三十一

文字数 5,426文字


 里中は、響子と気持ちのいい別れをしたあと、路上にあったベンチに腰を下ろし、三田に電話をかけた。
「ああ、里中だが、さきほどの続きを聞こうか――」
「ええ。それですが、さきほど熊本の土肥さんと連絡を取ったんですが、保険金は届いてないというんです」
「熊本の土肥さん……、なんのことだ」
「いや、だから、その保険金が真崎家に届かない場合を考えて、返送先に彼の住所を使っているんですよ」
「よく話が見えないな。すまんが、もうちょっと噛んで含むように言ってくれないか」
「ですから、吉田、いや、吉田さんは、そのときホームレスになっていて、差出人の住所を書くことができなかったんです。つまり、なにかの都合で返送されたときのことを考えて……」
「なるほど、それで、土肥さんの住所を――」
「そうなんです。それで、保険金が届いているかどうかを確認したのですが、そのようなものは届いていないというんです」
「しかし、吉田は送ったことにしているんだろ」
「そこが、もうひとつ解けない謎なんですが、小説の中では送る前の状況だけが書かれていて、そのあとに続く文章がないんです。しかも原稿は書き終えているのに完の字もないんですよ」
「完や了の文字がないのは、そう珍しいことではないさ」
 里中は、さらりと交わして続けた。「だが、そんなことより問題なのは、きみのいうその保険金がどうやら真崎の家にも届いていないらしいことなんだ」
「え。もう調べてみられたのですか」
 三田が絶句したのを感じて、里中がフォローした。
「いや。実を言うと、昨夜、偶然に彼女と出会い、さきほどまで昼食を一緒にしていたんだ」
「昨夜に会って、さきほどまでの昼食ですか……」
 三田が茶化すような調子で続けた。「それって、怪しくないです」
「あ、いやいや。そんなんじゃない」
 里中は質問の意味に気づき、慌てて否定した。「わたしとしたことが誤解されて当然の言い方をしてしまったようだな。ほら、きみも知っている小菅さん。あそこでさ、彼女とばったり会ってね。それで面識はあったんだが、昨日の夜、たまたま入った店で、これまた、ばったり会ったんだ。それで、明日は、彼女の知っているレストランでランチをしようということになってね……」
「なんだか、聞いてるだけで、眼が回りそうな話ですね」
「ま、そんなことはともかく、彼女にそれとなく匂わしてみたんだが、吉田からはどんな荷物も届いていないというんだ」
「そうですか……。そうすると、あの三千七百万円は、いったいどこへ消えたんでしょうね。いまごろ、国庫のどこかに眠っているんでしょうか」
「きみぃ、三千七百万円、三千七百方円というけど、そもそも、その保険金というのは、いったい誰の保険金なんだね」
「もちろん、美貴さんの保険金ですよ」
「えーっ。――ということは、彼女は死んだのか」
「そう。死んだというより、殺されたんですがね」
「殺された……」
「そうですよ。部長も早く続きを読んでくださいよ。でないと、話が遠くってしようがありませんよ」
「悪い悪い。今日中に、きっと読むよ」
「いずれにせよ、それも不思議なんですが、小説の上では、彼女は自分が死ぬことによって得られた保険金を、娘の響子さんに届けてやってほしい――といっているんですよ。
それで、吉田さんは、その保険金を受け取って、真崎家へ届けようとするところで、ジ・エンドになってしまうんです」
「うーん」
「ね。不思議だと思いません」
「確かに不思議だ。さきほどのきみではないが、話がこんがらがって、なにがなにやらわからなくなってきたよ。わたしは、てっきり吉田が贖罪の意味で自殺して、その保険金で真崎家に対する償いをするのかと思ってた」
「そんな……。だって、死んだ本人が自分の死亡保険金を受け取れるわけがないじゃないですか」
「そう言われれば、そうだよな――」
「そうですよ。なにを莫迦なこと言ってんですか」
「いずれにせよ、肝心の死亡保険金は、土肥のところには届いていない。真崎の家にも届いていない。吉田も送り届けていない。――とすると、だ」
「当然、第三者の犯行ということになりますが、吉田さんと一緒に暮らしていた村上というホームレスについてはどうなんでしょう。警察では、どう言っていました」
「うむ。彼に関して、警察は一切、関知していないというんだ。どこへ行ったかまではわからない。もし知りたければ、福祉事務所にでも行ってくれという感じなんだ。そうすれば、ひょっとして保護されているかも知れない、とね」
「弱りましたね」
「で、土肥さんのほうは、どう言っているのかね」
「どう言っている、といいますと……」
「あの小説を読み終えたんだから、その信憑性について、なにかコメントのようなものはしていなかったかと聞いているんだ」
里中は、少々苛立って訊いた。実をいうと、土肥の感想は先だっても聞いていた。だが、先を読み進めていなかった自分自身に苛立ちを覚え、聞いたことを忘れていたのだった。
「ああ。それについては、あくまでも、あれは吉田さんが遺書代わりに書いた自伝的記録なのだから、書いてあることは、すべて本当のことだと思うと言っていました」
「保険金のこともか――」
「ええ。自分のところに届いていない以上、真崎家に届いているのではないかと……」
「つまり、吉田と思われるホームレスが死んだのも事実だし、美貴さんが殺されたというのも事実だというんだな」
「そうですね。国会図書館のデータベースで当時の新聞にアクセスしてみたところ、美貴さんは小説が書いているとおりの死に方をしています」
「では、実際にその保険金が下りたかどうかで、真偽のほどがわかるだろう。誰かその辺の調査ができる人間はいないのか――」
「いないことはありませんが、個人情報ですから、なかなか入手しにくいかも知れません」
「コメントはいいから、すぐあたらせろ」
「了解しました」
 里中はホテルに戻り、抱から吉田の原稿を取り出して読みふけった。そこには、ただ暗いだけではなく、土肥も言うように妻の美貴に対する贖罪的な要素も多分にあった。
 懺悔の書というなら、確かにそういう捉え方もあったろう。
 芸術的に優れているか否かはともかく、文学的素養のない里中にも、その心情のほどはよくわかった。しかし、三田が言うように、読みようによっては、違う角度からの解釈も成り立つのだ。その意味では少々大げさだが、殺人事件の臭いがする記録といっていいかも知れなかった……。
 探偵小説などに出てくるダイイング・メッセージではないが、吉田は自伝風小説の最後を、あのような形で締めくくることで、なにを伝えたかったのだろう。
 もし犯人を捕まえてくれというメッセージなのであれば、読者、いや、土肥はその辺りのことを踏まえて、何らかのアクションを起こしていたはずだ。しかし彼は、その方面の危機意識は感じず、吉田の心情のほうに心を傾けて読み進んだ。
 その結果、吉田が小説の形で遺したダイイング・メッセージを掴み損ね、哀れな死を迎えた友人に対する同情心だけが募った。
 そうなのではないだろうか……。
 きっとそうなのだろう。そうでなければ、うちのような出版社に持ってくるはずがない。彼は純粋に善人にできているのだ。
 だからこそ、彼は、最期の頼みであろう吉田の願いをそこに読み取り、わが社にやってきたのだ。
 里中は、そこまで考えてきて、ふと響子のことを想った――。
 彼女は、自分の母親があのような形で死んだことを知らない。知らないばかりか、いまだ吉田とともに、この京都のどこかで生きていると信じている……。
 そして、母親のようにありたいと願っている。失敗しても、決して後悔しない――と、若さゆえの健気なところも見せている。
 血は争えないというが、せっかくあのような心持になっているのだ。少なくともいまは、水を差すようなことだけはしないでおいてやろう。彼女もまた、その母親と同じように天涯孤独の人生を送る運命にあるとするなら、せめていまだけは、二人で生きる人生を味わわせてやりたい……。
 おそらくその父も生きていたら、こう思ったことだろう。
 またこうすることが、母心でもあったろう。ただ、母親として、寂しい思いをさせた分、何らかの形で償いたかったに違いない。その具体的な形が、あの保険金であったはずだ。
 ただし、金額ではなく「心」であった……。死んで償ったというその心に免じて「許して欲しかった」のに違いなかった。
 里中は、読み進むうちに、いつの間にか美貴の心情になっている自分に苦笑した。あれだけ情けない男に、ここまで尽くした女もいまい。彼女は、最後まで吉田にとっての天使であり続けた……。
 だが、彼女を殺して姿を隠したという隣の男はどうだったのだろう。
 果たして、本当に彼女を殺したのだろうか。よしんば殺したとして、その心はどのようなものだったのだろう。
 それこそあの吉田が、突発的に美貴の首を絞めたときのように、仕向けられてそうしたのではなかったろうか。そしてたまたま、それが男にとって衝撃的過ぎたために、最後までやり終えてしまったのではなかろうか……。
 一時間ほどかけてウィスキーボトルをほとんど空になるまで空けてしまった里中は、酔いが回り過ぎて、それまでの方向とはまったく正反対のことを思いついた。
 思いつくと同時に、ベッド脇の電話器を手にプッシュボタンを押した。
「はい。三田です」
「ああ。わたしだ」
 三田の眠そうな声に向かって里中は言った。「里中だ。夜分にすまない」
「部長。こんなに晩くどうしたんですか……」
「例の小説、最後まで読んだんだが、気になることが二三出てきたんだ」
「気になることですか……」
 億劫そうな声だった。「なにか新しい発見でも――」
「いや。発見というほどでもないが、美貴さんを殺した犯人のことが気になってね」
「美貴さんを殺した犯人ですか。そりゃ、気にはなりますが……」
「だろ」
「ええ……」
「突拍子もないことを言うようだが、いいかい、落ち着いて聞いていくれよ。思うに、この殺人は、吉田が行なったんじゃないかと思うんだ」
「え」
「だから、もしもだ。もしも吉田がその時点で死んでいないとすれば、彼がやったんじゃないかと思ってね」
「それはないでしょう。あれだけ愛していた彼女ですよ。殺せるわけがないじゃありませんか」
「いや。愛していたからこそ、殺せたんだ」
「すごい矛盾ですね」
「いや。矛盾じゃない。本当に愛していれば、殺せるんだ。娘さんのため、迷惑をかけた旦那さんのため、なによりも愛する妻のためだったら、妻も殺すことができるんだよ」
「よくわからない論理ですね。どうして、そんなに飛躍するんですか。ひょっとして、飲んで電話しているんじゃないでしょうね。部長が変なことを言い出すときは、必ず脳味噌が泥酔モードになってるんだから……」
「確かにちょっぴり飲んでいるが、酔ってなんかいない。だから、聞いてくれ。小説の上では、確かに隣室の誰かがやったことになっている。
 しかし、その男が犯人だと誰が断定できる。たまたま隣りの男は姿を晦ましただけで、別の理由で、つまり彼女の死とはまったく関係のない失踪だったとしたら、いったい誰が、その保険金を手に入れることができるんだ」
「でも、そんな手の込んだことをしなくったって、現に吉田さんは、五千万円という保険金を手に入れたと正直に書いているじゃありませんか。しかも、小説の中だけではなくて、実際に隣室の男が怪しいというのは、新聞も認めてることなんですよ」
「いや、新聞はそれを仄めかしているだけで、犯人だと断定しているわけじゃない。事情を知っているとみて行方を追っている――とかなんとか、それらしいことを書いているだけだ。それと、もうひとつ。これは、あくまでも推測の域を出ないんだが、あの死体は吉田ではなかった可能性がある――」
「え、どういうことですか」
「つまり、替え玉殺人だ」
「ますます、わけがわかりません。確か昼にも似たようなことを言っていましたよね」
「彼は死んでいない。死んだのは、村上なんだ。自分を死んだことにして、彼はどこかで生きている。警察だって、あの死体が吉田であるとしているのは、村上に成りすました吉田の証言を流用しているにすぎないんだよ」
「うーむ。部長の話を聞いていると、なんだかこっちまで頭がおかしくなってきますよ。いったいなんだって、こんな夜中にそんな奇妙なことを思いついたんです。莫迦々々しくて眠気が一気に吹き飛んでしまいましたよ。だって、意味ないじゃないですか。現に吉田は保険金を手にしているんですから、わざわざ罪を犯すメリットがどこにあるんです」
「すまん。起こして悪かった。この続きは明日にしよう。明日、そちらに戻るから、そのときに相談しよう」
「それなら、それでもいいですが、夜中に酒の力を借りて考えごとをしないほうがいいですよ。部長の悪い癖なんだから……」
「わかった。今日はなんだか興奮して、支離滅裂なことを言っているようだ」
「そうみたいですよ。では、お寝すみなさい」
「ああ。お寝すみ」
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