休憩

文字数 7,173文字

休憩

運転手の陳は眠くて仕方がなかった。朝、広島についてバス会社が用意した駅前の築四十年になるビジネスホテルで眠ることになっていたが、薄いコンクリートの壁は車が道路を切り付ける音を部屋に筒抜けにしたし、隣の部屋では、昼間の当り前の業務として掃除機をかけていた。干からびたカーテンも寸足らずで白い光を目いっぱい漏らしていた。八百キロ運転して、緊張感で神経はすり減って、しかし同時に高ぶり、覚醒しているので疲れ切っているのに眠れない。目を瞑って何も考えないようにしようとすると、高速道路での他人の悲惨な交通事故などの恐ろしい夢が見えてきて、眠りそうになった頭は白昼に引きずり出され、起こされる。浅い眠りが休憩知らずの心臓に負担をかける。トイレからはアンモニアの鼻を突く匂いが漏れ出して、便器に暴力的に頭を突っ込まれる想像を生み、内容が無い不快な思いだけが、夢のように頭の中で繰り返された。眠れない時間をもったいないと思いながら、苛立ち、何も出来ずにじりじりと過ごし、暗くなる頃、頭痛に苦しめられたが、あきらめて髭を剃り、眠気さましになることを期待して歯を磨いた。歯がスッキリすると、急に眠くなった。そこで三十分寝てしまい、バスの前で行先である「東京」と書かれたA4用紙を持つ仕事をしている剥げた行先男が、時間になってもやってこない陳を起こしに来た。行先男はこれを機会にと、世の中に対する勝手な不平を晴らすように、中国人である陳に対して頭を拳で殴りつけて起こした。突然の衝撃に目を覚ました陳は暗闇から覗き込む冷血な目をした行先男を見て、日本の軍国主義がまだ残っているのではないかと思い、中国に帰ることがこの先あれば、このことをみんなに言わなければならないと胸に誓った。
バスは四時間程度東へ向かった。まだまだ先は暗闇に包まれていて、終着地点まで半分も来ていない。陳の瞼は重く、濁った眼がどろどろに乾き始めていた。工程では神戸のサービスエリアで休憩を取ることになっていた。もう限界だった。サービスエリアの水銀灯の集まりが宇宙船のように真夜中の高速道路に浮かんで見えた。そのまま見過ごしそうになったが、急に休憩で停まることを思い出し、陳は急いで、減速することもなく、飛び込むようにハンドルを左に切り、その巨大な車体を傾け、サービスエリアに転がり込むようにバスを導いた。グオオオオ、うなり声を上げてバスがサービスエリアに臆することなく飛び込んだ。あみだのように引かれた駐車場の白線を無視して猛スピードで突っ込み、減速することなく、青白く照らされる売店などが入ったサービスエリアの白い四角い建物に迫っていく。陳は真っ暗な運転席で、体を硬直させて、しかし、最後の力を振り絞り、ハンドルを抱え、足を伸ばして、床を踏みつけた。とたん、バスは捻られるように蛇行し、暴れる鯨が旋回するように大きく横に揺れた後、エアブレーキの音があたりの空気を引き裂いた。
バスは何かにぶつかるように前につんのめるように大きく揺れた。タイヤがアスファルトを締め付け、摩擦は煙とゴムの焼けた臭いを辺りに振りまいた。薄暗い車内では引き裂かれる唸りが劈き、車体が歪み、空気を震わす衝撃が走ったあと、床にバラバラと携帯電話などの手持ちの荷物が落ちるが響き、手持ちのナイロン製の鞄がずり落ちる音がした。茶谷も録音したコメントに徳三の死体やら牛丼店の看板などの写真を載せている作業中で、突然バスが大きく揺れた瞬間でも瞬時にスマートフォンをしっかり掴んで肘で前席の背もたれを突いて体を支えた。茶谷は薄暗く無機的に光る手元を見て守り抜いたという自分の行動に満足した。それから迷うことなく写真を張り付けると躊躇うことなくユーチューブに音声と写真の動画をアップロードした。その瞬間、暗闇に大事に育てた小鳥を放した気になった。先は見えないが、どんどん逃げろ!黒い鳥につかまるな!望みが絶望的な自分から切り離されて、自分の一部が自由になった。残った自分は抜け殻のようだと茶谷は感じていた。
「休憩地点の神戸サビスエリアでございましゅ。トイレ休憩を八分ほど取って、出発します。早めに帰れ。」
陳は息も絶え絶えそう言うと、そのまま突っ伏して沼に沈み込むように眠ってしまった。
茶谷は無事に東京まで着けるのか不安になった。乗るまでは命も惜しくなかったが、「告白」という自分が育て逃がした鳥の行方が気になり、死ぬことに未練を感じ始めていた。もう少し生きてみたい。自分が残した結果の行方がしりたい。今までにない感情に戸惑いは隠せなかった。ひどく落ち着かない。足元に落ちた重いリュックを引き上げ背負い込むと、早足で暗いバスの通路を横切って、四角い出口から外に飛び出た。瞬間、空気が変わった。今までの篭って湿った密室の空気ではなく、いきなり真っ黒な空が開けるドアの外は、頬を冷やす乾いた空気が風通しよく流れていた。ぬるい風呂から飛び出て、窓を開けたような空気の変化を感じることが出来た。それはイメージと違って決して心地よくなく、ただ、弱者にとっては残酷な仕打ちのように感じられた。新鮮な空気は不安をたくさん含んでいて、茶谷はもう一度、バスの中に戻りたかったが、振り返ると薄暗い入り口に印象に残らない人が立っていて、出たところから元に戻ることが出来なかった。戻りたいという意思により、反射的にリュックの中身を持ち出そうと腕を伸ばしたが、背負ったリュックから中身を取り出すことは難しく、尻尾を追う犬のように半回転し、結局手を引っ込めた。その無様な姿を見られたことが恥ずかしくなって、降りてくる人の顔をじっと見ることも無くよろけた足つきで薄く緑色がかかった水銀灯に照らされた四角い建物に足を向けた。背後から法廷速度を大幅に超えたトラックが大きなタイヤで高速道路面をシャーと切り込むように薄っすら削る音が迫ってきていたが、そんな無関係な音を気が付かないフリをして、白線が擦れた誰もいないサービスエリアの乾いたアスファルトを横切った。足元を見ると四方から水銀灯によって照らされて薄い影が自分を中心に何本も出来ていた。進むたびに影は屈折し、唐突に消費され、再度生産され、屈折し・・を繰り返した。カットガラス細工のコップをゆっくり手で回すような、その陰の動きは茶谷にとって単純に面白く、自分の作り出す足元に八方に伸びる薄い影に思わず見とれてしまった。
暗闇に浮かぶ蛍光灯の明るすぎる光が溢れるトイレに入ると、微かな鼻を突く糞尿の臭いと、湿ったバラの臭いがする芳香剤が入り混じった便所特有の臭いが、床にばら撒かれていた。空気は光と臭いだけを運んで、音はなく、静まり返っていて誰もいなかった。手洗いの鏡をそっと覗いた。鏡の上の虫が飛び交う蛍光灯が茶谷の顔を明るく照らす。強い光は陰影を深く落とし、目の下に黒い縁取りを作り、ほうれい線ははっきりとカーブを描いていた。白い光は新鮮に、そして年より老けた茶谷を映した。剥げてないのがせめてもの救いになるだろう。途中下車して逃げようかという決断すべき問題に背を向けて自分の姿に集中した。ナルシズムは世界から自分を切り離してくれる。
「おい、消費者ダニー。おまえ、話からすると、もしかして東京に人殺しにいくのか?秋葉原事件の模倣犯でもするのか?」
突然の生々しい人の声と生々しい内容に、茶谷はいきなり胸に手を突っ込まれ心臓を鷲摑みされた衝撃を受けた。声によって心臓を一撃で支配され一瞬固まった。血の通わぬ首をこわばらせて、目の前の鏡をじっと見る。暗闇にぼんやりと人影が写り、その白目の部分だけが暗闇に笑う歯のように目立った。
「バスの中で眠っていたら、いや、眠っているフリをしてたんだが、お前の告白を聞いた。ダニーさん、ああいうのって恥ずかしくないのか?一方的な意見陳述、バレバレの隠し事、言い訳。だいたい爺さんぐらい葬式出してやれよ。」
バスの中という言葉で判った。茶谷は少し前でアイマスクして死にそうになって眠っていたサラリーマンだと目星をつけた。素性に見当がつくと、対応にも余裕ができる。茶谷は振り向かず、鏡にぼんやり映るサラリーマンの抜け殻に対して挑むように睨み付けた。
「おまえはバスの中で眠ってたリーマンか?リーマンはショック受けておとなしくしてればいいんだ。眠ったフリなんてしないで、生産するフリでもしとけよ。生産者に消費者のことが分かるものか。」
「いやいや、サラリーマンだって、生活しているから立派に消費者だろ?それに生産なんてしてないよ。右から左に物を流しているだけで、作っているわけじゃないからね。供給者ってところかな。どっちかというと、金もらって、何かの行き先をまとめたり、難しそうに話し合ったりして、人生の時間を消費しているだけだよ。ダニーさんと変わりゃしない。そんなに自分のことを特別視すんなよ。」
サラリーマンは長年の友人のような親しみを込めて話したが、親密な間にだけ許された、あざ笑うかのような意地悪さも備えていた。茶谷はそれを最新の地震計が地球の裏側の地震を察知するように敏感に感じた。ざわめきが迫ってくる。
「自分のことを特別視しているのは、お前の方だろ?」
言語による圧力を跳ね返そうと鏡を用意したが、所詮鏡である。虚像に威力は期待できなかった。しかし、逆効果はあった。茶谷は追い詰めるつもりが、反対に追い詰められた。自覚はあった。自分を特別視していることを。その特別視にも、なんら根拠が無いことは薄々気が付いてはいたが、これは痛いところを突かれた。苛立ちで胸が詰まってきた。吐き気がする。
「あ?「お前」とはなんだ?加藤さんって呼べ、無職のクセにいきがるなよ。爺さん死んだぐらいで取り乱して、なぜか時代の代弁者、ヒーロー気取りで人殺しに行く。無様すぎるだろ?このくそチンカス野郎。素人童貞の無菌室の坊ちゃんが生意気言うなよ。とにかく、俺が言いたいのは、人殺しすんなら無関係な何も悪くない奴を殺すな。お前が殺すべき相手は、お前と違って権力をもった連中に限る。判るか?お前みたいな無職の役立たずは、そうやって役に立つしかないんだ。正義の世界の礎となれ!捨石になるしかないんだ!経団連の偉い奴らを道ずれに地獄に落ちろ、東電に天下った官僚を一人でも多く殺せ、NHKの職員は逃がすな。そうやって人殺しに意味を付けろ。いいな?」
加藤は一段上に立って批判と命令。組織に属したことが無い茶谷は命令口調、否定的な言葉に対して免疫を持っていない。抗体がないからストレートに響く。批判に茶谷の精神は簡単に衰弱するが、それ以上に、否定を否定しようとする。過剰に反応してしまう。弱さを消すための虚勢を張る。苛立ちが増す。詰まった胸が破裂しそうに重い。
「おい、お前みてーなリーマンの指図なんか受けねーよ。俺が誰を殺そうと勝手だろ?それに無様なのはお前だろ!思い知らせてやるよ。」
心臓は激しく脈を打っていた。茶谷はポケットに手を突っ込むと体温で温もった金属凶器を掴んだ。消費者団防犯対策員の藪下からの贈り物を思い出す。片手に収まるが、一キロを少し超える。ためらいは無かった。勢いはあった。黒光りする凶器をポケットから引き出すと腕を水平まで持ち上げ、体を絞るように振り返ると真っ白な頭で、あらゆるものに抱いた積り積もった怒りに任せて引き金を引いた。右手人差し指にかかる重さはドアノブ程度にカチャリと引っかかるところまで感じたが、その一線を越えると、機械は藪下の設計どおり軽く回転し、鉄槌は下された。爆竹程度の「パン」という破裂音、弾は引っ張り出されるように、藪下の精度の高い直線の金属加工部を通って、世界に放たれる。弾丸は空気を引き裂き、次の瞬間には加藤の白いワイシャツを弾むように破き、血で染めた。加藤は衝撃で仰け反り、そのまま便所のぬれた床に叩きつけられた。ドチャ、肉が床に打ち付けられる不快な音、茶谷はそこで正気に返った。伸ばした腕は衝撃と緊張に引きつり、藪下製作の改造拳銃の重さを物干し竿のように真っ直ぐ支えていた。手のひらは痺れて開くことが出来なかった。加藤を殺した緊張に体中の酸素が一気に消費される。追いつかない心臓は砂が詰まったように重く、光る蛍光灯が白さを増して景色をぼやかす。加藤は目と口をぽっかりと開けたまま仰向けに倒れていた。薄緑色のタイル張りの濡れた床に加藤のどす黒い血がゆっくりと広がる。加藤の胸に横たわるネクタイだけが冷静に青く、印象的だった。胸の血も鮮やかさが一瞬で消えてしまい黒ずんできた。景色は霞み、このまま白く消えてくれればと思ったが、一秒一秒と時間の経過とともに、心臓は落ち着き、新しい酸素がめぐり、視界は色を取り戻していく。簡単に逃げることは出来なかった。便所の鼻を突く臭いまでもがしっかりと戻ってきた。茶谷は銃を握ったままポケットに入れて、そこで手放した。銃身が焼けて熱気を帯びてズボンの中で太ももを焦がした。ポケットから手を出すと蛍光灯に照らされた手の平をじっと見る。ずいぶん汗をかいていたみたいでラメをまぶしたようにキラキラと輝いていた。
「加藤を消費してしまった。」
茶谷は意識せず一人つぶやいた。その言葉の意味を考えようとしてみたが、文法的に変だと思った。本当は「殺してしまった。」という言葉を当てはめるべきなのだろうけど、それは出来なかった。それに消費したというのはいずれ来ることであり、避けることが出来ないことで、たまたま自分に順番が回ってしまい、事故のようにそれは起きたと捉えられるのではないかと身勝手に思ってみた。これは、世間にうまく説明する必要がある。徳三のことと同じだ。その考えが自然なように思えた。もしかしたら反消費者同盟を名乗ったタチバナも今になったらそう考えていたのかもしれないと、数時間前のすでに色あせてしまった昨日のことを思い出していた。その様子は偶然だが動画として録画してある。これをユーチューブにアップして「消費者ダニーの憂鬱」の続きとして公開しよう。そのあとに加藤の事故の顛末を告白すればいいんだ。茶谷は都合よく思いつくと、なんだか楽しくなり、浮き足立って、早く実行したくなった。加藤の死体を低いハードルのように簡単に飛び越えて便所から飛び出ると八方に伸びる影を引き連れて誰もいない駐車場を横切り、大型車用駐車場にカーテンを閉めたトラックに挟まれて並んでいる馴染みの有る赤い線の入ったバスに乗り込んだ。嘘っぽいシャンデリアがぼんやり光る車内には、すでにほかの乗客は乗っている。窓の外を眺めるオタク青年、何処にでもいそうな若者、アイマスクをした眠ったサラリーマン、野球帽をかぶったグレーの服を着た見たことある小さな老人、眠そうな水商売上がりの派手な女、体を寄せ合い眠っている貧乏そうに見える四十代母と小学生低学年女児の親子連れ。茶谷は少し違和感を覚えていたが、間違い探しの答えは見つかりそうに無かった。
「乗客皆さんそろいましたか?出発しますよ。しんこうー!」
あれほど沈みかかっていたドライバーの陳が背筋を伸ばして、しゃっきり立っていた。昔、ああいう凛々しいバスの運転手に憧れたものだと茶谷は思い出した。茶谷の母は教師をしており、子供の頃、平日の午後は一人ぼっちだった。たまに熱でも出せば、学校を休んだ母親がバスに乗せて病院に連れて行ってくれた。流れる車窓からのガラス越しの曇り空、影が無く建物の角が取れたやわらかい印象を残す町並み、深い緑色に変色した遠い山並みの景色。同じ方向を向いてくれる隣に寄り添うように座る母親をたまに目で追いながら、一目見てはひどく安心し、もう一目見ては、帰りのバスでも同じ状態を期待できることに心が弾んだ。こうやって母親とバスに乗っていると、はじめから行き先が決まっていて、頭を悩ます障害もなく、必要の無い怖い人も見えないところに避けてくれて、すべてが簡単なことのように思えた。座っているだけで、すべて解決できるような気がしたのだ。そんなとき、運転席で大きなガラス窓からずっと前まで見通して背筋を伸ばして凛々しく運転するバスの運転手にテレビに出てくる有名なプロスポーツ選手を身近で見るような畏敬の念を覚えたものだった。
ひどく懐かしい光景を思い出し、まるで終わったことをなぞっているような気がした。ずいぶん昔に見た映画をすっかり忘れて、再放送で不意に見返し、途中で自分がそれを見たことを思い出すかのような、すっかりすべてが閉じていく感覚に襲われた。それにひどい眠気が、茶谷の精神を長く放置された人口の池のように混濁させた。
茶谷は動き出すバスの中で、よろめきながら自分の席を探した。自分の席を探しながら、いったい、このバスは何処に向かっているのだろうと必死に思い出そうとしていた。もしかしたら自分のイスなどはじめから無かったのかもしれない。第一、ポケットの中にはチケットさえ無かった。板が張られた床下からディーゼルエンジンのうなる音が響く。とりあえず奥から三番目の左の席に座って、この席を予約した人がいつ来てもいいように眠らないように目を開いていた。それに眠ったら終わりそうで、夜の繁華街で空っぽの財布を持ち歩くような、ひどく心細い、恐ろしい気持ちになっていた。
「ああ、そうだ、続きをアップしなきゃ!」
茶谷は薄暗いバスの中で立ち上がり一人叫んだ。そこでバスが大きく揺れ、両肩を押さえつけられるように強制的に座らされた。なにか遣り残したような未消化な気持ち悪さを感じて、急いでスマートフォンを持ち出すと録画した動画のアップロードを始めた。
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