4.ミッちゃん、紐育へ行く
文字数 5,714文字
「やっぱり緑はいいわねぇ」
「僕も同じだよ」
ミッちゃんは愛する夫、四方正と共に紐育に来ている。
正は私立探偵、光子はその妻にして助手でもある。
紐育に来ているのは実は仕事がらみ、とあるプロ野球チームから獲得予定選手の素行調査を依頼されたのだ。
報告書の内容は……おそらくチームは別の選手を探すことになるだろう。
ともあれ仕事は終わり、遅ればせながらのハネムーンとばかりに紐育の休日を楽しんでいるのだが、元より都会派とは言えない二人、三日も経たない内に世界一の大都会の喧騒に少々疲れてしまい、今日は予定を変えてセントラルパークでのんびりしているのだ。
「あら、あの子……」
「ああ、どこから迷って来たんだろう」
樹木の根方で一匹の子犬がうずくまっている、見るとリードが木の根に引っかかってしまい動けなくなっているようだ。
「今外してやるからな」
正が根に絡んだリードをほどいてやり、光子は子犬を抱き上げた。
「飼い主さん、近くにいるかも」
光子が見る限り、子犬は汚れてもいないし弱っている様子もない、何か大きな音に驚いたりして駆け出してしまい、飼い主からはぐれたのかも知れない。
「そうだな、こんな時は無闇に動き回らない方が良いだろう、飼い主がどこかで情報を得ているかも知れないからな」
正は持っていたミネラルウォーターを手に受けて子犬に飲ませてやった。
子犬は人には慣れている様子で、ぴちゃぴちゃとおいしそうに飲んだ。
「ああ、こんな所にいたのか」
しばらく子犬と戯れながらベンチに座っていると、駆けて来る大男がいた。
(妙だな……)
正はその男が本当に飼い主なのか怪しんだ。
まず服装が妙だ、黒いスーツに革靴、そしてサングラス、セントラルパークで犬と散歩する格好ではない。
そして子犬の様子。
もしその男が飼い主ならば喜ぶはず、ところが尻込みさえしているのだ。
そして……。
「よしよし、おいで」
男が手を差し出すと、子犬はその手をガブリと噛んだ。
「痛ぇ! このクソ犬! 何をしやがる!」
その言葉を聴いて、正は子犬を抱き上げてしっかりと抱えた。
「あなたはこの子の飼い主ではありませんね?」
「いや……まだ慣れていなくてね」
「それはどうでしょう? 我々は間違いなくこの子とは初対面でしたが、人には慣れていましたよ……逆ですね、この子はあなたを知っているようだ、そして恐れている、あなたはこの子を虐待したのでは? それとも飼い主が酷い目にあわせられたのを見て逃げ出したとか、そんな風に感じますね」
そのやり取りの最中、正は手まねで光子にこの場から離れるように伝えた。
それはつまり……光子はその意図を汲んでその場をそっと離れ、公衆トイレに駆け込んでコンパクトを取り出して鏡に向って呪文を唱えた。
「テクマクマヤコン テクマクマヤコン 子犬になぁれ」
たちまち光子は虹色の光に包まれた……。
「ワン、ワワワン?」
光子は動物に変身するとその動物の言語を扱えるようになる。
人間ほど詳しい言語を持ってはいないものの、犬程度の知能があればある程度の会話はできる、人間のように本心を隠したり嘘をついたりはしないからそれでも充分なのだ。
「ワワン ワワワワワン」
子犬は光子の問いかけに答えてくれた。
やはりその男は飼い主ではなく、飼い主を殴り倒して拉致したらしい。
「ワンワン ワワン」
自分も連れて行かれそうになったが、隙を見て逃げた……と。
「ウウウウウウ……ワン!」
正には犬語は通じないが、光子は歯を見せて唸る事でこの男は悪人だと正に伝えた。
「とにかくその犬を渡してもらおう」
「いや、あなたにはこの子を渡すわけには行きませんね」
男と正は揉み合いになった。
正ならば大男を相手にしても簡単にやられてしまったりはしない、光子は素早くその場を離れ、今度はハムスターに変身して戻った。
何かあった時、その姿ならば正のポケットに潜むことができるからだ。
だが、乱闘になどなってはいなかった。
正は唇を噛んで大人しくしている、見れば大男はポケット越しに何か固いものを正に突きつけている、おそらくは拳銃……。
光子は素早く正のズボンを駆け上ってポケットに身を潜めた。
銃を突きつけられて車に押し込まれた正と子犬、そしてポケットに潜んだ光子が連れて来られたのは港の倉庫街の片隅にある、今にも崩れそうな廃倉庫。
そしてそこには先客がいた、白衣を着た三十代くらいの男。
子犬は彼を見るなり正の腕から飛び降りて、その男に駆け寄った。
彼がこの子の飼い主である事は疑いようがない、それほど子犬の様子は嬉しそうだった。
「誰だ? そいつは」
白衣の男を見張っていた、別の黒スーツが正を一瞥して言う。
「ワン公を連れていたんだ、セントラルパークで見つけて保護してただけらしいが、素直に犬を渡さねぇもんでね、銃で脅して拉致して来た」
「まあ、あそこじゃ人目もあって手荒な真似はできねぇから仕方がねぇか……とりあえずこいつと同じに縛っとけ」
「ああ」
「ワン公も連れて来たのか、首輪さえありゃそいつは用なしだろうが」
「ああ、だけどこの男がしっかり抱きかかえてるもんでね、引き剥がして捨ててくるにも人目についていけねぇと思ってよ」
「まあ、いい……ああ、そうだ、実験用に丁度良いな、首輪を外したら縄でも首に巻いて繋いどけよ」
「ああ、そうしよう」
黒スーツの二人は子犬から首輪を外し、縫い目を切り裂いて中から小さなカプセルとミニSDカードを取り出した。
「あったあった、手間ぁ取らせやがって」
「じゃあ、俺はこれを博士の所へ持って行って確認してくるぜ」
「ああ、なるたけ手短かに頼むぜ、ヤンキースの試合が始まっちまうからな」
「ああ」
一人が倉庫を出て行くと車を発信させる音が聞こえて来た、そしてもう一人は床に直接置かれたCDラジカセで小さくヒップホップ・ミュージックをかけると、銃を手にしたままリズムを取っている。
ハムスター姿の光子はそっとポケットから這い出して正の腕を縛っている縄を齧り始めた、縄は硬くて太い、齧り切るにはかなりの時間がかかりそうだ、それでも光子は必死に齧り続けた。
「どういう事なのか教えてはもらえないのかな?」
正が落ち着いた口調で言った。
「手前ぇに教えてやる義理はねぇな、隣の男にでも聞いちゃどうだい? 俺らは別に構わねぇんだ、その科学者さんにはまだ用があるかも知れねぇが、手前ぇとワン公は用済みだ、こんな所にゃ誰も寄り付きゃしねぇが銃声はちと拙いんでね、でかい声で騒ぎ立てなけりゃここをずらかる時までは生きてられるぜ、その後は保障しないがね」
正は憎憎しげに黒スーツを睨むと、白衣の男に向き直った。
「教えてもらえますか?」
「ええ……その前にボンゾが……この子の名前ですが……親切にしてもらえたようで感謝します」
そう前置きすると、白衣の男はとつとつと話し始めた。
彼の話を要約すると、彼は生き物を巨大化する薬を完成させた、それは来るべき食糧難に備えての研究だったのだが、それをかぎつけ、軍に売りつけて一儲けをたくらんだマフィアに狙われている事を知った、研究室や自室が荒らされたのだ。
危険を感じた彼は試薬と製法を収めたカードをボンゾの首輪に隠し外出を控えたが、しばらくはマフィアの動きもなかったので、つい気を許してボンゾとセントラルパークに散歩に出たところを襲われて拉致されてしまった。
マフィアは彼がそれらを肌身離さず持ち歩いているものと考えていたが、いくら探しても見つからないので手荒な尋問の末、ボンゾの首輪に隠されている事を聞き出してセントラルパークを探し回っていた……。
そして、たまたまそのボンゾを保護していたのが正と光子だったと言うわけだ。
その間も光子は懸命に縄を齧り続けていたが、ようやく半分ほどと言った所。
しばらくすると車で出かけて行った男が、年老いた白衣の男を伴って戻って来た。
「どうやらSDカードに収まってた製法は本物らしいぜ」
「うむ、思ったよりずっと簡単な原理じゃったよ、でもまあ、今まで誰もひらめかなかったんじゃからそいつは中々の天才じゃな……なあ、天才君、この薬で生物はどれくらいの大きさになる?」
「大体二倍くらいだ」
「それは体重でかな?」
「いや、サイズだ」
「ふむ……だったらその子犬は丁度良い実験動物になるな、倍のサイズになった所で体高60センチくらいじゃろう? 中型犬と言ったところじゃからな」
「そうですかい、こいつを残しておいて良かったな」
「やめろ、ボンゾにそれを注射しないでくれ」
「ひひひ、お前さんにとっちゃ特別な犬なんじゃろうが、わしらに取っちゃどこにでもいる犬ころじゃからな、お前さんのその頼みを聞いてやる義理もないんじゃよ」
年老いた白衣の男は注射器を取り出してボンゾに試薬を注射した。
「さて、見ものじゃな……おお、即効性も文句なしじゃな、どんどん大きくなるぞ……待てよ、もう三倍にはなっているぞ、おい、これはどういうことだ」
「二倍って言うのは嘘さ、本当は十倍になる」
「なんだと! いかん! 十倍になったらこいつは体高三メートルの化け物になるぞ、うわぁぁぁぁ!」
見る見るうちに大きくなったボンゾは年老いた白衣の男に飛びかかって前足で押さえつけた、サイズで十倍と言うことは体積、体重なら十の三乗で千倍、四キロほどに過ぎなかったボンゾだが、今やその体重は四トン、年老いた白衣の男はトラックに轢かれたも同然、押しつぶされてしまった。
「この化け物がぁ!」
「くたばれ!」
黒スーツの二人はそれを目の当たりにして、銃を乱射し始める。
いくら四トンになったボンゾとは言え、至近距離から撃たれれば傷つき、血も飛び散る。
「ボンゾー!」
攻撃され、野生を呼び覚まされたボンゾは飼い主の叫びも耳に入らない様子、黒スーツの二人に襲い掛かる。
その時、正の縄が噛み切られた。
正は素早く光子ハムスターをポケットに入れると、若い科学者の縄を解いて抱きつくようにして倉庫の隅へと押して行く。
「ボンゾ! やめるんだ! お前ら! ボンゾを撃つなー!」
若い科学者は取り乱してボンゾに駆け寄ろうとするが、撃たれて興奮しているボンゾに近寄れば何が起きるかわからない、正は必死で彼を抑えた。
バリッ、バキッ。
「ぐえっ……」
「ぐわっ……」
黒スーツの二人はボンゾに頭を噛み砕かれ、もう二度とヤンキースの試合を見ることはできなくなった。
そして、十数発の弾丸を至近距離から受けたボンゾもドサリと倒れこみ、飼い主に悲しげな眼差しを送り『クゥーン』と悲しげに一声鳴いた……。
「ボンゾー!」
もう正も彼を止めない、彼はボンゾに駆け寄った。
「ボンゾ、しっかりしろ! 助けてやるからな! ボンゾ、死ぬな! ボンゾー!」
若い科学者の必死の叫び……しかし、ボンゾはゆっくりと目を閉じ、息をしなくなった……。
その時、ポケットから這い出して変身を解いた光子。
しかし、正は覆いかぶさるようにして彼女の視線を遮った。
「見るな……見ちゃいけない……」
どんなことが起きたのかは想像が付く……光子は正の言葉に従って堅く目を閉じた。
「あの研究結果は封印します……」
若い科学者は海を見ながらポツリと言った。
「それが良いかも知れませんね……人間は力に変えられるものはつい悪用しようとします、少なくともそう考える人間は多勢いますからね……」
「ええ……ボンゾには可哀想な事をしてしまった……」
「いや、試薬を注射したのも撃ったのも奴ら、マフィアですから……」
「でも僕がボンゾの首輪にあんなものを隠さなければ……」
「それは仕方がないことでしょう」
「あなた方は? 旅行者ですか?」
「いえ、仕事で来て、その後休暇を楽しんでいた所でした」
「そうですか、せっかくの休暇を台無しにしてしまってすみませんでした……警察にはあなた方の事は伏せておきますから」
「いえ、こう見えても私立探偵なのです、彼女は妻ですが助手でもあります、ここで起こった事を証言しますよ、探偵として知らん振りはできません」
「そうですか……では、よろしくお願いします」
そう言って彼はSDカードを海に向って放り投げた……。
「すごい研究成果だったけど……この後どうなるのかしら」
証言を終え、正と光子は空港で搭乗開始のアナウンスを待っていた。
「薬品のことは詳しくないけど、もしかしたらボンゾの体から何か見つけるかもしれないね」
体高三メートル、体重四トンの犬を見れば、そうなった理由を解明しようとするであろうことは推測できる。
「悪用されないと良いけど」
「そうだね、そう願いたいよ」
光子の偽らざる感想に、正はそう同意した。
しかし、正はそう言いながらも考えていた……おそらくは解析が成功すれば軍事利用されてしまうだろう……。
あの科学者はそんなつもりで研究したのではないと言っていた、しかし人は力を得ればそれを悪事や軍事に利用しようとする、それは残念ながら歴史が証明している、パンドラの箱はそれと知らずに開けられてしまうものだ。
「科学者さんもボンゾも可哀想……」
そう呟く光子の優しい心根……魔法のコンパクトも拾ったのが光子でなかったら悪用されていたかも知れない、人類皆が光子のようならば凶悪事件も戦争も起こらないだろうに……正はふとそう思った。
「さぁ、帰ろう、日本へ」
「ええ」
搭乗開始のアナウンスが流れ、正は光子の手を取って立ち上がった。
登場口に向いながら正が光子の肩に手を廻すと、光子は頭を預けて来る。
正はその腕に力を込めずにはいられなかった……。
(ミッちゃん、紐育へ行く・終)
「僕も同じだよ」
ミッちゃんは愛する夫、四方正と共に紐育に来ている。
正は私立探偵、光子はその妻にして助手でもある。
紐育に来ているのは実は仕事がらみ、とあるプロ野球チームから獲得予定選手の素行調査を依頼されたのだ。
報告書の内容は……おそらくチームは別の選手を探すことになるだろう。
ともあれ仕事は終わり、遅ればせながらのハネムーンとばかりに紐育の休日を楽しんでいるのだが、元より都会派とは言えない二人、三日も経たない内に世界一の大都会の喧騒に少々疲れてしまい、今日は予定を変えてセントラルパークでのんびりしているのだ。
「あら、あの子……」
「ああ、どこから迷って来たんだろう」
樹木の根方で一匹の子犬がうずくまっている、見るとリードが木の根に引っかかってしまい動けなくなっているようだ。
「今外してやるからな」
正が根に絡んだリードをほどいてやり、光子は子犬を抱き上げた。
「飼い主さん、近くにいるかも」
光子が見る限り、子犬は汚れてもいないし弱っている様子もない、何か大きな音に驚いたりして駆け出してしまい、飼い主からはぐれたのかも知れない。
「そうだな、こんな時は無闇に動き回らない方が良いだろう、飼い主がどこかで情報を得ているかも知れないからな」
正は持っていたミネラルウォーターを手に受けて子犬に飲ませてやった。
子犬は人には慣れている様子で、ぴちゃぴちゃとおいしそうに飲んだ。
「ああ、こんな所にいたのか」
しばらく子犬と戯れながらベンチに座っていると、駆けて来る大男がいた。
(妙だな……)
正はその男が本当に飼い主なのか怪しんだ。
まず服装が妙だ、黒いスーツに革靴、そしてサングラス、セントラルパークで犬と散歩する格好ではない。
そして子犬の様子。
もしその男が飼い主ならば喜ぶはず、ところが尻込みさえしているのだ。
そして……。
「よしよし、おいで」
男が手を差し出すと、子犬はその手をガブリと噛んだ。
「痛ぇ! このクソ犬! 何をしやがる!」
その言葉を聴いて、正は子犬を抱き上げてしっかりと抱えた。
「あなたはこの子の飼い主ではありませんね?」
「いや……まだ慣れていなくてね」
「それはどうでしょう? 我々は間違いなくこの子とは初対面でしたが、人には慣れていましたよ……逆ですね、この子はあなたを知っているようだ、そして恐れている、あなたはこの子を虐待したのでは? それとも飼い主が酷い目にあわせられたのを見て逃げ出したとか、そんな風に感じますね」
そのやり取りの最中、正は手まねで光子にこの場から離れるように伝えた。
それはつまり……光子はその意図を汲んでその場をそっと離れ、公衆トイレに駆け込んでコンパクトを取り出して鏡に向って呪文を唱えた。
「テクマクマヤコン テクマクマヤコン 子犬になぁれ」
たちまち光子は虹色の光に包まれた……。
「ワン、ワワワン?」
光子は動物に変身するとその動物の言語を扱えるようになる。
人間ほど詳しい言語を持ってはいないものの、犬程度の知能があればある程度の会話はできる、人間のように本心を隠したり嘘をついたりはしないからそれでも充分なのだ。
「ワワン ワワワワワン」
子犬は光子の問いかけに答えてくれた。
やはりその男は飼い主ではなく、飼い主を殴り倒して拉致したらしい。
「ワンワン ワワン」
自分も連れて行かれそうになったが、隙を見て逃げた……と。
「ウウウウウウ……ワン!」
正には犬語は通じないが、光子は歯を見せて唸る事でこの男は悪人だと正に伝えた。
「とにかくその犬を渡してもらおう」
「いや、あなたにはこの子を渡すわけには行きませんね」
男と正は揉み合いになった。
正ならば大男を相手にしても簡単にやられてしまったりはしない、光子は素早くその場を離れ、今度はハムスターに変身して戻った。
何かあった時、その姿ならば正のポケットに潜むことができるからだ。
だが、乱闘になどなってはいなかった。
正は唇を噛んで大人しくしている、見れば大男はポケット越しに何か固いものを正に突きつけている、おそらくは拳銃……。
光子は素早く正のズボンを駆け上ってポケットに身を潜めた。
銃を突きつけられて車に押し込まれた正と子犬、そしてポケットに潜んだ光子が連れて来られたのは港の倉庫街の片隅にある、今にも崩れそうな廃倉庫。
そしてそこには先客がいた、白衣を着た三十代くらいの男。
子犬は彼を見るなり正の腕から飛び降りて、その男に駆け寄った。
彼がこの子の飼い主である事は疑いようがない、それほど子犬の様子は嬉しそうだった。
「誰だ? そいつは」
白衣の男を見張っていた、別の黒スーツが正を一瞥して言う。
「ワン公を連れていたんだ、セントラルパークで見つけて保護してただけらしいが、素直に犬を渡さねぇもんでね、銃で脅して拉致して来た」
「まあ、あそこじゃ人目もあって手荒な真似はできねぇから仕方がねぇか……とりあえずこいつと同じに縛っとけ」
「ああ」
「ワン公も連れて来たのか、首輪さえありゃそいつは用なしだろうが」
「ああ、だけどこの男がしっかり抱きかかえてるもんでね、引き剥がして捨ててくるにも人目についていけねぇと思ってよ」
「まあ、いい……ああ、そうだ、実験用に丁度良いな、首輪を外したら縄でも首に巻いて繋いどけよ」
「ああ、そうしよう」
黒スーツの二人は子犬から首輪を外し、縫い目を切り裂いて中から小さなカプセルとミニSDカードを取り出した。
「あったあった、手間ぁ取らせやがって」
「じゃあ、俺はこれを博士の所へ持って行って確認してくるぜ」
「ああ、なるたけ手短かに頼むぜ、ヤンキースの試合が始まっちまうからな」
「ああ」
一人が倉庫を出て行くと車を発信させる音が聞こえて来た、そしてもう一人は床に直接置かれたCDラジカセで小さくヒップホップ・ミュージックをかけると、銃を手にしたままリズムを取っている。
ハムスター姿の光子はそっとポケットから這い出して正の腕を縛っている縄を齧り始めた、縄は硬くて太い、齧り切るにはかなりの時間がかかりそうだ、それでも光子は必死に齧り続けた。
「どういう事なのか教えてはもらえないのかな?」
正が落ち着いた口調で言った。
「手前ぇに教えてやる義理はねぇな、隣の男にでも聞いちゃどうだい? 俺らは別に構わねぇんだ、その科学者さんにはまだ用があるかも知れねぇが、手前ぇとワン公は用済みだ、こんな所にゃ誰も寄り付きゃしねぇが銃声はちと拙いんでね、でかい声で騒ぎ立てなけりゃここをずらかる時までは生きてられるぜ、その後は保障しないがね」
正は憎憎しげに黒スーツを睨むと、白衣の男に向き直った。
「教えてもらえますか?」
「ええ……その前にボンゾが……この子の名前ですが……親切にしてもらえたようで感謝します」
そう前置きすると、白衣の男はとつとつと話し始めた。
彼の話を要約すると、彼は生き物を巨大化する薬を完成させた、それは来るべき食糧難に備えての研究だったのだが、それをかぎつけ、軍に売りつけて一儲けをたくらんだマフィアに狙われている事を知った、研究室や自室が荒らされたのだ。
危険を感じた彼は試薬と製法を収めたカードをボンゾの首輪に隠し外出を控えたが、しばらくはマフィアの動きもなかったので、つい気を許してボンゾとセントラルパークに散歩に出たところを襲われて拉致されてしまった。
マフィアは彼がそれらを肌身離さず持ち歩いているものと考えていたが、いくら探しても見つからないので手荒な尋問の末、ボンゾの首輪に隠されている事を聞き出してセントラルパークを探し回っていた……。
そして、たまたまそのボンゾを保護していたのが正と光子だったと言うわけだ。
その間も光子は懸命に縄を齧り続けていたが、ようやく半分ほどと言った所。
しばらくすると車で出かけて行った男が、年老いた白衣の男を伴って戻って来た。
「どうやらSDカードに収まってた製法は本物らしいぜ」
「うむ、思ったよりずっと簡単な原理じゃったよ、でもまあ、今まで誰もひらめかなかったんじゃからそいつは中々の天才じゃな……なあ、天才君、この薬で生物はどれくらいの大きさになる?」
「大体二倍くらいだ」
「それは体重でかな?」
「いや、サイズだ」
「ふむ……だったらその子犬は丁度良い実験動物になるな、倍のサイズになった所で体高60センチくらいじゃろう? 中型犬と言ったところじゃからな」
「そうですかい、こいつを残しておいて良かったな」
「やめろ、ボンゾにそれを注射しないでくれ」
「ひひひ、お前さんにとっちゃ特別な犬なんじゃろうが、わしらに取っちゃどこにでもいる犬ころじゃからな、お前さんのその頼みを聞いてやる義理もないんじゃよ」
年老いた白衣の男は注射器を取り出してボンゾに試薬を注射した。
「さて、見ものじゃな……おお、即効性も文句なしじゃな、どんどん大きくなるぞ……待てよ、もう三倍にはなっているぞ、おい、これはどういうことだ」
「二倍って言うのは嘘さ、本当は十倍になる」
「なんだと! いかん! 十倍になったらこいつは体高三メートルの化け物になるぞ、うわぁぁぁぁ!」
見る見るうちに大きくなったボンゾは年老いた白衣の男に飛びかかって前足で押さえつけた、サイズで十倍と言うことは体積、体重なら十の三乗で千倍、四キロほどに過ぎなかったボンゾだが、今やその体重は四トン、年老いた白衣の男はトラックに轢かれたも同然、押しつぶされてしまった。
「この化け物がぁ!」
「くたばれ!」
黒スーツの二人はそれを目の当たりにして、銃を乱射し始める。
いくら四トンになったボンゾとは言え、至近距離から撃たれれば傷つき、血も飛び散る。
「ボンゾー!」
攻撃され、野生を呼び覚まされたボンゾは飼い主の叫びも耳に入らない様子、黒スーツの二人に襲い掛かる。
その時、正の縄が噛み切られた。
正は素早く光子ハムスターをポケットに入れると、若い科学者の縄を解いて抱きつくようにして倉庫の隅へと押して行く。
「ボンゾ! やめるんだ! お前ら! ボンゾを撃つなー!」
若い科学者は取り乱してボンゾに駆け寄ろうとするが、撃たれて興奮しているボンゾに近寄れば何が起きるかわからない、正は必死で彼を抑えた。
バリッ、バキッ。
「ぐえっ……」
「ぐわっ……」
黒スーツの二人はボンゾに頭を噛み砕かれ、もう二度とヤンキースの試合を見ることはできなくなった。
そして、十数発の弾丸を至近距離から受けたボンゾもドサリと倒れこみ、飼い主に悲しげな眼差しを送り『クゥーン』と悲しげに一声鳴いた……。
「ボンゾー!」
もう正も彼を止めない、彼はボンゾに駆け寄った。
「ボンゾ、しっかりしろ! 助けてやるからな! ボンゾ、死ぬな! ボンゾー!」
若い科学者の必死の叫び……しかし、ボンゾはゆっくりと目を閉じ、息をしなくなった……。
その時、ポケットから這い出して変身を解いた光子。
しかし、正は覆いかぶさるようにして彼女の視線を遮った。
「見るな……見ちゃいけない……」
どんなことが起きたのかは想像が付く……光子は正の言葉に従って堅く目を閉じた。
「あの研究結果は封印します……」
若い科学者は海を見ながらポツリと言った。
「それが良いかも知れませんね……人間は力に変えられるものはつい悪用しようとします、少なくともそう考える人間は多勢いますからね……」
「ええ……ボンゾには可哀想な事をしてしまった……」
「いや、試薬を注射したのも撃ったのも奴ら、マフィアですから……」
「でも僕がボンゾの首輪にあんなものを隠さなければ……」
「それは仕方がないことでしょう」
「あなた方は? 旅行者ですか?」
「いえ、仕事で来て、その後休暇を楽しんでいた所でした」
「そうですか、せっかくの休暇を台無しにしてしまってすみませんでした……警察にはあなた方の事は伏せておきますから」
「いえ、こう見えても私立探偵なのです、彼女は妻ですが助手でもあります、ここで起こった事を証言しますよ、探偵として知らん振りはできません」
「そうですか……では、よろしくお願いします」
そう言って彼はSDカードを海に向って放り投げた……。
「すごい研究成果だったけど……この後どうなるのかしら」
証言を終え、正と光子は空港で搭乗開始のアナウンスを待っていた。
「薬品のことは詳しくないけど、もしかしたらボンゾの体から何か見つけるかもしれないね」
体高三メートル、体重四トンの犬を見れば、そうなった理由を解明しようとするであろうことは推測できる。
「悪用されないと良いけど」
「そうだね、そう願いたいよ」
光子の偽らざる感想に、正はそう同意した。
しかし、正はそう言いながらも考えていた……おそらくは解析が成功すれば軍事利用されてしまうだろう……。
あの科学者はそんなつもりで研究したのではないと言っていた、しかし人は力を得ればそれを悪事や軍事に利用しようとする、それは残念ながら歴史が証明している、パンドラの箱はそれと知らずに開けられてしまうものだ。
「科学者さんもボンゾも可哀想……」
そう呟く光子の優しい心根……魔法のコンパクトも拾ったのが光子でなかったら悪用されていたかも知れない、人類皆が光子のようならば凶悪事件も戦争も起こらないだろうに……正はふとそう思った。
「さぁ、帰ろう、日本へ」
「ええ」
搭乗開始のアナウンスが流れ、正は光子の手を取って立ち上がった。
登場口に向いながら正が光子の肩に手を廻すと、光子は頭を預けて来る。
正はその腕に力を込めずにはいられなかった……。
(ミッちゃん、紐育へ行く・終)