第10話 黒い瞳

文字数 1,673文字

「パワハラじゃなくて指導」といいはる責任者であり、腕力ないけど悪知恵利くから地元で上から6番目くらいの地位にいた感じの、元ヤン小物エリアマネージャーも、自分たちがゆっくりひとを殺しているとは気づいていないようだった。
 私に対してではない、介護サービスを提供する利用者たちの肉体であり魂を殺していることに。
 アルコール依存症の者にいってはならないことをいって禁酒を遠ざけて、オープンダイアローグのオの字も知らず、統合失調症の者の妄想を一々否定し、先方を惑乱させて、発達障害のある児童に声を荒げる。
 ここで私は日に25,000歩、距離にして20キロ程度歩く移動支援を週に2日担当させられたり、23区のうちの4区を自転車(電動アシスト機能などない)で駆けずりまわらされたり、難しい利用者宅に行かされてばかりいた。思えば健常とされる他のヘルパーがいやがる現場ばかり担当させられていたのだ。
 それだけならどうということはないが、精神障害者の分際で楽しそうに働いていることが気に入らないらしく、責任者に始まり他のスタッフもいじめをした。トップが始めるとそれに倣う、サル山のサルと変わらないのだった。
 責任者は忙しい忙しいといいつつトラブルがもたらす興奮や怒りに依存している人物で、あるとき「私は死が近いひとが分かる。死んだひとも見える」といいだして、どうやら私を洗脳形式で脅しているらしいのだった。
 これを他のひとに話しても信じてもらえない。おかしいのは精神疾患を患う私ということになる。
 介護業界のパワハラいじめの質がわるいのは、被害に遭った者が訴訟なり、本社に報告するなりの対応をしにくいせいかもしれない。弱者喰いよろしくのポンコツ事業所でも、なくなれば困るのは利用者とそのご家族なのだ。
 急な発熱があっても代わりがいないからと利用者宅に行かされ、当然新型コロナ感染を予想して、あのとき私はひとを間接的に殺したと思った。
 検査を自費で受けて結果は陰性だったが、高熱と頭痛は引かず1週間休み、その間「お大事に」のひと言もなくバンバンメールで連絡を寄こし、馬鹿はやってはならない一線を見極められないと痛感して退職に動いた。
 責任者とエリアマネージャーは来世でセミに生まれ変わり、土の中で「交尾、交尾」と交尾のことばかり考えて30年を過ごし、ようやく地上に出て殻をやぶり、「交尾―っ!!」と歓喜した瞬間に鳥に喰われるだろう。
 来世セミ確定ヒューマンのことなどどうでもいい。利用者たちからは学ぶことが大いにあった。
「著述というものの根源的な慎みのなさ」とマルグリット・デュラスが書き残した言葉を頭の端に置いて、要点を書くだけに留めるが、障害があっても自立し己の望む生活を維持するために心身の鍛錬を続ける方がいた。何十年も寝たきりで、しかし世界中の飢えたひとびとの幸福を日々祈る方がいた。
 やりたいこととやるべきことが一致して、それに邁進(まいしん)して毎日の暮らしが充実し、そうなるとやりたくないことをやっている健常者が、果たして幸せなのか分からなくなる。
 でも、たぶんその答えは、生命の数だけあるのだろう。
 HSP、ハイアー・センシティブ・パーソン、いわゆる繊細さん、すなわち感受性が鋭敏すぎて、木の枝の中に止まり囀る野鳥一羽を秒で発見する幼い天才がいた。天才だから生きにくいことであろう。よい導き手と出会うことを願わずにいられない。
 彼の、怯えながらも大人の庇護と愛情を求める黒い瞳を、私は死ぬまで忘れないだろうし。
 利用者たちのもつ条件に比べれば、私の条件は、比較することではないけれど、まだしも軽いように思われた。
 私は両親が避妊具を着け忘れたのか面倒くさかったのか、いわゆる恥かきっ子で、それは少なからず自己肯定感の低さにつながったけれども、そんなこととは関係なく生まれてよかったと感じたいし、がんばり次第で自分の望む暮らしを送れるかもしれない、その認識をもらった。
 目先のカネに眼がくらんだサルどもが跋扈(ばっこ)する苦界(くかい)で、私はかけがえない教えを授かったのだ。おそらく。
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