裏切りの和歌
文字数 5,522文字
なるべくぶ厚くて頑丈そうな布ばかり集めた。
果たしてどれほど役に立つのかわかったものではないが、やはり素手というわけにもいかない。
手のひらに何重にも固く巻き付ける。多少は指先に自由がないと動かしづらいだろう。ボクシングのバンテージのようにしてみた。両手のひらを叩くとその分厚さを鈍く感じて、まあ上手くいったと思う。
倉庫代わりの転送の部屋。
前回の騒動で手に入れた黒い刀身が、隅に積まれている。適当に一本選んで、今度はこの刀に布を巻き付けていく。本来もち手となるはずの柄はミツハに消されてしまった。だからグリップはなく、ただの金属板だ。しかも短い。これを持ちやすく補強していく。
一通り作業を終えて、俺は氷で出来た鞘からゆっくりと刀を抜いてみた。
刃物にあるまじき漆黒の刃は、引き抜かれながらもやはり禍々しい煙が垂れ、その姿を神秘的にしている。いままで扱ったことのない長い刃物に心音が高まる。
重い。
ただ布を巻いただけというのもあるだろうが、片手で支えるなんて絶対無理だ。そのもち手の短さから、両手を使うにしても刃の方とで二点持ちになる。
右手で柄を握り、左手に刃を乗せたときだった。
なんの抵抗も感じずに刀が布に沈み込んだように見えた。反射のようなものだ。咄嗟に左手を引いたが冷たい感触が手のひらに残った。
「痛っ」
まさに手遅れ。
右手で支えきれなかったので刀は刃先から床に落ち、コァーンと不思議な音を鳴らして突き刺さった。
手のひらが熱い。
あんなに固く巻き付けた布も見事に割けている。それは俺の肉まで達したようだった。真っ赤な血液があっという間に布に染みていく。視覚で現状を把握してしまうと、猛烈に痛い。
「くそっ。この傷ふさがるんだろうな……」
おかしな効能で皮膚がくっつかないとかやめてくれよ。
怪我をしたからといって、こんなところで止めるわけにはいかない。もう他に道はないし時間もない。
俺は痛みを無視すればとりあえずグーパーと動くことを確認して、もう一度刀身に挑む。
細心の注意が必要だ。
慎重に峰の方を手のひらに乗せる。少しでも刃が下を向くと豆腐に包丁を落としたような滑らかさで物質を斬り分けようとするからやっかいだ。
誰かに献上するような姿勢で、なんとか両手で刀を捧げもつことに成功した。本当に、ひとりでなにをやっているんだという気分になる。
俺は氷柱の前に立った。
透明な氷のなかには鉄鉱の青という根付けと、リリリンの手首が埋まっている。その赤と白のコントラストはまるでいま斬り落とされたばかりかと見紛うほど鮮やかだ。
こんなことをしても良いのか、と心の奥で誰かが声を上げている。自分がこれからやろうとすることが正しいのか、という迷い。
「やるしかねえ」
小さな葛藤と向き合わないためにつぶやいた。
死にたがりのミツハを見捨てて自分だけ何食わぬ顔して生きられるわけがない。違う世界の住人同士でも、歳が違っても、魔法使いと凡人でも、一緒に仕事をこなしてきた仲間だ。右も左もわからないこの世界で、俺が生きてこられたのもミツハが居たからだ。
俺らなんてもんは義理人情なんてクソ食らえの金貸しだが、俺はまだまだ修行が足りねえんだ。
腹を括って真っ黒の刀身を氷の柱に押し当てる。
シュ、と煙草を水たまりに投げ込んだような音はしたものの、刃は全然入っていかない。
なんだ? 俺の手や巻いた布なんて重力程度の加圧で真っ二つなのに、ぐっと押し当ててもぴたりと静止したままだ。
こりゃしんどい。
何度も足を踏ん張って押し込むが、数ミリ刃が入ったかなという程度の変化しかない。
「埒があかねえ」
どうしようかと腕を下ろすと、左肘のあたりに妙な感触があった。視線をやると、腕が真っ赤に染まっている。まるでペンキに突っ込んだんじゃないかってくらいだ。床にも鮮血が散っていて痛々しい。注意していたつもりだったが、手のひらにも無数の刀傷が一直線に入っている。
このままいくと手相占い師を驚愕させる男になってしまう。
なにか方法はないのか、
「刀は押しつけるんじゃなく引いて斬るんですよ」
「な!?」
予期せぬ声に刀を取り落としそうになる。
「なに勝手に入ってきてんだっ。うろうろするなつったろ」
「そんなつもりはありません。ただ、夜中に遁走するのであればそう報告して欲しかっただけです。気がついたらいなくなっていた、なんていうのはわたしの失敗だと思われるので。シブカワさんに幻滅されたくありません」
そうかい。
「見られてちゃ気味が悪い。逃げやしないから部屋で寝ていろ」
「なんですか、その言い草は。こっちも見ていられません」
どういう意味だ。
「みっともなくて正視に耐えないということです。刀を押し付けてどうするんですか。引いて斬るんですよ。さっ、と」
腕を振りながらそう言うが、こっちだって事情がある。
「柄がないんだ。持ちづらくて腕など振れるか」
「その漆黒の刀を納品したのうちですし、わかっていれば柄くらい用意できたんですが。もう遅いですね」
こっちの焦りなどまるで斟酌しない気楽な口調で言ってくれる。しかし言いながらも腰の後ろに手を回してなにかを抜き出した。
「これ、」
四、五十センチほどの短刀だった。
「わたしの護身用です」
腕を突き出したままそれきりなにも言わない。使っていいということか?
「まあ力を貸すのは不公平というものですが、道具ぐらいは貸してもいいでしょう」
「どっちの味方なんだよ」
「わたしは常に中立です」
ありがたく受け取って、鞘から少し抜いてみる。こちらもサノンの刀と同じように刃が黒い。どろりとした妖気まで滴り落ちる。
「斬り落とすイメージをもってください。足を踏ん張って腰を入れて、手だけが泳いでフラフラとしないように。力の入れやすい体勢を探してください」
うるせえ。
こちとらシブカワと同じ、刀の国から来ているんだ。お侍さんは幼少の頃から見慣れてんだよ。
とはいっても袈裟懸けに斬るとつま先を落としそうだし、体に染み付いた最も身近な型は野球のスイングなわけで、バットのように肩のあたりで短刀を構えてしまう。
「なんですか、その独特な……」
やかましい、
「わ!」
音もなかった。
氷柱には、リリリンの手首から十センチばかり上に白い筋が走っている。重い手応えさえなかった。さっきまでの苦労が信じられないほど鋭い斬れ味。自分で自分が信じられない。
「っと、」
膝が笑って右手で踏ん張らないと倒れそうになった。
「ちょっと、血が」
「ああ、ごめん、洗って返す」
少女漫画に出てくる、ハンカチを借りたシーンようだ。こっちはもっと剣呑だが。
「そうじゃなくてすごい量が――」
「さて、」
もういっちょいかせていただきますか。
他にも仕込みは山ほどあるんだからな。
*
すっかり雨は上がっていた。
そのかわりじめっとした湿気が夜風に混ざり込んでむせ返るようだった。
シブカワの泊まっている官舎というのがどこにあるのかわからず、城門の門番に訊いたのが間違いの元だった。
血まみれの左半身を見てどう勘違いしたのか、一切口許に緩みのない連中に囲まれてしまう。
シブカワに会いに来たと言ってもつないでもらえないどころか、怒鳴り出す始末だ。なんといってもリアルタイムで俺の血は流れ出ているわけで、こんなところで倒れようものなら今までの苦労がすべて水泡に帰す。
「早くしてくれ! 攻略資金金融が来たと言えば絶対にわかる」
「野良病院ならすぐそこにある。さっさと行ってこい」
こんなやりとりを何度もして、やっとシブカワが現れたときにはもう俺は立っていられなかった。石畳の上にあぐらをかいて小さな血溜まりを作り始めたところだ。セロリに腕をきつく縛ってもらったんだけどな。傷は思っている以上に深い。
「こんな時間にどうしたんだ、」
人だかりを割ってきたシブカワは、らしくない驚きの表情を見せた。
「どうした、怪我をしているのか。魔女にやられたのか」
「違う」
サノンと黒武者軍団が現れると、門番たちは三々五々自分たちの持ち場に帰っていった。こいつらの黒い刀の切れ味を体感したばかりだ。こんな大勢に囲まれると、ただでさえ少ない血の気がさらに引いていく。
「病院へいくか」
「いや大丈夫」
そんなことをしているとたぶん間に合わない。俺は座ったままの非礼を建前程度に詫びて、本題を切り出した。
「鉄鉱の青は渡そう。そのかわり俺とミツハといすゞと、ついでにヒノミカとカラスタも、つまり俺の周りの人間に今後一切手出ししないでくれ」
シブカワは、いやサノンでさえも少し意外そうな顔をした。
「あの魔女の末裔は納得したのか」
「していない。知ったら激怒するだろう。でも、あいつは死にたがりなところがあるみたいだから。そちらさんも上等だって感じだし、昼間みたいに全力で抗えばなんとかなるんじゃないか、ならなくても死ぬことなんて怖くないって言うし。とにかく止められるのは俺しかいなかった」
「あとで皇国に弓を引かれても困るんだがな」
こういう発言が出るってことは、ミツハの実力を認めているということだろうか。
「俺が絶対に説得する」
サノンの冷たい眼差しからは否定的なものしか感じなかったが、シブカワは明らかに俺の方へ傾いていた。男が血まみれになって息も絶え絶え訴えているんだ。現実世界ではこういうシチュエーションは信頼が厚い。
「いま鉄鉱の青はどこにある」
「ある場所に隠してある。リリリンの家の借金は完済したって証明書と、あんたの署名付きで安全を保証すると書いてくれれば、その場所を教える」
まさか出血多量目前の俺に向かって「明日まで考えさせてくれ」とは言わないだろう。
「鉄鉱の青と交換で、うちのミツハが所有すべき壱番の根付けを返してくれてもいいけど」
「それは無理だ」
即答。
そうだと思ってたけどね。
「本当は鉄鉱の青が欲しいんじゃなくて、大きな魔力の緘魔石が欲しいんだろ」
俺にはもしかしたらと思う部分があった。
ミツハだけ不当に使える魔法。割れた照明。溢れた魔力。
いつの時代もどこの世界も、エネルギーの奪い合いで人類は戦争を起こす。遙か太古だって火の奪い合いできっと争っていたはずだ。
「緘魔石は石油、か」
「石油?」
シブカワの目が見開く。
「俺もあんたと同じさ……」
そろそろ本当に気分が悪くなってきた。頭が前後に揺れているような気がする。
「敷島の、大和心を人問わば」
俺がそこまで言うと、シブカワは真剣な面持ちで言葉尻を引き取った。
このとき俺は初めてシブカワって人間の素を見たような気がする。
「――朝日に匂う、山桜花」
喉の奥になにか詰まらせたような、かといって泣くでもない。みっともなくあぐらをかいて半身を真っ赤に染めた俺に対して、慈しむ色が眼のなかに浮かんだ。
「無学な俺が唯一覚えている和歌だ」
「おまえ……」
「本当は敷島って名前がある。この世界に来たとき、まったく記憶にないプロフィールを宛がわれていたけど、この世界の住人じゃない」
「なんで最初に会ったときに言わなかった。私の名を聞けばすぐに気付いただろ」
だって怖いじゃねえか。
「ずいぶん長い間、こっちの世界にいるようだけど、どうやっても戻れないのか、むこうへは」
「帰りたいと考えたのも最初だけだ。生きるのに必死でな。今はまったく思わない」
「いすゞはつい最近、やってきたようだ。そっちは他に、現実世界の人間に会ったか」
「君が初めてだ。私以外にいるとは思わなかった。あのいすゞという子を除いて」
見事に性別も年齢もバラバラだ。
「なんで俺らが、選ばれたんだろうな」
シブカワは俺を見つめて少し黙った。どこか、言おうか言わまいか逡巡している感じがした。なにか知っているのか。
「……私はあのいすゞという子に会ったことがあるような気がする」
「え!? 向こうで」
「そうだ。勘違いかもしれないがな」
どういうことだ。
「いすゞはまだ六歳だ。シブカワさん、もっと昔からここにいるでしょう」
それに俺にはそんな記憶がない。
現実世界のどこかで接触していたのか。
それが三人の共通点なのだろうか。
「帰る気のない私には関係のない話だな。とりあえずその出血を止めよう。医者へ連れて行く。サノン」
「ちょっとまった。契約成立ってことでいいか」
「かまわん」
「それなら、ミツハが気付くより先に戻らなきゃ。俺と鉄鉱の青が一緒に消えていたら、あいつもなにをするか分からない。医者に診てもらう間に書類をもってきてくれないか。あと、遊郭のあたりに、カラスタってふとっちょの子が、いるから、呼んでほしい」
なんだか息苦しいな。
後頭部の方から意識をつままれて引っ張られているような気がする。
「すぐそこに、モグリの医者がいる。行きつけだから、そこに連れていって欲しい。少し、休みたい……」
身体が重くて、体内に水銀でも流れ込んでいるんじゃないかと思う。
あとは任せたという気分になって、俺は石畳に横たわった。
果たしてどれほど役に立つのかわかったものではないが、やはり素手というわけにもいかない。
手のひらに何重にも固く巻き付ける。多少は指先に自由がないと動かしづらいだろう。ボクシングのバンテージのようにしてみた。両手のひらを叩くとその分厚さを鈍く感じて、まあ上手くいったと思う。
倉庫代わりの転送の部屋。
前回の騒動で手に入れた黒い刀身が、隅に積まれている。適当に一本選んで、今度はこの刀に布を巻き付けていく。本来もち手となるはずの柄はミツハに消されてしまった。だからグリップはなく、ただの金属板だ。しかも短い。これを持ちやすく補強していく。
一通り作業を終えて、俺は氷で出来た鞘からゆっくりと刀を抜いてみた。
刃物にあるまじき漆黒の刃は、引き抜かれながらもやはり禍々しい煙が垂れ、その姿を神秘的にしている。いままで扱ったことのない長い刃物に心音が高まる。
重い。
ただ布を巻いただけというのもあるだろうが、片手で支えるなんて絶対無理だ。そのもち手の短さから、両手を使うにしても刃の方とで二点持ちになる。
右手で柄を握り、左手に刃を乗せたときだった。
なんの抵抗も感じずに刀が布に沈み込んだように見えた。反射のようなものだ。咄嗟に左手を引いたが冷たい感触が手のひらに残った。
「痛っ」
まさに手遅れ。
右手で支えきれなかったので刀は刃先から床に落ち、コァーンと不思議な音を鳴らして突き刺さった。
手のひらが熱い。
あんなに固く巻き付けた布も見事に割けている。それは俺の肉まで達したようだった。真っ赤な血液があっという間に布に染みていく。視覚で現状を把握してしまうと、猛烈に痛い。
「くそっ。この傷ふさがるんだろうな……」
おかしな効能で皮膚がくっつかないとかやめてくれよ。
怪我をしたからといって、こんなところで止めるわけにはいかない。もう他に道はないし時間もない。
俺は痛みを無視すればとりあえずグーパーと動くことを確認して、もう一度刀身に挑む。
細心の注意が必要だ。
慎重に峰の方を手のひらに乗せる。少しでも刃が下を向くと豆腐に包丁を落としたような滑らかさで物質を斬り分けようとするからやっかいだ。
誰かに献上するような姿勢で、なんとか両手で刀を捧げもつことに成功した。本当に、ひとりでなにをやっているんだという気分になる。
俺は氷柱の前に立った。
透明な氷のなかには鉄鉱の青という根付けと、リリリンの手首が埋まっている。その赤と白のコントラストはまるでいま斬り落とされたばかりかと見紛うほど鮮やかだ。
こんなことをしても良いのか、と心の奥で誰かが声を上げている。自分がこれからやろうとすることが正しいのか、という迷い。
「やるしかねえ」
小さな葛藤と向き合わないためにつぶやいた。
死にたがりのミツハを見捨てて自分だけ何食わぬ顔して生きられるわけがない。違う世界の住人同士でも、歳が違っても、魔法使いと凡人でも、一緒に仕事をこなしてきた仲間だ。右も左もわからないこの世界で、俺が生きてこられたのもミツハが居たからだ。
俺らなんてもんは義理人情なんてクソ食らえの金貸しだが、俺はまだまだ修行が足りねえんだ。
腹を括って真っ黒の刀身を氷の柱に押し当てる。
シュ、と煙草を水たまりに投げ込んだような音はしたものの、刃は全然入っていかない。
なんだ? 俺の手や巻いた布なんて重力程度の加圧で真っ二つなのに、ぐっと押し当ててもぴたりと静止したままだ。
こりゃしんどい。
何度も足を踏ん張って押し込むが、数ミリ刃が入ったかなという程度の変化しかない。
「埒があかねえ」
どうしようかと腕を下ろすと、左肘のあたりに妙な感触があった。視線をやると、腕が真っ赤に染まっている。まるでペンキに突っ込んだんじゃないかってくらいだ。床にも鮮血が散っていて痛々しい。注意していたつもりだったが、手のひらにも無数の刀傷が一直線に入っている。
このままいくと手相占い師を驚愕させる男になってしまう。
なにか方法はないのか、
「刀は押しつけるんじゃなく引いて斬るんですよ」
「な!?」
予期せぬ声に刀を取り落としそうになる。
「なに勝手に入ってきてんだっ。うろうろするなつったろ」
「そんなつもりはありません。ただ、夜中に遁走するのであればそう報告して欲しかっただけです。気がついたらいなくなっていた、なんていうのはわたしの失敗だと思われるので。シブカワさんに幻滅されたくありません」
そうかい。
「見られてちゃ気味が悪い。逃げやしないから部屋で寝ていろ」
「なんですか、その言い草は。こっちも見ていられません」
どういう意味だ。
「みっともなくて正視に耐えないということです。刀を押し付けてどうするんですか。引いて斬るんですよ。さっ、と」
腕を振りながらそう言うが、こっちだって事情がある。
「柄がないんだ。持ちづらくて腕など振れるか」
「その漆黒の刀を納品したのうちですし、わかっていれば柄くらい用意できたんですが。もう遅いですね」
こっちの焦りなどまるで斟酌しない気楽な口調で言ってくれる。しかし言いながらも腰の後ろに手を回してなにかを抜き出した。
「これ、」
四、五十センチほどの短刀だった。
「わたしの護身用です」
腕を突き出したままそれきりなにも言わない。使っていいということか?
「まあ力を貸すのは不公平というものですが、道具ぐらいは貸してもいいでしょう」
「どっちの味方なんだよ」
「わたしは常に中立です」
ありがたく受け取って、鞘から少し抜いてみる。こちらもサノンの刀と同じように刃が黒い。どろりとした妖気まで滴り落ちる。
「斬り落とすイメージをもってください。足を踏ん張って腰を入れて、手だけが泳いでフラフラとしないように。力の入れやすい体勢を探してください」
うるせえ。
こちとらシブカワと同じ、刀の国から来ているんだ。お侍さんは幼少の頃から見慣れてんだよ。
とはいっても袈裟懸けに斬るとつま先を落としそうだし、体に染み付いた最も身近な型は野球のスイングなわけで、バットのように肩のあたりで短刀を構えてしまう。
「なんですか、その独特な……」
やかましい、
「わ!」
音もなかった。
氷柱には、リリリンの手首から十センチばかり上に白い筋が走っている。重い手応えさえなかった。さっきまでの苦労が信じられないほど鋭い斬れ味。自分で自分が信じられない。
「っと、」
膝が笑って右手で踏ん張らないと倒れそうになった。
「ちょっと、血が」
「ああ、ごめん、洗って返す」
少女漫画に出てくる、ハンカチを借りたシーンようだ。こっちはもっと剣呑だが。
「そうじゃなくてすごい量が――」
「さて、」
もういっちょいかせていただきますか。
他にも仕込みは山ほどあるんだからな。
*
すっかり雨は上がっていた。
そのかわりじめっとした湿気が夜風に混ざり込んでむせ返るようだった。
シブカワの泊まっている官舎というのがどこにあるのかわからず、城門の門番に訊いたのが間違いの元だった。
血まみれの左半身を見てどう勘違いしたのか、一切口許に緩みのない連中に囲まれてしまう。
シブカワに会いに来たと言ってもつないでもらえないどころか、怒鳴り出す始末だ。なんといってもリアルタイムで俺の血は流れ出ているわけで、こんなところで倒れようものなら今までの苦労がすべて水泡に帰す。
「早くしてくれ! 攻略資金金融が来たと言えば絶対にわかる」
「野良病院ならすぐそこにある。さっさと行ってこい」
こんなやりとりを何度もして、やっとシブカワが現れたときにはもう俺は立っていられなかった。石畳の上にあぐらをかいて小さな血溜まりを作り始めたところだ。セロリに腕をきつく縛ってもらったんだけどな。傷は思っている以上に深い。
「こんな時間にどうしたんだ、」
人だかりを割ってきたシブカワは、らしくない驚きの表情を見せた。
「どうした、怪我をしているのか。魔女にやられたのか」
「違う」
サノンと黒武者軍団が現れると、門番たちは三々五々自分たちの持ち場に帰っていった。こいつらの黒い刀の切れ味を体感したばかりだ。こんな大勢に囲まれると、ただでさえ少ない血の気がさらに引いていく。
「病院へいくか」
「いや大丈夫」
そんなことをしているとたぶん間に合わない。俺は座ったままの非礼を建前程度に詫びて、本題を切り出した。
「鉄鉱の青は渡そう。そのかわり俺とミツハといすゞと、ついでにヒノミカとカラスタも、つまり俺の周りの人間に今後一切手出ししないでくれ」
シブカワは、いやサノンでさえも少し意外そうな顔をした。
「あの魔女の末裔は納得したのか」
「していない。知ったら激怒するだろう。でも、あいつは死にたがりなところがあるみたいだから。そちらさんも上等だって感じだし、昼間みたいに全力で抗えばなんとかなるんじゃないか、ならなくても死ぬことなんて怖くないって言うし。とにかく止められるのは俺しかいなかった」
「あとで皇国に弓を引かれても困るんだがな」
こういう発言が出るってことは、ミツハの実力を認めているということだろうか。
「俺が絶対に説得する」
サノンの冷たい眼差しからは否定的なものしか感じなかったが、シブカワは明らかに俺の方へ傾いていた。男が血まみれになって息も絶え絶え訴えているんだ。現実世界ではこういうシチュエーションは信頼が厚い。
「いま鉄鉱の青はどこにある」
「ある場所に隠してある。リリリンの家の借金は完済したって証明書と、あんたの署名付きで安全を保証すると書いてくれれば、その場所を教える」
まさか出血多量目前の俺に向かって「明日まで考えさせてくれ」とは言わないだろう。
「鉄鉱の青と交換で、うちのミツハが所有すべき壱番の根付けを返してくれてもいいけど」
「それは無理だ」
即答。
そうだと思ってたけどね。
「本当は鉄鉱の青が欲しいんじゃなくて、大きな魔力の緘魔石が欲しいんだろ」
俺にはもしかしたらと思う部分があった。
ミツハだけ不当に使える魔法。割れた照明。溢れた魔力。
いつの時代もどこの世界も、エネルギーの奪い合いで人類は戦争を起こす。遙か太古だって火の奪い合いできっと争っていたはずだ。
「緘魔石は石油、か」
「石油?」
シブカワの目が見開く。
「俺もあんたと同じさ……」
そろそろ本当に気分が悪くなってきた。頭が前後に揺れているような気がする。
「敷島の、大和心を人問わば」
俺がそこまで言うと、シブカワは真剣な面持ちで言葉尻を引き取った。
このとき俺は初めてシブカワって人間の素を見たような気がする。
「――朝日に匂う、山桜花」
喉の奥になにか詰まらせたような、かといって泣くでもない。みっともなくあぐらをかいて半身を真っ赤に染めた俺に対して、慈しむ色が眼のなかに浮かんだ。
「無学な俺が唯一覚えている和歌だ」
「おまえ……」
「本当は敷島って名前がある。この世界に来たとき、まったく記憶にないプロフィールを宛がわれていたけど、この世界の住人じゃない」
「なんで最初に会ったときに言わなかった。私の名を聞けばすぐに気付いただろ」
だって怖いじゃねえか。
「ずいぶん長い間、こっちの世界にいるようだけど、どうやっても戻れないのか、むこうへは」
「帰りたいと考えたのも最初だけだ。生きるのに必死でな。今はまったく思わない」
「いすゞはつい最近、やってきたようだ。そっちは他に、現実世界の人間に会ったか」
「君が初めてだ。私以外にいるとは思わなかった。あのいすゞという子を除いて」
見事に性別も年齢もバラバラだ。
「なんで俺らが、選ばれたんだろうな」
シブカワは俺を見つめて少し黙った。どこか、言おうか言わまいか逡巡している感じがした。なにか知っているのか。
「……私はあのいすゞという子に会ったことがあるような気がする」
「え!? 向こうで」
「そうだ。勘違いかもしれないがな」
どういうことだ。
「いすゞはまだ六歳だ。シブカワさん、もっと昔からここにいるでしょう」
それに俺にはそんな記憶がない。
現実世界のどこかで接触していたのか。
それが三人の共通点なのだろうか。
「帰る気のない私には関係のない話だな。とりあえずその出血を止めよう。医者へ連れて行く。サノン」
「ちょっとまった。契約成立ってことでいいか」
「かまわん」
「それなら、ミツハが気付くより先に戻らなきゃ。俺と鉄鉱の青が一緒に消えていたら、あいつもなにをするか分からない。医者に診てもらう間に書類をもってきてくれないか。あと、遊郭のあたりに、カラスタってふとっちょの子が、いるから、呼んでほしい」
なんだか息苦しいな。
後頭部の方から意識をつままれて引っ張られているような気がする。
「すぐそこに、モグリの医者がいる。行きつけだから、そこに連れていって欲しい。少し、休みたい……」
身体が重くて、体内に水銀でも流れ込んでいるんじゃないかと思う。
あとは任せたという気分になって、俺は石畳に横たわった。