院していた数学の先生が勤めてくれることになった。わたしは、熟で真っ赤になってたどり着いた医院からもらった薬を飲み、はあはあといいながら、安アパートの床に就いた。医者は、流行性の感冒だから、風呂には入らず、三日間は絶対安静にしておくようにというのだった。
 安静もなにも、動くことそれ自体が苦痛だった。
 高熱に浮かされるということばがあるが、薬を飲んでも熟は一向に下がらなかった。その代わり、汗はどんどん流れ出し、脳の中はランニングハイともいうべき状態になった。
 普段は見えもしない映像や画像が、くっきりと細部にわたって見え、色までが付いているのだった。思いつくことばも尋常な量ではなかった。それらの映像や浮かび出てくることばを眺めていると、なぜか自信にあふれ、なんでもできるような気がした。
 というより、自分が天才だと思えるほど、記憶力とアイデアカに富んだ人間のように感じた。眼を瞑っていると、つぎからつぎへと新鮮で素晴らしいことばがあふれ出し、記憶できないほど夥しい量のアイデアが紡がれていくのだった。
 そうして悪夢の二日間が過ぎ、熱が平熱に近くなったころ、ようやく深い眠りに就くことができるようになっていた。
 もう暫く眠ろうとしていると、ドアが叩かれている気がした。
 そうっと眼をあけ、耳を澄ました。
 やはり、音はしている。
 さきほどから鳴り続けていた、夢の中のノック音が現実のものとなったのである。
「どちらさまですか」
 寝乱れたパジャマ姿をそそくさと整え、よろよろと立ち上がって、ドアを開くと、そこに彼女が立っていた。
「塾に行ったら――」
 彼女が心配そうな顔つきで言った。「女の先生に、あなたが風邪で二日前から休んでいると聞いたものだから……」
 その顔には懐かしさがあふれていた。夢にまで見た顔だった。
 わたしは、その場で彼女を抱きすくめた。間違いなく彼女の香りがした。夢の続きではない――。
 わたしは、もう一度、彼女を抱きしめて言った。
「逢いたかったよ……」
「ごめんなさい。多分、ろくなもの食べてないんじゃないかと思って、肉じゃがとフランスパンをもってきたわ」
 彼女は、わたしの腕を振りほどくようにして中に入り、持参した荷物をテーブルの上へ広げた。
「風邪をひいたら、膳の下に屈めっていうでしょ。しっかり食べるもの食べて、早く元気になってもらわなくちゃね。いま、温かい玉子酒をつくるから、その肉じゃがをパンと一緒に食べて待っててね。つくり立てだから美味しいわよ」
 これが、生まれて初めて口にした彼女の手料理だった。玉子酒は風邪の特効薬だから、よく効くのよ、しっかり腹ごしらえしたあとは、これを飲んでぐっすり眠るといいわ、と彼女は言った。
 彼女が持ってきた肉じゃがは温かく、この二日間、食べ物らしい食べ物をほとんど口にしていなかったわたしには、この世にこんな旨い食べ物があるのかと思えるほどに美味しかった。
 彼女はおそらく、いつものようにタクシーを飛ばしてやってきたのだろう。彼女に一般の交通手段は通用しなかった。わたしは、彼女が京都の地理に疎く、バスや電車が苦手なのを知っていた。ひとりで出歩くときは、必ずタクシーを使うのだった。
 それこそ、わたしのアパート近くのコンビニに行っても、迷って帰ってくるほどの方向音痴だった。一度などは、一時間も帰ってこないので心配していると、反対方向に行ってしまい、三百メートルほど先からタクシーに乗って帰ってきたことがあったくらいだ。
「さ、召し上がれ」
 彼女は、でき上がった玉子酒をわたしの目の前に置いた。そして両手でテーブルの上へ頬杖をつき、わたしを愛おしげに眺めた。
 わたしは、玉子酒に手を伸ばし、それに口をつけた。舌が火傷しそうなほどに熱かった。思わず息を吹きかけた。
「熱いでしょ」
 笑顔を消して――。「わたし、あなたがそれを飲み終えたのを見届けてから、帰ることにするわね」
「え」
 さっきまで灯っていた明かりが一瞬にして消えた気がした。思わず口が勝手にしゃべっていた。
「帰ってしまうの」
 まるで園児だった。
「ごめんなさい。夫からは、静観しときなさいって言われているんだけど、あなたのことが気になって。それで、あなたの塾に行ってみたの。そしたら……」
「ぼくが風邪で休んでると……」
 わたしは、それ以上のことばを見つけられなかった。
 また悪夢が脳内を襲っている気がした。玉子酒どころではなかった。せっかく逢えたというのに、十五分も経たないうちに帰るなんて、そんなことは一度だってなかったはずだ。しかも、時計を見ると、午後七時となっていた。
 わたしは、重い口を開いた。
「聞いてくれ。ぼくは、この十日間、ずっと美貴のくるのを待ってた……。そしてずっと、きみの名前を呼び続けてた。その声はきみにも届いたはずや。そやから、きみはここへきた……」
「半分は、そうだったかも知れない。でも、わたし、あなたが病気と聞かなかったら、ここへはこなかったと思う」
 彼女は、乾いた声で続けた。
「悲しいことだけれど、あなたの言ってることは、単なる偶然でしかないわ。ここへきたことと、あなたが祈ったこととは別のできごとなの。わたしはもう、あなたのものじゃない。夫に知られ、静観を誓った以上、言い訳はもう許されない。わたしは、あのひとの許に帰らなきゃならないのよ」
 狂っているのか――一瞬、思った。
 言っていることと、やっていることが矛盾している。
「ねぇ、わかってちょうだい。あのひとが言うように、わたしはあなたと出会って、生まれて初めて本当の恋というものを知ったわ。でも、それは所詮叶わない夢を見ていたの。あなたは若い。あなたとのことは束の間の夢だったと思うことにしたいの」
「美貴――」
 声が完全に上ずっているのがわかった。「それがぼくにとって、なにを意味するか、わかって言うてるんやな」
「あなたにはずいぶん傷ついたことと思うわ。ほんとうに、どんなに謝ったって許してもらえることではないのかも知れない」
 彼女は、あふれ出した涙を頼に伝わせながら続けた。
「でも、わたしには可愛い娘がいるの。あの子をおいてあなたのところには戻れない。あの子には、恋に狂って男の許に走るエゴイスティックな女より、温かい眼差しで見てくれる母親が必要なの。あなたはまだ若いわ。それに引き換え、わたしの夫はもう五十歳。十年もすれば、還暦のお爺さんよ。そんなひとにどんな罪があるというの。わたしは、あなたとの恋を最後にするわ。ねえ、わかって頂戴。いままでのことは、夢だったと思ってほしいの……」
 そんなことは、最初からわかっていたはずだ。いまさら愛の眼差しだの、あのひとは五十だの、あなたは若いなどといってもらっても、どうしようもないではないか。賽すでに投げられてしまっているのだ。わたしは思った……。
 確かに若いわたしには、失うものはなにもない。捨てて惜しいものはなにもなかった。彼女の、その優しささ以外は――。
「ねぇ、わかってよ。そうじゃなきゃ、わたし……」
 彼女は緊張の糸が切れたように、テーブルの上に泣き崩れた。それ以上はことばにならなかった。鳴咽が部屋中に響いた。
 怒りと落胆と荒れ狂う憤怒と……。
 それにしても、なんと得手勝手な言いわけなんだろう。
 あれほど尽くしてくれたのは、一体なんのためだったのか。睦みあった日々が、夜明けまで語り合ったあのことごとくが、まったくの絵空ごとだったというのか……。
 彼女の鳴咽は、もはやわたしの耳には入らなくなっていた。
 彼女の言ったことが意味するもの――。
 それは、自分のことしか考えられないわたしにとって、死以外のなにものでもなかった。さもなければ、この世の終わりだった。彼女を手放したくなかった。また別の熱が一気に上がった気がした。
 こうなった以上、一瞬たりとも彼女と離れていたくなかった。
 彼女のいない生活など、考えられやしない。それができないくらいなら、いっそのこと、二人で天国へ行ったほうがましだ。世間になんといわれようとかまわない……。
 彼女を、だれにも渡したくない。
「きみがいま言ったことが、一体なにを意味するのか。いま教えてやる――」
 わたしは、彼女の首に手をかけていた。
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