48.  息苦しい時間

文字数 2,036文字

 主人は、食堂の裏口から、重く薄暗い光の中へ出た。これで何度目だろうか。彼は、湖から帰ってきてからというもの、とにかくこればかりを繰り返している。

 例の離宮へ向かった彼らを見送ったあとは、誰もが食堂にいて、息苦しい時間をほとんど変化無く過ごしていた。

 ソファに腰掛けている夫人は、テーブルクロスに刺繍(ししゅう)する作業をずいぶん長く続けている。ミーアは、キースの頭から背中を繰り返し()でていて、それをシャナイアは、もう一脚ある長ソファから眺めているが、二人とも心ここにあらずといった様子。ただどこか(さみ)しそうにしているミーアに対して、実のところ、シャナイアは居ても立ってもいられない思いだった。

 長い・・・。時の経過がひどく遅く感じられる。

 みんなは今、どんな局面に立っているのだろう。それとも、もうやり遂げただろうか。帰路についているだろうか。無事だろうか・・・。不安で胸がつぶれそうになる。シャナイアは努めて、まさか・・・の方へは考えないようにしていた。急いで別のことを考えた。そうでもしないと、気が変になってしまいそう。

 主人がまた外へ出て、そして戻ってくる。

「あなた、少しは落ち着いてくださいな。」
 夫人が静かに声をかけた。
「あ・・・ああ。そうだね。」
 主人も作り笑った。が、足はまだそわそわしている。
 夫人の言葉をきっかけに、シャナイアも何かを言わなければと思った。ずっとのしかかっていた沈黙の重みを、もっと緩和(かんわ)させたかった。
「よければ、私が何か作りましょうか。」と、シャナイアは夫人に申し出た。そしてミーアを見て、優しく(ほお)(ゆる)めた。「何か食べましょう。ね、ミーア。」

 ミーアは、朝から何も口にしてはいなかった。原因は、目覚めたとたん、とてつもない寂しさを覚えたから。いつもそばに居て優しくしてくれる者たちが、リサの村での時のように、また忽然(こつぜん)と姿を消していたのだ。シャナイアがごまかそうとしても、ミーアはたちまち心細くなってしまったようだった。それに、誰もが上手く平然とできずにいる。おまけに、今にも降りだしそうな曇り空。きっと、あれもこれも不吉と感じさせてしまっている・・・。

 それでも、何でもないふうを装っていなければ、この幼い少女をますます不安にさせてしまう。

 それで、夫人は言った。
「そうね、そうしましょう。シャナイアさんはお客様なんですから、どうぞ座っていらして。ミーアちゃん、何か食べたいものある? 何でもいいわよ。」

 ミーアは床にしゃがんだまま、ほほ笑んでみせている夫人とシャナイアの顔をうかがい、ようやく首を縦に振った。
「白いスープが飲みたい。」

 リクエストは夕食の前菜のあとに出したじゃがいもの冷製スープだ。
 夫人はにっこり請け合って刺繍枠(ししゅうわく)を置き、席を立った。

 その時、空から(うな)るような轟音(ごうおん)が。

「雷が鳴り出したわね・・・嫌だわ。」
 天井越しに空を見上げて、夫人は眉をひそめる。

 すると、シャナイアの不安や心配は、突然、はっきりとした恐怖に変わった。張り詰めていた緊張が、にわかに恐怖となって胸を締めだし、動悸(どうき)がしだした。不意に、また別の恐ろしい可能性を思い出したのだ。それは、もはや背筋(せすじ)が凍りつく嫌な予感。それも確信に近い。

 そんなシャナイアに冷静を取り戻させたのは、同じように恐怖にかられて立ち上がり、胸に駆け込んできたミーアの小さな体だった。

「シャーナ、怖い。何か・・・怖いよ。」
「大丈夫よ、ミーア。レッドもリューイも、みんな、じきに帰ってくるから。」
 (おび)えるミーアを抱き締め、シャナイアは自身にもそう言い聞かせた。

 やがて雨が襲ってきた。雨脚(あまあし)は強い。

「降ってきましたな。」
 主人は窓の外に目をやり、急に暗くなった部屋の灯りを点けに行った。

 その時、今までおとなしく伏せていたキースが、いきなりキッと頭を上げた。それからサッと膝を伸ばして背中を向けたかと思うと、キースは壁に向かって威嚇(いかく)しだしたのである。(のど)を震わせ、低い(うな)り声を上げている。

「キース・・・。」
 シャナイアは、用意していた細剣(さいけん)をつかんだ。これを使わなければならないことが、とうとう起こりそうな気がした。

 そこへ、窓の外に大きなものが舞い下りてきた。

「おや、(たか)ですか。」
「フィクサーだわ。」
 主人は、キースが威嚇している相手をそれだと思いこんでいる様子だったが、シャナイアは違うと知っている。
「ギルが飼い慣らしている鷹なの。入れてあげてもいいかしら。」
「そういうことなら、ええどうぞ。」

 ちょうどスープを持ってそこを通りかかった夫人は、そのまま窓辺に歩み寄った。

 シャナイアは反射的に腰を上げた。

 夫人の後ろ姿がビクッと固まったからだ。その瞬間、持っているトレーから白いスープ皿が(すべ)り落ちた。皿が落下して床にたたきつけられ、中身が全て床に()き散る。

 なのに、夫人は何の反応もしない。顔は、派手に汚れた床ではなく、窓の外へ向けられたままだ。

 だが、突然 ―― 。

 けたたましい悲鳴が聞こえた。






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