2. エリザベツ大叔母さん、奇跡の懐妊

文字数 2,913文字

 それから季節は流れ、すっかり冬になった。夫になるヨセフのための準備も、着々と進んでる。

 その日、あたしは当番の朝の水汲みを終えてから、いつものように中庭でお裁縫をしていた。あたしたちユダヤの国のテベテの月(12~1月)は、一年で最も激しい雨季に当たる。今日も水汲みを終えた頃からザアザアと降って来た。この辺は雪はまず降らない。降るのは北にあるヘルモン山あたりかな。とはいえ、やっぱり肌寒いので、できるだけ服を着込んで、中庭のひさしの下の、雨が当たらない場所でお裁縫を続けていた。父さんはお仕事、母さんは近所の集会、妹は友だちの家で裁縫を教えてもらうとかで、雨が降る前に家を出ていた。つまり、家にはあたし一人。




 雨はアドナイ様の祝福の印なんだ。だから、好き。でもお裁縫をするには手元がうす暗くてやりにくい。麻の布を一針ずつ丁寧に縫っていく。今縫っているのはヨセフの仕事着だ。石工大工という仕事は刃物や石が相手だから、よくひっかけたりほころびたりする。




 そういえば、昨日の夜に父さんがしてくれた話には心底びっくりした。親戚のエリザベツおばあちゃんが、御年90歳でなんと、




 妊娠した




 ことが発覚したそうなの。あまりのことに父さんに何度も聞き返しちゃった。




 だってだって、90歳、だよ?!




 信じられる?!?




 エリザベツおばあちゃんは若い頃から子宝に恵まれず、旦那さんのザカリヤおじいちゃんとの間にはついぞ子どもはできずじまいだったの。不妊って、あたしたちの間では不名誉極まりないことなの。多産はアドナイ様(=創造主)の祝福だけど、不妊はその逆で、アドナイ様の祝福がない、ってあたしたちは捉えてるの。結婚してる女性にとって、これは恥であり屈辱であり、本当に辛いことなの。






 その妊娠の経緯を聞いて、鳥肌がぞわわって立った。




 ザカリヤおじいちゃんは祭司といって、アドナイ様の神殿で仕えるお仕事をしているの。お仕事って言うより、ご奉仕、かな?そして、何の奉仕をするかは、くじびきで決まるらしいんだって。(ちなみにこのくじびき制度、なんと1000年くらい前にダビデって王様が決めたんだって!)


 で、神殿には【聖所】っていう、とってもとっても聖なる空間があってね、さらにその奥には分厚い幕で仕切られた更に聖なる空間の【至聖所】って場所があるんだって。ザカリヤおじいちゃんはその手前の聖所に祭壇の炭火を持って入って、それを香壇に入れてお香をたくことなんだって。




 なんでもザカリヤおじいちゃんはこの年になるまで聖所に入ったことがなくて、初めてのご奉仕だったらしくて、ものすごく緊張したらしいの。だけど、願ってやまなかった聖所でのご奉仕がついに回って来て、張り切って準備したみたい。




 でも、いざ当日になったらものすごく緊張しちゃって、「我らのご先祖様のアロンの息子たちのように、【異った火】を捧げて、アドナイ様の怒りに触れて、その場で死んでしまったらどうしよう…。」と、すっかり弱気になっちゃったんだって。祭司たちの間では今でも「異なった火を捧げた祭司は、アドナイ様の怒りに触れて死ぬ」「死ぬ直前に、天使が香壇の右に立って死にゆく者を見送る」とか囁かれているみたい。おおこわ。あたしならまず無理かな、そんな命がけのご奉仕…。




 でも…アドナイ様のお側でお仕えできるおじいちゃんはいいなあ…。あたしもアドナイ様に愛される民族の一人として、いつかアドナイ様のお声を聞いてみたい。見た者は死ぬ、とまで言われるその御顔だけれど、いつかあたしも…。




 …ああ、話がそれたね。ごめん。ともかく、ザカリヤおじいちゃんは恐る恐る聖所のご奉仕を務めようとしたわけ。炭火を香壇に入れたその時、香壇の右に天使が現れたんだって。ザカリヤおじいちゃんは真っ青になって、

「ああ…わしのどこかに落ち度があったのか…。言い伝えは正しかったのだ。すまん、愛する妻エリザベツ。わしはここで死ぬのだ…。」

 そう考えながら恐怖に固まるおじいちゃんに、ガブリエルと名乗る天使は驚くような言葉を語りかけたらしいの。要約すると、こんな感じ。




 妻エリザベツは男の子を産む。名をヨハネと名付けよ。


 その子の誕生は多くの人にとって喜びとなる。


 その子はヤハウェ様(=創造主の別名)の御心を行う偉大な人物となる。


 その子はワインも強い酒も飲まない生涯を送る。


 その子は母親の胎内にいる時から聖霊に満たされる。


 その子はイスラエルの多くの人たちをヤハウェ様のもとに立ち返らせる。


 その子は古(いにしえ)の預言者エリヤのように、人々の心をアドナイ様に向けさせる。




 ザカリヤおじいちゃんはすっかり動転して、

「そうなる証拠はあるのでしょうか?見てください、わしはもう老人ですし、妻もとても子どもを産めるような年齢ではありません。」

 すると天使はおごそかに、こう言った。「あなたが私の言葉を信じなかったので、あなたは口がきけなくなります。私の言葉は、時が来れば必ず実現します。」




 神殿の外で待っていた祭司たちは、ザカリヤおじいちゃんがいつまでたっても出て来ないのでざわつき始めた。

「おい、ザカリヤのやつ、遅すぎないか?」


「中で何かあったのか。」


「まさか、あいつもアロンの息子たちのように…。」


「おい、やめろ!縁起でもない!」


「あ! 出てきた! 出てきたぞ!」


「どうしたザカリヤ? なんで身振り手振りばっかりでしゃべらないんだ?」


「…どうやら口がきけなくなっているみたいだぞ…。」


「何があったのだ?」


「神殿の中で幻を見たのだ。そうに違いない。」

 おじいちゃんは仲間の祭司には中で何が起きたかを説明しなかったみたい。とても信じてもらえるとは思えなかったんだって。そして、神殿でのお務めを終えてユダヤにある家に帰ったの。




 そうしたら!




 何と!




 奥さんのエリザベツが、しちゃったの!!




 妊娠!!!




 すごいすごいすごい!奇跡!!!




 まるで、アブラハムとサラの再来みたい!




 え?アブラハムとサラって誰かって? んもう! そんな大事な事も知らないの? あたしたちユダヤ民族の族長、アブラハム様だよ!いにしえの昔、アドナイ様に遠いウルの地(現イラク辺り)から召し出され、75歳でアドナイ様と契約を結び、99歳の時に90歳の妻サラからやっと息子を授かったんだよ。奇跡の息子!




 エリザベツおばあちゃんは最近まで家に引きこもっていて、妊娠していることは誰にも知られていなかったみたい。でも妊娠5ヶ月目にやっと表に出て人目に触れるようになって、周りではにわかに「年老いた女が子を宿した。アブラハムの妻サラの再来だ。」と噂があっという間に広がって、あたしの父さんにも届いたってわけ。「今は妊娠6ヶ月くらいらしい」って父さんが昨日言ってた。




 すごくない?アドナイ様の奇跡が、あたしの親戚にも起こったなんて!うわあ、どうしよう。お祝いに何を贈ろうかなあ。赤ちゃんが喜びそうなものかな?それともエリザベツおばあちゃんに何か……。


 ……あれ?

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ナザレ村のマリヤ。13歳で婚約。主人公。


比較的冷静で、感情や想いは内に秘めるタイプ。

人や動物の気持ちがなんとなくわかる、思いやり娘。

一途な想いは誰にも負けない。

タマル。マリヤの妹、12歳。

お姉ちゃん大好きっ子。

はた目にはぼんやりしているように見えるお姉ちゃんが心配でしょうがない。

あわてんぼうで、よくお姉ちゃんにたしなめられる。お姉ちゃんにはかなわないなーと思っている。

羊飼いヨナタン。イスラエル北部のナザレ村付近で、仲間の羊飼いたちと一緒に153匹の羊の群れを飼っている。

商人エスロン。マリヤとタマルの長旅を助けてくれる、計算高いお兄さん。

天使ガブリエル

マリアとタマルの母。

ヨセフ。マリアのいいなづけ。

マリアの親戚、エリザベツです。主の恵みによって不妊・高齢で男の子を産みます。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色