産まれたて親父

文字数 4,378文字

             【息子・親父と出逢う】

 今日親父が生まれた。息子の俺から20年遅れての生誕となった。
 
 親父には、既に守るべき家庭があり、汗を流すべき職場があるので、俺は日が暮れてから保育器から親父を抱き上げて外に連れ出した。

 まずは家に移動させる。道中、後部座席でぐずって泣き出す親父に、

「息子の前で泣くなんて情けないぞ」

 と叱咤し続けたが、泣き止む気配はなかった。

 家ではお袋が晩飯を用意して待っていた。テーブルの上手に父を座らせ、妹を部屋から呼び出し、我が家では初めて家族揃っての食事を迎えようとした。

 しかし、中々親父が料理に口を付けない。我が家の暗黙のルールとして、一番初めに食べ始めるのは親父である。親父がまだ箸を付けていないのに、他の家族が食すことは禁じられている。故に、先に産まれていた俺達は、今日まで何も口にしていない。食への興味が尽きなかった中高生の時、よくお袋に結婚するまでの人生で口にした食べ物の味について聞いたものだ。

「早く食べてよ!」

 妹が耐えきれず吠えた。成長期なのだから無理もない。

「親父、もったいぶらないでくれ。限界だ」

「あなた、食べて」

 俺とお袋も続いたが、親父は涎を垂らしながら丸い目をするばかりで箸を持とうとしない。妹が髪を掻き毟り、俺が貧乏ゆすりを初め、お袋は深い溜息をついた。
しかし少しして親父が行動した。テーブルの縁をしゃぶり始めたのである。

 これは料理を食べ始めたと認識してもいいのか?しかしテーブルは家具だ。判断を煽ごうとお袋の方を見る。するとお袋の顔から上半分だけがテーブルから覗いている。成程、テーブルになら口を付けても良いということか。

 俺は妹とアイコンタクトをすると、一心不乱にテーブルの縁をしゃぶり始めた。初めて活用された味覚は、長い眠りから急に起こされ、触れるもの全てを強烈な刺激として捉えた。これが「味」という感覚か。その快楽に俺は涙を禁じ得なかった。

 気が付くと、妹とお袋の姿がない。かがむと、二人はテーブルの縁からの流れをそのままにテーブルの脚を舐めていた。その光景は俺に、家族でテーブルのまだ乾いた部分を奪い合う未来を容易に予見させた。

 俺は即座にテーブルの上に飛び乗り、四つん這いで舐めた。料理の乗った皿を蹴散らしながら必死で舐めた。他方で、テーブルの裏側を妹とお袋が舐めているのが分かったので、舌のスピードはさらに加速した。そして予見した通り、先にテーブルの裏側を舐め終わった2人がテーブルの上に登って来て、俺たち家族は互いに押し合いながら未開拓の場所を競って舐めた。親父が泣き出していたが誰も構うものはいなかった。そうして我が家の夜は更けていった。


            【息子・親父を会社に運ぶ】

 あくる朝、俺の朝はもう出社時間だというのにいびきをかいている親父を起こすところから始まった。お袋と妹は昨日の怪我で深夜に救急車に運ばれて行った為自分が起こすしかなかった。

 俺が親父の体を揺すると、親父はまた泣き始めた。しかし働いてもらわなくては困る。お袋は専業主婦だし、俺も妹もバイトなどしたことはない。我が家がこれまで滞納した生活費、学費、習い事の月謝、旅費等を、親父には稼いでもらわなければならない。

 俺は嫌がる親父に構わず、スーツを着させる、というよりはサイズが合わなかったので被せ、鞄を持たせる、というよりは持とうとしなかったので乗せ、玄関から送り出した。  

 そして一息付くと、授業が二限目からだった為、もう一眠りすることにした。

 しかし俺の二度寝はインターホンが鳴ったことで妨げられた。ドアのガラス穴から覗くと、お隣さんが親父を抱えている。

「どうされました?」

 慌てて表に出ると、お隣さんは立腹していた。

「どうしたもこうしたもありませんよ。ほら」

 と、お隣さんが指差した先には、家の前の通学路で小学生、中学生たちが立ち止まってこちらを見ている。

「お宅のお父さんのせいでこの人だかりですよ。人様の悪口言いたくありませんがね、朝から外で大の大人が大声で泣いて、みっともない」

 ひたすら平身低頭だった。俺は自分からは一向に謝ろうとしない親父の頭を持って下げ、きっと一人では会社に行かないだろうと判断し、自分の荷物をまとめ、着替え、親父の会社に寄ってからそのまま大学に行くことにした。

 親父の会社に行くのは初めてだった為、携帯で住所を調べ、電車で向かった。満員電車でまた泣く親父に、

「連れてくの今日だけだからな」

 としきりに言った。

 会社に到着すると、親父の秘書らしき人が出迎えてくれた。そして親父を受け取り奥へと入って行った。それを見送り、俺は大学へと向かった。朝から大変な目に遭った為、既に俺はクタクタだった。


             【秘書・社長と出逢う】

 社長は1時間遅刻していらっしゃった。しかしこれまでの20数年もの大遅刻に比べれば問題ではない。御子息に連れられていらっしゃった時はご体調でも悪いのかと心配したが、どうやらそうゆうことではないそうだ。理由を聞いた時のご子息のはぐらかされる様子から家庭内の問題を察したので、深くは詮索しなかった。

 とにかく社長がご来社くださり大変安心した。管理職に目を通していただく書類、受けていただく報連相は一日だけでも山ほどある。それが20数年分溜まっているのだ。早急に取り掛かっていただかなくてはならない。

 エレベーターでの会話はなかった。収集すべき情報はいくらでもあるだろうにどうしたことだろうと、顔色を窺うと、部長は目に一杯の涙を浮かべられていた。私は心を打たれた。そしてその涙が、会社への申し訳なさによるものなのか、それとも己への悔しさなのかによるものなのが分からない自分の若輩さを少し恨んだ。

 社長は立っていられない程胸が締め付けられていらっしゃるようだったので、私が抱えて社長室にお連れした。

 会社中に社長のご来社を知らせると、直ぐに、各部署の部長が書類の束を持って社長室に入って来た。彼等の持って来た書類は天井に届く以上の高さがあったので、彼等は一様に屈みながら社長室に入って来た。

「社長、総務部からご確認いただきたい書類が56432枚ございます。お目通しを」

「社長、人事部から面談していただきたい最終選考通過学生が23211人おります。御面談を」

「社長、企画部からご確認いただきたい新製品の案が985943ございます。お目通しを」

「社長、経理部からご確認いただきたい見積書が75761枚ございます。お目通しを」

「社長、営業部からご確認いただきたい契約書が19884枚ございます。お目通しを」

 私は、社長がこれから先の膨大な仕事量にうんざりなさるかと思った。しかし部長たちは自分が抱えて来た仕事を押し付けることに、またそれぞれの家族、またそれぞれの部下の家族を養う為の生活費等の滞納を解消する為に躍起になっているようだった。私は、自分が最後の防波堤になろうと決心した。確かに彼等の気持ちは痛い程分かるが、社長にもご自身のペースというものがある。

 一言苦言を呈してやろうと、前に歩み出た時だった。社長が声を上げて笑われた。負担の余りの大きさに気が触れてしまわれたのかと思ったが、社長は手を叩きながら心から嬉しそうに笑われていた。

 今度は私が涙を流す番だった。この荒波を笑って乗り越える精神の気高さに感涙した。 そしてそれは部長たちも同じだった。それを見た時私は、彼等もまた、社長の身を案じながらも、彼等が抱えている多くの人々の為に心を鬼にしていることに気が付いた。

 社長は一言も言葉を発することなく、我々を一致団結させた。私は、一生をこの社長に捧げようと決心した。

 そして社長は、眼前の書類を笑いながら次々と破り出された。吃驚したが、やがてその 感情は感服に変わった。社長は部長等を重荷から真の意味で解放なさったのである。我々は急いでそれに続いた。課長以下も社長室に呼び、皆で書類を破いていった。次に社長がその仕事だったものをしゃぶり始められたので我々もそれに続いた。
 
             
            【息子・親父を怒る】

 10年程経った。俺も就職し、仕事にも慣れた。

 慌ただしい生活の中、煩わしくもよく実家のお袋から電話がかかって来た。「煩わしくも」というのは、その内容がほとんど親父に関することだったからである。

 お袋いわく、親父が現状に文句を言っているというのだ。

「自分では手に負えないから、お前が相談に乗ってよ」

 と、その度にお袋は半分泣いたような声で頼んで来た。俺は「忙しいから」ということを理由にずっと電話を切っていた。

 しかしある休日、急にお袋が親父を連れて俺の家にやって来た。

 相談があるというのに、親父本人は中々口を開かず、ずっとムッとした様子だった。次第に俺も苛立って来て、

「何が言いたいんだよ」

 と声を荒げた。すると親父は情けなくもメソメソと泣き出した。見かねたお袋が間に入った。

「お父さんね、何だか会社とかが嫌だって言ってるの、『何で僕の周りはこんなことになってんの?』って。だから同じサラリーマンのお前なら同じ悩みもあるだろうから、聞いてあげて。あなたも、自分の口でちゃんと言って。嫌だったら私席空けるから」

 その言葉でようやく親父は話始めたが、

「毎日会社行って、もっと遊びたいのに何で僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ。もう嫌だよこんな。中村も岡本も毎日毎日電話して来て・・・」

 と要領を得ない。だが大まかなことは分かった。その上で俺は親父の頬を思いっきり殴った。すると一層親父は声を大きくした。

「だってこの前生まれたパパなんて毎日ママと縁側に座ってボーッとしてるじゃん
。僕もああいうのがいいよ」

「おじいちゃんを引き合いに出すな。親父の問題だろ」

「なんで僕だけ・・・」

 俺はこれ以上話しても無駄だと、二人を追い返した。そして去り際にお袋に、

「時間が経てば落ち着くから」

 と言っておいた。これは大した問題ではない。

 また数年すると、予想通りお袋からの電話は少なくなり、たまにこちらの調子を尋ねる電話が来る程度になった。

 そりゃそうだろう。産まれた環境に既に家族がおり、社会的地位が揃っている人間などいない。素晴らしい境遇には文句を言わず甘んじて受け入れるべきなのだ。
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