第8話 唇

文字数 841文字

 夕食の時間にダイニングルームに下りて行くと、すでに藍は席に着いていた。ちらりとこちらに視線を向けただけで、何も言葉を発しない。
 さっきのことで、機嫌を損ねたのだろうか。翔も、黙ったまま席に着く。
 それを見計らったように、久美がテーブルに料理を並べ始めた。あまり食欲はないが。
 
 食事の間中、言葉を交わすことはなかった。藍は、翔に目もくれず、ただ黙々と目の前の料理を口に運んでいる。
 翔も、藍になんと声をかければいいのかわからず、仕方なく食べ始める。ぼんやりしていて、途中でフォークを落としてしまった。
 
 すぐに新しいフォークを持って来てくれた久美が、翔に声をかける。
「どうかなさいましたか?」
「うぅん。なんでもない」
 ただ、ゆるゆると首を横に振ることしか出来ない。藍は知らん顔をして、デザートのジュレにスプーンを入れている。
 
 
 その日の夜、藍が部屋を訪ねて来るのではないかと、ずっと待っていたのだが、いつまで経っても、藍は来なかった。自分から訪ねて行けばいいのはわかっているが、どうしても行動に移せない。
 
 自分は本当にだらしないと思う。藍のことが好きでたまらないのに、いつもじりじりしながら、藍がリードしてくれるのを、じっと待っている。
 藍の肌に触れたくてたまらないのに、藍が迫って来たとたんに及び腰になる。そのくせ、いつも藍と一つになることを、泣きたいくらい待ち焦がれているのだ。
 
 
 翌朝、寝不足のまま部屋を出ると、ちょうど藍も、廊下を階段に向かって歩いて来る途中だった。
 翔の姿を認めた藍が、いち早く声をかけて来る。
「翔、おはよう」
 翔は、思い切って言った。
「藍、昨日はごめん」

 藍が微笑む。
「馬鹿ね」
 そして、片手で翔の腕をつかむと、伸び上がって、翔の頬に唇を当てた。藍はすぐに離れ、ふわりと甘い香りが残る。
 藍は許してくれた。そう思っただけで、ほっとして、鼻の奥がつんとする。
 すたすたと前を行く藍の後に続く。制服のスカートの裾からのぞく、膝の後ろの白さがまぶしい。
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