第1話 まずは研究テーマだ
文字数 3,280文字
さあ、君は今、世界の入口に立っている。想像するのだ。
この世界は地面にタイルが敷き詰められており、奥には窓がある。
右手には薄い壁で仕切られた三つの部屋が並んでおり、入口の扉はすべて開いている。
左手には高さ一メートルほどの直方体の白い陶器が並んでいる。一番手前の陶器の両側には、身体を支えられるような金属製の手摺 が設置されている。
君がこの世界に来た目的は一つだ。さあ、目を閉じたまま一歩踏み出したまえ。
さらに、もう一歩だ。君は今、ようやく目的地に到達した。目を開けてみよう。
君はどこに立っているのだ。
――――
芦土 賢太郎は国立大学法人湊川 工業技術大学、通称「湊工大 」の准教授である。専門はロボット工学で、AIの自発的学習能力について研究している。
彼は工学博士であるが、人間の感性にも並々ならぬ探求心を持っており、心理学でも修士課程を修めた経歴を持っていた。
彼の研究室は湊工大の理学部棟の二階にある。七階建ての建物の二階なので、移動しやすい場所なのだが、芦土には不満だった。それは講義で使われる教室の並びの奥にあるため、日頃から学生たちが部屋の外の廊下をひっきりなしに行き交うからである。
静穏な環境で研究に没頭したい四十六歳の芦土には、学生たちの配慮に欠けた話し声と足音が我慢ならなかった。
芦土にとって悲劇なのは、教室と接していない側は階段であり、さらにその先にはトイレがあることだった。
理学部棟の主だった、つまり人気があって学生が多く所属する研究室は三階と四階に集中しており、それらの学生は皆、芦土の研究室の横の階段を使う。階段は建物の反対側にもあるが、芦土研に近い側にトイレがあるため、皆こちらを利用するようだ。
要するに、芦土の研究室は理学部棟の交通の要所に設置されているのであった。
「まったく、この大学は研究者を大事にしない。忌々しいものだ」
六十平方メートルほどの広さの研究室内における芦土自身の占有スペースは、彼が自ら持ち込んだパーテーションで区画した自称「芦土ルーム」である。他の教授たちには、専用の部屋が研究室に併設して設けられているのに、講義室を簡易に改造した芦土の研究室にはそれがなかった。
これに不満を持った彼が自力で区画を設置したのは五年前だ。
この時の工事費用は、のちに研究経費としての支出が認められた。だが芦土ルーム内に設置した応接セットについては、研究目的との関係が認められないとして、私費での支出を余儀なくされた。
さて、大学への不満を呟きながら芦土ルームで煙草を吸っていると、四年生の室谷 由美子が乱暴にドアを開けて入ってきた。
「芦土先生、今すぐ煙草を消してください。研究室は禁煙です。見つかれば、また教授会で怒られますよ」
「ばれなければいいだろう」
「ばれるのは時間の問題です。窓から煙が出ているのが理学部棟の外から分かりましたよ」
室谷の右手にはビニール袋がぶら下がっている。どうやら学生棟の売店で昼食を買って戻ってきたところで、芦土の喫煙を見つけたようだった。
芦土は室谷の細く長い目の中に怒気が含まれていることを理解し、慌てて煙草の火を消す。芦土研にとって四年ぶりとなる女性研究生のはっきりとした物言いは、彼女の指導教官である芦土を委縮させることが多い。
「今後、喫煙所以外の場所での喫煙は絶対にやめてください」
「分かった」
「じゃあ、研究テーマのミーティングについては、予定通りに午後一時でお願いします」
荒々しくドアを閉めて室谷が姿を消すと、芦土はほっと溜息をついた。
考えてみれば彼が苦手な女性は室谷だけではなかった。幼い頃からずっと母が怖かったし、中学生になった頃からは妹も怖くなった。そして結婚してからはずっと妻が怖い。つまり身近な女性はみんな怖いということだった。
芦土は思い直して、デスクの上のパソコンを操作し、午後のミーティングの資料を三部プリントアウトした。自分、室谷、そして彼女と同学年の滝下 の分だった。
芦土の研究室は総勢三名の弱小勢力だ。学部一の不人気研究室である。芦土自身は時代の最先端を突き進んでいる自負があるのだが、学界では異端視され、企業からも相手にされていない。
彼が研究の第一人者であることを否定する者はいない。それは方向性が主流から外れ、孤立しているゆえの第一人者という揶揄 が含まれているからである。
芦土が取り組んでいるAIの自発的学習能力とは、人工知能に人間の無意識下における選択能力を身に着けさせる研究であった。
「これは人類が持つ無意識での危機管理能力の学習でもあるんだ」
午後のミーティングで、芦土は二人の学生相手に熱弁した。
「この研究室で目指しているのは人間の本能部分の選択の学習。すなわち大脳辺縁系で行っている部類の判断を、AIに獲得させようというものだよ」
「よく分からないので、質問していいですか」
滝下次郎が手を挙げた。対人コミュニケーションに何らかのトラウマを抱えていると思われる二十四歳の色白学生は、非常に饒舌である一方で、会話の最中に相手の顔を見ない。
今も芦土の顔ではなく、その右手が握るフリクションボールペンを見ながら喋り出した。
「人間の本能をAIに学習させるということを准教授は仰っているのだと理解しました。それは具体的にどのような本能なんですか。私は長い髪の女性が好みですけど、そういうことですか。それとも准教授が由美子ちゃんに叱られるたびに右の頬を痙攣 させるような反応をAIに獲得させるということでしょうか」
「違う。いや、違わないが……」芦土は室谷の表情をちらりと見てから滝下の質問に答える。
「君の好みの話は事例として適当だろうが、私の頬の話は本能ではなく反射だよ。ただし、まあ似ていないこともない。要するに私は人間の無意識をAIに学習させたいのだ」
「では先生、具体的な研究内容を教示してください」
室谷の無機質な目線に少し怯 みつつ、芦土は手元の資料を二人に配った。
「資料はまだ表紙のままで捲らないでくれ。それを読む前に、まずはイントロダクションとして目を閉じてほしい」
二人が目を閉じたのを確認すると、芦土はゆっくりと語り出した。
「さあ、君は今、世界の入口に立っている。想像するのだ……」
芦土の短い語りが終わると、室谷がさっそく「何ですか、これは。私には全然意味が分かりません」と文句を口にした。
「そうか。やはり室谷君には理解できなかったか」
芦土は滝下に顔を向けた。「滝下君はどうだったか」
「一番奥の個室ですね。僕はいつもその場所に決めています。窓に近いから明るいのです」
「右の個室を聞いたのではない」芦土は苦笑した。「そっちから答える者はいないだろう」
「すみません」滝下は芦土が握るフリクションボールペンに向かって謝る。そして「確認なのですが無人なのですね」と質問してきた。
「そうだよ。まずは誰もないところからスタートだ」
「何の話なんですか」室谷が訝 しげな顔をする。芦土は「ごめん、ちょっと待ってね」と彼女を宥 めると、滝下に続けるよう促 した。
滝下は目を閉じると、腕組みをして数秒間考えていたが、やがて「一番奥です」と答えた。
「そうだろう、そうだろう」
芦土はその答えに満足すると、「では資料を開いてくれ。これが本年度における我が芦土研の研究テーマだ」
A四用紙六ページのレジュメの表紙の中央には「人間の本能的選択の人工知能への学習」というタイトルが太字で印字されていた。これは今年に限らず、芦土賢太郎の十年来の研究テーマなので、学生二人は何の疑問も持たずにページを捲る。
次のページを開いた室谷は「はあ?」と声を上げると、芦土を睨 みつけた。
そこには、「社会的行動の中での本能的選択の数理統計・どの小便器を選ぶのか」という副題がこれまた太字で中央やや上に印字されていた。
「トイレに行ったとき、複数の小便器があったら人はどれを選択するのか。まずは人間の無意識下の選択を研究するんだ」
芦土は室谷の目を意識しながらも、胸を張った。
この世界は地面にタイルが敷き詰められており、奥には窓がある。
右手には薄い壁で仕切られた三つの部屋が並んでおり、入口の扉はすべて開いている。
左手には高さ一メートルほどの直方体の白い陶器が並んでいる。一番手前の陶器の両側には、身体を支えられるような金属製の
君がこの世界に来た目的は一つだ。さあ、目を閉じたまま一歩踏み出したまえ。
さらに、もう一歩だ。君は今、ようやく目的地に到達した。目を開けてみよう。
君はどこに立っているのだ。
――――
彼は工学博士であるが、人間の感性にも並々ならぬ探求心を持っており、心理学でも修士課程を修めた経歴を持っていた。
彼の研究室は湊工大の理学部棟の二階にある。七階建ての建物の二階なので、移動しやすい場所なのだが、芦土には不満だった。それは講義で使われる教室の並びの奥にあるため、日頃から学生たちが部屋の外の廊下をひっきりなしに行き交うからである。
静穏な環境で研究に没頭したい四十六歳の芦土には、学生たちの配慮に欠けた話し声と足音が我慢ならなかった。
芦土にとって悲劇なのは、教室と接していない側は階段であり、さらにその先にはトイレがあることだった。
理学部棟の主だった、つまり人気があって学生が多く所属する研究室は三階と四階に集中しており、それらの学生は皆、芦土の研究室の横の階段を使う。階段は建物の反対側にもあるが、芦土研に近い側にトイレがあるため、皆こちらを利用するようだ。
要するに、芦土の研究室は理学部棟の交通の要所に設置されているのであった。
「まったく、この大学は研究者を大事にしない。忌々しいものだ」
六十平方メートルほどの広さの研究室内における芦土自身の占有スペースは、彼が自ら持ち込んだパーテーションで区画した自称「芦土ルーム」である。他の教授たちには、専用の部屋が研究室に併設して設けられているのに、講義室を簡易に改造した芦土の研究室にはそれがなかった。
これに不満を持った彼が自力で区画を設置したのは五年前だ。
この時の工事費用は、のちに研究経費としての支出が認められた。だが芦土ルーム内に設置した応接セットについては、研究目的との関係が認められないとして、私費での支出を余儀なくされた。
さて、大学への不満を呟きながら芦土ルームで煙草を吸っていると、四年生の
「芦土先生、今すぐ煙草を消してください。研究室は禁煙です。見つかれば、また教授会で怒られますよ」
「ばれなければいいだろう」
「ばれるのは時間の問題です。窓から煙が出ているのが理学部棟の外から分かりましたよ」
室谷の右手にはビニール袋がぶら下がっている。どうやら学生棟の売店で昼食を買って戻ってきたところで、芦土の喫煙を見つけたようだった。
芦土は室谷の細く長い目の中に怒気が含まれていることを理解し、慌てて煙草の火を消す。芦土研にとって四年ぶりとなる女性研究生のはっきりとした物言いは、彼女の指導教官である芦土を委縮させることが多い。
「今後、喫煙所以外の場所での喫煙は絶対にやめてください」
「分かった」
「じゃあ、研究テーマのミーティングについては、予定通りに午後一時でお願いします」
荒々しくドアを閉めて室谷が姿を消すと、芦土はほっと溜息をついた。
考えてみれば彼が苦手な女性は室谷だけではなかった。幼い頃からずっと母が怖かったし、中学生になった頃からは妹も怖くなった。そして結婚してからはずっと妻が怖い。つまり身近な女性はみんな怖いということだった。
芦土は思い直して、デスクの上のパソコンを操作し、午後のミーティングの資料を三部プリントアウトした。自分、室谷、そして彼女と同学年の
芦土の研究室は総勢三名の弱小勢力だ。学部一の不人気研究室である。芦土自身は時代の最先端を突き進んでいる自負があるのだが、学界では異端視され、企業からも相手にされていない。
彼が研究の第一人者であることを否定する者はいない。それは方向性が主流から外れ、孤立しているゆえの第一人者という
芦土が取り組んでいるAIの自発的学習能力とは、人工知能に人間の無意識下における選択能力を身に着けさせる研究であった。
「これは人類が持つ無意識での危機管理能力の学習でもあるんだ」
午後のミーティングで、芦土は二人の学生相手に熱弁した。
「この研究室で目指しているのは人間の本能部分の選択の学習。すなわち大脳辺縁系で行っている部類の判断を、AIに獲得させようというものだよ」
「よく分からないので、質問していいですか」
滝下次郎が手を挙げた。対人コミュニケーションに何らかのトラウマを抱えていると思われる二十四歳の色白学生は、非常に饒舌である一方で、会話の最中に相手の顔を見ない。
今も芦土の顔ではなく、その右手が握るフリクションボールペンを見ながら喋り出した。
「人間の本能をAIに学習させるということを准教授は仰っているのだと理解しました。それは具体的にどのような本能なんですか。私は長い髪の女性が好みですけど、そういうことですか。それとも准教授が由美子ちゃんに叱られるたびに右の頬を
「違う。いや、違わないが……」芦土は室谷の表情をちらりと見てから滝下の質問に答える。
「君の好みの話は事例として適当だろうが、私の頬の話は本能ではなく反射だよ。ただし、まあ似ていないこともない。要するに私は人間の無意識をAIに学習させたいのだ」
「では先生、具体的な研究内容を教示してください」
室谷の無機質な目線に少し
「資料はまだ表紙のままで捲らないでくれ。それを読む前に、まずはイントロダクションとして目を閉じてほしい」
二人が目を閉じたのを確認すると、芦土はゆっくりと語り出した。
「さあ、君は今、世界の入口に立っている。想像するのだ……」
芦土の短い語りが終わると、室谷がさっそく「何ですか、これは。私には全然意味が分かりません」と文句を口にした。
「そうか。やはり室谷君には理解できなかったか」
芦土は滝下に顔を向けた。「滝下君はどうだったか」
「一番奥の個室ですね。僕はいつもその場所に決めています。窓に近いから明るいのです」
「右の個室を聞いたのではない」芦土は苦笑した。「そっちから答える者はいないだろう」
「すみません」滝下は芦土が握るフリクションボールペンに向かって謝る。そして「確認なのですが無人なのですね」と質問してきた。
「そうだよ。まずは誰もないところからスタートだ」
「何の話なんですか」室谷が
滝下は目を閉じると、腕組みをして数秒間考えていたが、やがて「一番奥です」と答えた。
「そうだろう、そうだろう」
芦土はその答えに満足すると、「では資料を開いてくれ。これが本年度における我が芦土研の研究テーマだ」
A四用紙六ページのレジュメの表紙の中央には「人間の本能的選択の人工知能への学習」というタイトルが太字で印字されていた。これは今年に限らず、芦土賢太郎の十年来の研究テーマなので、学生二人は何の疑問も持たずにページを捲る。
次のページを開いた室谷は「はあ?」と声を上げると、芦土を
そこには、「社会的行動の中での本能的選択の数理統計・どの小便器を選ぶのか」という副題がこれまた太字で中央やや上に印字されていた。
「トイレに行ったとき、複数の小便器があったら人はどれを選択するのか。まずは人間の無意識下の選択を研究するんだ」
芦土は室谷の目を意識しながらも、胸を張った。