気持ちを受け止める存在の私。

文字数 11,702文字

 窓の外では、雨が降り続いている。
 秋の本格的な到来を知らせる嵐が近付いているせいで、昨日の夜から雨模様だった。私が佇む宮殿の一室からは高い塀に囲まれた屋敷の正面が広がり、その塀の真ん中には大きな鉄格子の門が口を閉じて、雨に対して卑屈になっている。その下に広がる舗装された地面は雨に濡れて、物憂げに灰色の空を水たまりに写していた。
 何もない雨の日の昼過ぎ。私はする事も何もなく、ただ椅子に座って窓の外から聞こえてくる雨粒の音色と、部屋に置いたオーディオから流れるピアノ音楽を聴いていた。私は今年十九歳。本来なら大学や専門学校で勉強をしたり、あるいは勤めに出ている年頃だ。だが今私がしている事と言えば、この大きな屋敷に住む、この国の最高権力者の息子の相手をする事だ。貧困と不況にあえぐこの国ではまさに天から降って来たような幸運かも知れないが、使用人でも奴隷でもない、ただの物として扱われているような気がして心苦しかった。



 私は北方の農家の家の長女として生まれた。両親に居た子供は私だけで、他に兄弟は居なかったし、人口も少なかったので同世代の子供は村に少なかった。
 国の法律で子供には無償教育が義務付けられており、私は村から歩いて一時間の所にある保育所兼学校に七歳から十四歳まで通った。そこでは読み書きに計算、集団生活で必要な知識などを教えてくれたが、それ以上の事は教えてくれなかった。ほとんどの場合、農民の子供は農民になるのが普通だった。
 学校には私を含めて七人の生徒がいた。皆私よりも年下の子供達で、私の事を「ハル姉ちゃん」と呼んで慕ってくれていた。そう呼ばれると、私は自分に兄弟が出来たような錯覚を覚えた。
 弟や妹のような下級生たちに比べて、私は身体が大きかった。背はそれほど高くは無かったが、体の方は肉付きが良く、胸が膨らみ始めた頃は、胸が普通の大人の女性よりも大きくなっている程だった。それからも身体の成長は止まらず。十四歳になる頃には同い年の女よりもはるかに成熟した体つきになっていた。特に豊かに膨らんだ胸元は年頃の娘には不釣り合いな物で、男の視線が誰よりも気になった。
 私は十四歳で学校を卒業すると、一日中家の仕事である農作業を手伝うようになった。そして作物の収穫まで後一月ほどになったある日、村長が慌てて村の人間を集めてある集会を開いた。
「みんな、聞いてくれ偉大なる国王陛下とそのご子息がこの村を査察に来られる」
 血相を変えてそう言った村長の言葉に村の住人は驚いた。王都に引きこもってばかりいると思っていた国王が、息子を連れてこの辺鄙な村まで来るのだ。皆は口々にどうすればいいのか話し合い、何が起こるかと噂しあった。
「私達はどう出迎えればよいのですか?」
 村の女が質問した。
「普通の恰好で普通に出迎えればよいと、王都の役人は言っていた。だが、用意された花輪を手渡す役を決めておくようにと言われた」
 村長がそう答えると、村人達はお互いの顔を見合った。いったい誰がその大役を仰せつかるのか考えているのだろう。すると、村長がこう口を開いた。
「国王陛下には私が花輪を渡す。王子殿下にはハル、お前が渡してくれ」
「私がですか?」
 私は自分を指さして叫んだ。
「そうだ、お前は王子殿下と同い年だから丁度いいだろう。大人は大人、子供は子供の方が友好的だ」
 私はその言葉に反論しようと思ったが、周囲から「すごいな、ハル」「やったわね」と言う言葉が次々に浴びせられて、反論しようとする私の気持ちを押しつぶしてしまった。
「それでは決まりだな。明日の朝に王都の役人が来てまた説明してくれるそうだ。村の皆もそのつもりで居るように」
 そこで村の形だけの会議は終わってしまった。
 次の日、王都からの役人が黒塗りの乗用車に乗って村まで来た。身なりの整った服装に身を包んだその姿は、まるで異世界かおとぎ話の世界から来たようなオーラを漂わせていた。その役人はですます調の言葉遣いで村長や村人と接し、友好的に振る舞っていた。だがこれが上級の役人になると話は別だろう。村人達を教養の無い低層階級とみなして、見下した態度を取るはずだと私は思った。
 付け焼刃程度に村は身なりを整え、国王とその王子を出迎える準備が整った。私は王子に手渡す、王都の役人が用意してくれた花輪の側に立った。そして時間になると、黒塗りの乗用車に前後を守られたリムジンの乗用車が村に乗り付け、護衛が前後の車から降りてくると、一人の護衛がリムジンのドアを開けて、中から国王と王子が下りて来た。
 国王は五十代前半の黒髪の紳士と言った感じで、薄いグレーのスーツ姿でネクタイを締めていなかった。後から降りて来た王子は紺色のブレザー姿で、肌が透き通るように白く髪の色が灰色掛かっていた。恐らく母親似なのだろうと私は勝手に思い込んだ。
 私と村長は花輪を手に車に近づき、それぞれ国王と王子の前に立った。
「セデス国王陛下、イスカー王子殿下。わが村にようこそおいでくださいました。心より感謝いたします」
 村長は慇懃にそう言うと、持っていた花輪を国王に手渡した。花輪には国王を示す鷲の紋章のレリーフが付けられていた。
「お出迎えありがとうございます」
 国王も柔和な笑顔で答えた。本心は分からなかったが、笑顔で応対するのに慣れているのだろう。
 少し遅れて、私も王子に花輪を手渡した。私の手渡す花輪は少し小さく、王子を示す豹の紋章が付けられていた。
「王子殿下もようこそいらっしゃいました」
 私は両親から教えられた言葉をそのまま垂れ流した。
「ありがとう」
 王子は少しくぐもったような言い方で答えた。白い顔の中に浮かぶ灰色の瞳は私を見た後、すぐ何処かへと視線を移してしまった。
 形式的な歓迎行事が終わると、国宝はすぐに畑の方へと向かっていった。その年の村の野菜畑は一面が緑に覆われて、豊作だったのを覚えている。
 国王は農務大臣と共に、村長から説明を受けていた。だが傍らの王子は後継者であるにもかかわらず、農業政策には興味がない様子でつまらなそうに何もない風景に視線を飛ばしていた。そんな手持ち無沙汰な様子を私が少し離れた所で伺っていると、王子と視線が合った。私はすぐに目を逸らしたが、王子はこう声を掛けて来た。
「君、名前は?」
 氷を水で洗ったような透明でハスキーな声が、私の耳に伝わる。
「ハルです」
 私はそう答えた。
「ここの生活はどう?辛い事は無い?」
「普通です。農民の娘は農民になるから平気です」
 私はつい本音を口走ってしまった。周りの大人の耳に入ったら大目玉どころではない発言だったが、この言葉を聞いたのは王子だけだった。
「そうか、分かった」
 王子はそれだけ答えて、今度は私の事をじろじろと見まわした。私は異性の好奇の眼差しが好きでは無かったので、王子から顔を逸らした。
「同い年くらいの友達は居ないの?」
「いません」
 私はそれだけ答えて、それから王子とは口を交わさなかった。
 村の査察は、それから二時間程で終わった。村には褒賞も何も無かったが、国王が持って帰ったものも無かった。
 それから一週間したある日、王室に使える役人が黒塗りの乗用車に乗って村へとやって来た。彼らは私の家に着くと、両親と私を読んでこう言った。
「お前たち、娘のハルを王都に出頭するよう命令されている。手回り品を用意したら、すぐに村を出るように」
「そんな、私達は何も聞いていませんよ」
 父が役人たちに向かって困惑顔で答えた。
「王室直々のご命令だ。逆らえばどうなるかわかるな?」
 役人の一人が斬首刑に使う大斧のような重さの声で言い放った。背筋に冷たい物を感じた両親は慌てて私の身の回りの品々を鞄に詰めて、私を役人に差し出した。
「娘の身柄は今後王室が預かる。悪いようにはしないから安心しろ」
 役人はそう冷たく言い放つと、私を黒塗りの乗用車に乗せた。そして私は両親に別れの涙を見せる事も出来ずに村を出され、そのまま地方都市の大きな列車の駅に連れて行かれた。
 駅のホームには滅多に来ない旅客専用列車が来ていた。私は政府高官や貴族用の一等客車の個室に通され、列車に揺られながら王都へと向かった。次第に遠ざかって行く故郷の方を列車の窓から見ていると、私は家族と故郷の暖かさと安らぎが恋しくなって、大粒の涙を流してすすり泣いた。
 日が沈み完全に夜になると、私を乗せた列車は王都の中央駅に到着した。私は駅の中央ホームから車寄せに行き、そこでまた黒塗りの乗用車に乗せられると、そのまま王都の外れにある宮殿へと入った。窓から外を見ると、そこが教科書で習った歴代の王子が住む宮殿であることに気付いた。
 車をおりて中に通されると、私の村では想像もつかないほどの豪奢な内装が私を出迎えた。そして私は宮殿の応接室に案内され、座って待っているようにと言われた。私は用意された飲み物にもクッキーにも手を付けず、ただソファーで固くなって座っていた。
 暫くすると、応接室のドアがノックされた。メイドがドアを開いて頭を下げると、そこには以前見たブレザー姿の王子が立っていた。
「やあ、また会えたね」
 再会の言葉はそれだった。





 雨はいまだに止む気配を見せず、オーディオから流れる音楽はもう終わりに近づいていた。私は席を立ち自分の部屋を出た。絨毯の敷かれた廊下に出ると、宮殿に使えるメイドが一礼して、私はこう声を掛けた。
「暖かい紅茶を用意して、お砂糖とミルクも添えてね」
「承知いたしました」
 メイドは深々と頭を下げて、給湯室へと下がっていった。私はその後ろ姿を見送り部屋に戻った。そして再び外の様子を見ると、鉄格子の門が開く鈍い嫌な音が窓越しに聞こえてきて、外から黒塗りの乗用車が三台入って来た。三台の車は車寄せへと向かい、真ん中の車が正面玄関に着くと、執事が真ん中の車のドアを開いて中に乗っている男を出迎えた。男が足早に宮殿の中に入ると私は部屋を出て廊下を進み、玄関ホールに行って男を出迎えた。
「イスカー王子、お帰りなさいませ」
 私は使用人と同じ文法、同じ声色で王子を出迎えた。
「ただいま、ハル」
 王子はそう答えてそそくさと自分の執務室に入って行った。私は小さな寂しさを感じながら、彼の後ろ姿を見送った。
 私は部屋に戻り、用意された紅茶を飲んだ。日が傾いて気温が下がって来たので、私は一緒に頼んだ砂糖とミルクを紅茶に入れて、一人で椅子に座って飲んだ。
 暫くすると、私の部屋の扉を誰かがノックした。「どうぞ」と答えると、スーツを脱いで楽な格好になったイスカーが入って来た。
「邪魔をしてもいいかな?」
「お構いなく。紅茶をもう一つ用意させましょうか?」
「いや、いい。僕は後で貰うよ」
 イスカーは少し疲れた様子で答えた。
「お仕事は大変でしたか?」
 私は他人行儀な言葉づかいでイスカーに尋ねた。
「他人行儀な言葉遣いはよしてくれ、二人で居る時は普通に頼むよ」
 イスカーがそう答えると、私は紅茶のカップを置いた。
「そう。なら、そうするわ」
 私は普通の友人に話す口調で彼に話しかけた。彼の声は初めて会った頃から五年が経過していたから、低くより男性的な声になっていた。
「今夜は政府の役人が来るけれど、君も一緒に食事をしてくれるかな?君の好きな野菜と鶏肉の煮込み料理を作らせた」
「ありがとう」
 私はそう答えると、器に盛られた野菜と鶏肉の煮込み料理を思い浮かべだ。食材も調理法も、私が故郷の農村で食べていたものとは大違いのはずだ。昔は大鍋で似たその料理とパンとチーズくらいしか食卓に上がらなかったが、今は様々な副菜が付く。
「もうしばらくしたら夕食だ。そしたら、食後の紅茶を飲もう」
 イスカーはそう言って、私の部屋を後にした。

 それから一時間程して、イスカーと私、それに一部の政府高官を招いての夕食が始まった。夕食席は団らんと言うよりも何かの報告会に近く、あまり楽しい話は上がらなかったお陰で料理があまり美味しく感じられなかった。せっかくイスカーが頼んで用意してくれた私の好きな料理も、好きな料理からただの料理に成り下がったような感じだった。
 夕食が終わり、政府高官たちは用意された車で帰って行った。私とイスカーは宮殿にある彼の執務室に移動して、そこの応接ソファーに座り、用意してくれた紅茶を飲む事にした。
「君がここにきて、何年になるかな?」
 向かいの席に座ったイスカーが私に尋ねた。
「もう五年になるわ」
「早いな」
 イスカーはそう答えた。
「初めてここに来た時、私は一体何が起こったのか分からなかった。でも、やがてあなたの本心が分かった時、戦慄したけれど」
 私は紅茶のカップを置いて、その時の事を思い出した。



 この宮殿に連れてこられた後、私はこの宮殿で生活するのにふさわしい服装を与えられた。私には専属の教育係が付いて、上流階級の人間が来ても平気な様に私は厳しく躾けられた。
 家族から断絶され、見ず知らずの「他人」達との生活は私の心に付いた痣を濃いものにしていった。
 だが宮殿に帰宅したイスカーは私に対して優しくしてくれた。歳が近く、彼も同世代の友人がいなかったから、私は情けにも似た感情から心を開くようになった。そして彼と接するうちに、次第に私の中に有る抵抗感も和らいで、新たな場所での生活にも慣れるようになった。
 宮殿に来て二か月が経ったある冬の日、私は入浴を終えたらイスカーの寝室に一人で行くように指示された。明日が休日だったので、私は彼の夜更かしに付き合わされるのだろうと勝手に思い込んでいた。
 寝巻きに着替えた。私はイスカーの寝室に向かった。寝室には窓が一つもなく、絨毯と大きなベッドがあるだけだった。私は一つしかない入り口の扉を閉めて、イスカーの待つベッドに上がり何をして過ごすのかと思った。カードで遊ぶか、それとも他愛もない事を長々と続けるか。私は何をするのか楽しみな気分になった。
「言われた通り参りました。イスカー様」
 私は普段彼に使う言葉遣いでそう言った。するとイスカーは妙に神妙な顔つきになってこう答えた。
「普通に呼んでくれ。名前で」
 真面目な感じで言われたので、私は面食らった。
「じゃあ、普通に友達を呼ぶときみたいで良いの?」
「ああ、構わない」
 イスカーは恥じ入るようにそう言った。恐らく同い年の女の子にこうやって話すことが無いのだろう。
「それじゃあイスカー、何をする?」
 私はイスカーに尋ねてみた。
「疲れたから寝ながら話そう」
 彼から帰って来た言葉は意外な物だった。だが当時の私はまだ清らかな少女であったから、彼の提案を受け入れて、同じベッドに潜り込んだ。異性と同じベッドに入るのは初めての事だったが、私は戸惑いを押し殺してベッドに潜った。
「何を話す?」
 私は布団をかぶって、横に寝るイスカーに話しかけた。
「君の生まれた村の事が聞きたい」
 イスカーはそう答えた。聞かれた私は自分の生まれた村の名前、住んでいた人や特産物、通っていた学校の事を話した。イスカーは自分の生まれた時の事、母親を早くに亡くした事などを話した。楽しくなるはずだった夜の就寝前の時間は神妙な雰囲気になって、次第に声のトーンも落ちて行って、私はやがて眠りに着いてしまった。
 そして眠りに着いたとき、私は身体に違和感を覚えた。得体の知れない何かが自分に縋り付き、何かしているのだ。眠りの底が段々浅くなって、ついに水面から底が見えて私の瞼が軽くなると、私の寝巻きの前をはだけてイスカーが私の乳房をぎこちない手つきで弄んでいるのに気付いた。
 目が覚めてしまった私は悲鳴を上げて、彼から逃げようとした、だがそうするとイスカーは私の身体を抑えた。
「嫌!離して!」
 私は短く叫んだ。
「まって、話を聞いて!」
 イスカーも叫んだが、私は彼から逃げようと必死だった。布団から這い出ようとすると彼は私の身体を抱きしめて、私を逃がそうとはしなかった。
「僕は君の事が好きなんだ。それに僕には受け止めてくれる人が欲しい。だから・・・・・・」
 私は彼の言葉に耳を貸さずに逃げようとした。だが彼は私を強く抱きしめたまま、話そうとはしなかった。
「お願いだハル。聞いてくれ」
「嫌!」
 私も叫んだ。だが外からの返事はなかった。この寝室の周りには誰も居ないのだ。屋敷の全員がイスカーの味方だったのを私は忘れていた。
 やがて私とイスカーの抵抗がしばらく続くと、イスカーは年甲斐にもなく泣き始めた。彼の心変わりを感じ取った私は寝巻の前を閉めて、彼に背を向けたまま尋ねた。
「どうして、こんなことするの?」
 私は声を振るわせて言った。体中が強張り、高熱を出した時のような感覚が私の中に有った。
「俺は母親に抱かれたことがない。他人に抱きしめられたり、愛を持って接してくれて貰った記憶がないんだ」
「おっぱいなら、乳母の人が居たでしょ」
「ああ、でもその人は僕が三つの時に居なくなった。その後は教育係と躾の事ばかりで、学校に入ると勉強やらで泣く事も出来なかった。僕は愛を求めて答えてもらった事が無いんだ」
「王子様なら、そう言う人を呼べるでしょ」
 私は彼にそう言った。
「ああ、でも俺は自分を受け止めてくれる人が欲しいんだ。そうしたら、君の村に行って、君から花輪をもらった。それが嬉しかったんだ。形式的な仕込みの演出でも」
 私はその言葉を背中で聞いていた。彼の言葉には包み隠さない真実味があった。
「それで君をこの屋敷に連れ込んだ。自分の権限を使って。ごめん、こんな事になって・・・・・・」
 涙声でイスカーは続けた。やがて彼に対する恐怖心や不気味さが薄らぎ始めて、彼に対する同情の気持ちが芽生え始めて来た。私の中では想像する事しかできなかったが、彼が隔離された世界で、孤独に打ちのめされ何かに飢えているのが分かった。
 彼は声を殺して泣いていた。その場をそのまま彼から離れても良かったが、体が強張って出来なかった。
「そう」
 私はそう一言漏らすと、寝返りを打って彼の方を見た。私は手を伸ばして、枕元にある照明スイッチで部屋の明かりを間接照明に切り替えた。
「あなたの気持ちは分かった」
 自分でも不思議なくらいに喉から言葉がぬるりと出て来た。そして私は閉じていた寝巻きを開けて、同い年の娘よりも豊かに実った乳房をさらけ出した。その時初めて、私は自分の乳房が役に立ったような気がした。
「いいよ。受け止めてあげる」
 私の身体は震えたままだったが、彼を受け止める準備は出来ていた。イスカーは驚いたような目で私の顔を見た後、胸元に視線を落としてそっと顔を近づけた。彼の荒い鼻息が、私の乳房に掛かる。彼は手で私の乳房を揉み、顔をうずめたりして感触を味わっている。その感触の波に私の頭の芯が甘く柔らかな熱を出し始める。
 私はベッドに寝そべり、乳房をイスカーの好きな様にさせた。そして彼は顔を近づけて、私の左乳房にある蕾のような乳頭を乳輪ごと口に含んで、そっと吸い始めた。乳房の先端に冷たいような感触が走ったかと思うと、やがて彼の乳房を吸う感触が私の中に有る彼への恐怖心を吸い出して、彼に対する慈しみを生んだ。
 その夜、私は彼が眠りに着くまで、自分の乳房を好きにさせた。私の中に有る何かの感触が、彼の中に繋がったようだった。


 それ以来、私とイスカーはお互いの立場を乗り越えて、肌を合わせるようになった。一つのベッドの中で寝るだけの事もあれば、男女の関係になったり、初めて寝たときのような事もした。それ以来私は彼の気持ちの受け止め役として、この宮殿に五年間も住んでいる。他人の目から見れば、宮殿に住んでいる立場を利用して何か別の事をしてもいいと言う意見もあるかも知れない。だが今の私には、彼の気持ち受け止め役で十分だったし、何かをしたい欲も今の状況に対する不満も無かった。
 そして今夜も、私はイスカーと共にあの日と同じ寝室で同じベッドの上で横になっている。彼は私を求めて体を寄せてきて私に抱きついてきた。寝巻き越しに私の身体に口づけすると無抵抗な私の身体や乳房をまさぐり始めた。寝巻きの前を開けると、あの時よりも成熟して紅色に色づいた乳頭と乳輪を持った乳房に彼は顔をうずめた。すっかり慣れてしまった私は次第に眠くなり、そのまま眠りに着く事にした。
 暫くすると、私は目を覚ました。今が何時なのかはわからないが、早朝の様だった。私の側にはイスカーの身体があり、彼はもう目覚めている様子だった。
「ハルも起きたかい?」
 まだ眠気が抜けきっていない声で、イスカーが尋ねる。
「一応」
 私はそう答えた。寝巻きの前はボタンを掛けられていなかったが閉じていた。
「今日は幸いにも予定が何も入っていないんだ。だから、少し出掛けないかい?」
「私を連れて?どこに行くの」
 私は彼に聞き返した。ここにきてから、二か月に一回半程度の割合で、彼と一緒に少し離れた所に外出する事は有ったが、いつもお付きの人間が側に居た。
「どこでもいい。美しい場所なら。君と二人きりになれる場所が欲しい」
「今ここじゃダメなの?」
「太陽の光が当たる場所が良いんだ。それに誰にも邪魔が入らない場所で、ここよりも開けた場所が良い」
 その言葉を聞いて、私は少し考えた。私を自分の気持ちの受け止め役ではなく、一人の独立した人間として扱いたいのだろうか。欲望や寂しさのはけ口ではなく、普通の友人のような相手として。
「いいわ、何時に行くの?」
「朝食が終わってしばらくしたら」
 イスカーはそう答えた。私はベッドから起き上がって、乱れた寝巻きと髪を整え、音をたてないように一人で寝室を出た。

 それから私は自分の部屋に戻り、備え付けのシャワーで身体を清めて服を着替えると、仕えているメイドが朝食の時間だと報せて来た。私はすぐ行くと答えて、イスカーの待つダイニングに向かった。
 ダイニングではイスカーが待っていた。テーブルに乗せられた料理は焼き立てのパンケーキに季節の果物、それにメイプルシロップの小瓶とコーヒーのポットが用意されていた。夕食会にも使われる大テーブルには貧相すぎる内容だったが、私には十分だった。
 私は先に席に着いていたイスカーの向かいに座ると、メイドがカップにコーヒーを注いだ。私はナイフとフォークを持ち、頂きますも言わずに料理に手を付け始めた。
 私とイスカーは言葉を殆ど交わさずに朝食を食べ終えた。一緒に寝た後は、どういう訳だか私もイスカーも口数が少なくなる。傍目から見れば、私と彼の関係は王子と夜の相手の関係なのだ。そのお互いに理解している関係が私達二人の口数を少なくしたのだ。もしイスカーと初めて会った時の事がおとぎ話なら、私は寂しさを感じている王子の理解者になって、成長と共に恋愛関係になって結ばれる筋書きになっているはずだ。だが今の私達は肉体関係以外に繋がりは無かった。
 朝食が終わり、部屋に戻って窓の外を見ると、空は昨日までの嵐が空の汚れを拭き取った爽やかな秋晴れの空模様だった。窓を開けて換気すると、昨日の雨に濡れた湿った空気が瑞々しい空気を私の部屋に入ってきて、私の中に有った濁った感情を清らかな状態にしてくれるような気分になった。
 それから私は普通の服に着替えて、何処にでも居る街の若い女に化けた。そして部屋を出て、宮殿で使う車を保管するガレージに向かった。ガレージにはイスカーを始めとする高い身分の人間が利用する送迎用の黒塗りの大型乗用車や事務用のワンボックスに交じって、普通ナンバープレートを付けた一台の白い中型セダンが停車していた。これがイスカーの愛車で、五年落ちの中古車を宮殿の使用人名義で買ったものだった。
 程なくして、イスカーがやって来た。彼は車のドアロックを解除して運転席に乗り込みエンジンを掛けた。私も助手席のドアを開いて車に乗り込み、シートベルトを締めた。
 イスカーは車を走らせ、宮殿の裏の通路を通って勝手口門から外に出た。街のメインストリートに出ると、道路の路面は車の走る所は完全に乾いていたが、日陰や交通量の少ない場所はまだ湿っていて、コンクリートに覆われた都市に自然の息遣いがまだ残っている気がした。
「これからどこに行くの?」
 私はイスカーに尋ねた。
「郊外に出ようと思う。緑があって自然がある場所」
「具体的には?」
 私が聞き返すと、イスカーは車で一時間半の距離にある郊外の地名を言った。そこは小川が流れていて、春先になると堤に整備された花畑に様々な花が咲き乱れる場所だった。今は花は咲いていないが、夏の名残の緑が残っているはずだ。
「いいわね」
 私は答えた。何気なく呟いた言葉だったが、私はなぜか自分が普通の十九歳の娘になっているような軽やかな気分を味わった。
 それから私達は車のカーラジオを付けて、DJの軽妙な言葉を聞きながら人気のポップスなどを聞きながら過ごした。生憎そのラジオから流れるバックグラウンドミュージックに相応しい会話は出来なかったが、少しだけ普通の人間というか、何処にでもいるカップルとして過ごしている気分を味わった。
 国道から高速道路に乗って四十分程北に進むと、高速を降りて郊外の田舎道を進んだ。交通量の少ない交差点を右折すると、目的の堤のすぐそばに出た。イスカーは車を堤の見物客の為に用意された駐車場に止めて、私達は車を降りた。周囲は平日と言う事もあり、観光客の姿はなく閑散としていた。細い道を挟んで向かいに建つ農産物直売所も活気がなく、駐車場入り口に立つ駐車係の警備員も暇を持て余している様子だった。
 私達は堤に上がる前、近くの小さな売店で紙コップのコーヒーを二つ買った。国の王子がお忍びでコーヒーを買ったが、店番の老女はイスカーの正体に気付かない様子だった。
 私達はコーヒーを持って堤を上がり、頂上にたって小川とは花畑を見下ろした。目の前を流れる小川は昨日の雨で土色に濁っていたが、その周りの草木は青空を移して燦々と輝いていた。花畑には今の季節に咲くいくつかの花が昨日の嵐に耐えて、健気に力強く咲いていた。
 私達は堤に用意された小さなコンクリート製の腰掛に座って、目の前の景色を見た。ここまで明るい青空と艶やか緑のコントラストは私にもイスカーにも久しぶりだった。
「美しい風景を見ると、心まで美しくなりそうね」
 私は何気なくそう漏らした。
「ああ、だから君を連れ出したかった。君は本当に美しい人だから、宮殿に押し込めたくなかった」
 イスカーもそう言った。恐らく気取った創作のセリフではなく、本心から出た言葉だろう。
「私への罪滅ぼし?勝手に親元から引き離した事への?」
「そうじゃない」
 私の皮肉じみた言葉に、イスカーはすぐさま否定した。
「僕は心から君の事が好きだ。だから、他の誰よりも愛している」
 イスカーはさらりとそう言ってのけた。私を愛しているとか好きだとか言う言葉に私は胸がどきんとしたが、平静を装ってこう続けた。
「それで、私の事が好きなあなたはどうしたいの」
「僕と結婚してほしい」
 彼はそう断言して、さらにこう続けた。
「君が過去の事で僕を許してくれるかどうかはわからない。でも、僕は現に君を愛している。それだけははっきり伝えたい」
 イスカーはそう言った。そして彼は私の方を向いてこう言った。
「嫌なら今すぐこの場から離れて貰ってもいい。失われた五年間の事を反体制的なマスコミにも流しても良い。でも僕の気持ちは変わらないから」
 イスカーはそう言って再び青と緑の間を眺めて私の返事を待った。私は何が起きたのか戸惑って取り乱すべきだったのだが、どういう訳だか心に何も感じなかった。まるで自分が製本だけされてページに何も書かれていない、ハードカバーの単行本になったような、外側だけが硬くて中身がない感情が私を支配していた。
「別にいいわ。あなたの妃になってあげる」
 私はそう答えた。いまさら泣いて私の失った五年間を返せと言っても、無駄だと理解していたからだった。
「私はあなたの気持ちを受け止めるのが仕事であり、与えられた役割だもの。それ以外何も出来なくなったから」
 私の中に、空虚な気持ちが広がって様々な感情を殺してゆく。


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