第2話
文字数 2,911文字
フルムーンの扉は手動の押引式になっている。中年男性がその扉を開けようと手にかけたとき、扉がものすごい勢いで開かれ――そして、ぶつかった。豪快にだ。中年男性は仰向けで倒れ、顔を押さえたままうめいている。開かれた扉からは、背の高い二人の男性が入ってきた。
「危ないね、急に飛び出そうとするなんて」
先に店へ入ってきた人物は、ゆったりとした口調で注意を口にする。
「そうですね。道路であれば取り返しがつかないところです」
もう一人は、穏やかな口調でそれを肯定した。
「扉は塞ぐもんじゃない、奥にお戻りよ」
床でうめいている中年男性へ迷惑そうに言うと、後ろにいた、より背の高いスリーピースのスーツを着た男が前に出る。
「大丈夫ですか?手を貸しましょう」
スリーピースを着た男は痛みで声も出ない中年男性を起こすと、労るように背中に手を添える。そしてプリンセスをエスコートする童話のプリンスように手を取り、店の奥へと誘導した。ボクは扉近くに立ったままの、ゆったりとした口調の男性へ近づき声をかける。
「若宮さん、何してるんですか?」
「調査だよ」
若宮さんはボクの姿を見ても驚くことなく答え、店の奥へと向かう。その後頭部には寝癖が付いていた。
若宮さんは依頼人から高額な依頼料を受け取り、独特なやり方で依頼を解決する「目明し堂」を営んでいる。ボクは数日前「依頼の調査があるなら、手伝いますよ」と申し出たのに「仕上げに入っているから、もう終わる」と、断られたのだ。それなのに若宮さんは知らない男を引き連れ、調査中だという。一体どういうことだと不満に思いながらも、ボクは若宮さんのあとへ付いていく。中年男性は椅子に座らされ、店のロゴの入ったタオルで顔を押さえていた。タオルは赤色に染まっている。
「鼻と歯が折れてます」
スリーピースの男は口に優しげな微笑みをたたえたまま、少しだけ眉を下げ困った顔をした。若宮さんは小さくうなずくと、スリーピースの男が用意した椅子へ優雅に腰を下ろす。人嫌いの若宮さんへの配慮だろう、椅子は中年男性の真正面を少しだけさけ、斜め前に置かれていた。距離も少しだけ離し気味だ。こんなことまでできるなんて、この男は何者なんだとボクは訝しがる。椅子に座った若宮さんは両指を組み合わせると、親指だけ付けたり離したりしながら、そっと口を開いた。
「女性の領域に入りたくて仕方ないんだって?」
若宮さんはとても雰囲気のある人なので、話しかけられた中年男性は少し狼狽えた。
「いやっ……あのっ……」
「大きな声だから、店の外まで聞こえたよ」
「すっ……すみま……せん」
責められたわけでもないのに、中年男性は謝罪の言葉を口にする。
「女性なら、わかるはずだけどね」
若宮さんの声が静かに響く。
「男の体で女性の領域へ入るということが……相手にどれほどの恐怖を与えることになるのか――女性なら理解しなきゃいけない」
中年男性は緊張のためか痛みのせいか、うつむいたまま小刻みに震え始める。
「女性は男が恐ろしいんじゃない、男の腕力が恐ろしいんだ。生まれつきそなわっているその腕力と、性暴力をふるうことのできる要素に怯えるている。けして心の性を否定しているわけじゃない」
若宮さんは穏やかな声で中年男性へ声をかけた。
「心は女性なんだろ?信じるよ、僕は」
中年男性はその言葉に顔を上げ、若宮さんを見る。しかし、若宮さんは最初からずっと自分の手元を見て話をしていたので、目が合うことはない。
ふと中年男性の後ろへ目をやると、女性店員がスリーピースの男へ耳打ちをしているのが見えた。スリーピースの男は「ありがとうございます」と、女性店員へお礼を言い、今度は若宮さんへ声をかける。
「若宮さん、あったそうです」
中年男性はびくりと体を震わせたが、それを聞いた若宮さんは愉快そうに口元に笑みを浮かべ、両手を合わせてぽんと小さな音を立てる。
「残念だな、信じていたのに」
店内は今だ静まりかえっている。何があって、何を信じていたのかまったくわからないが、中年男性の顔色は悪くなり、額には汗が浮き始めた。ボクはショック症状の可能性を考え、中年男性へ近づこうとしたその時――扉が開かれる音がした。振り向くとそこには帽子をかぶり紺色の制服を身につけた人物が立っている。警察官だ。
「失礼します、通報をされたのはこちらで間違いないでしょうか?」
その一言で大人しかった中年男は再度暴れ、逃げようと試みる。想定内の反応だったのだろう、スリーピースの男は簡単に中年男性を床へ押しつけ身動きを封じ、扉付近にいた警察官へ手錠をかけるよう指示をした。
「盗撮犯だ」
若宮さんは座ったままボクを見上げ、床に押さえつけられ、手錠をかけられた中年男性を指さす。
「心の性別というのは自己申告制だから、他人は信じるほかない。目に見える物ではないからね。それを悪用するというのは……悪用した人物以外、すべての人間を傷つけることになる」
ボクは多様性の問題だと思っていたが、ただの犯罪者だったということか。
中年男性は両腕を警察官に捕まれ、よろめきながら立ち上がる。鼻や口からは、今だ血が流れていた。スリーピースの男は「女性であるあなたが、女性たちを怯えさせるのは感心しませんね」と中年男性へ微笑んだまま伝え、「女性であっても『盗撮』は犯罪だ」と若宮さんが付け加える。中年男性はうつむいたまま何も答えることなく、連行されて行った。
「自己主張も大切だけど、お互いが相手に思いやりを持つのが一番平和的だと思うよ、僕は。流血沙汰なんて、見るだけでも不愉快だ」
若宮さんは床に落ちた血を見ないように、不快そうな顔で言う。ボクは聞きたいことが色々あったが、とりあえず一番気になることを聞くことにした。
「あの人誰ですか」
スリーピースの男を指さし、そう尋ねると…………なぜか笑われた。若宮さんは少し驚いたような顔をしたあと、笑ったのだ。スリーピースの男は警察官たちへの指示が終わったのか、こちらへ向かってくる。そして若宮さんへ尋ねたはずなのに、若宮さんより背は高いが、ボクよりも背の低い男は自分から「黒田です」と名乗ってきた。どうやら警察らしい。
「若宮さんに捜査のことで相談に乗って貰っていたんです。そうしたら、たまたま騒動が見えたので寄らせて貰いました」
黒田は穏やかな声で、微笑みながら説明した。
「捜査って……警察が一般人に捜査の機密をもらすなんて、守秘義務違反になるんじゃないんですか」
ボクが真面目に言うと若宮さんは、さらに笑い出した。黒田も困った顔はしていたが口元は微笑んだまま「すみません、気をつけます」とボクへ頭を下げる。
「世羅くん。君、ここへは一人で来たんじゃないだろ?席に戻った方がいい」
若宮さんは明らかに黒田へ助け船を出した。ボクがムッとしていると、黒田が若宮さんを送ると言い出したので「ボクが送ります、一緒に住んでますので!」と断り、ボクは彼女が待つ席へ向かい事情を説明した。彼女へタクシー代を渡し会計を済ませると、若宮さんを連れ黒田の横を通り抜け店を出た……が、結局若宮さんは笑いっぱなしだった。
「危ないね、急に飛び出そうとするなんて」
先に店へ入ってきた人物は、ゆったりとした口調で注意を口にする。
「そうですね。道路であれば取り返しがつかないところです」
もう一人は、穏やかな口調でそれを肯定した。
「扉は塞ぐもんじゃない、奥にお戻りよ」
床でうめいている中年男性へ迷惑そうに言うと、後ろにいた、より背の高いスリーピースのスーツを着た男が前に出る。
「大丈夫ですか?手を貸しましょう」
スリーピースを着た男は痛みで声も出ない中年男性を起こすと、労るように背中に手を添える。そしてプリンセスをエスコートする童話のプリンスように手を取り、店の奥へと誘導した。ボクは扉近くに立ったままの、ゆったりとした口調の男性へ近づき声をかける。
「若宮さん、何してるんですか?」
「調査だよ」
若宮さんはボクの姿を見ても驚くことなく答え、店の奥へと向かう。その後頭部には寝癖が付いていた。
若宮さんは依頼人から高額な依頼料を受け取り、独特なやり方で依頼を解決する「目明し堂」を営んでいる。ボクは数日前「依頼の調査があるなら、手伝いますよ」と申し出たのに「仕上げに入っているから、もう終わる」と、断られたのだ。それなのに若宮さんは知らない男を引き連れ、調査中だという。一体どういうことだと不満に思いながらも、ボクは若宮さんのあとへ付いていく。中年男性は椅子に座らされ、店のロゴの入ったタオルで顔を押さえていた。タオルは赤色に染まっている。
「鼻と歯が折れてます」
スリーピースの男は口に優しげな微笑みをたたえたまま、少しだけ眉を下げ困った顔をした。若宮さんは小さくうなずくと、スリーピースの男が用意した椅子へ優雅に腰を下ろす。人嫌いの若宮さんへの配慮だろう、椅子は中年男性の真正面を少しだけさけ、斜め前に置かれていた。距離も少しだけ離し気味だ。こんなことまでできるなんて、この男は何者なんだとボクは訝しがる。椅子に座った若宮さんは両指を組み合わせると、親指だけ付けたり離したりしながら、そっと口を開いた。
「女性の領域に入りたくて仕方ないんだって?」
若宮さんはとても雰囲気のある人なので、話しかけられた中年男性は少し狼狽えた。
「いやっ……あのっ……」
「大きな声だから、店の外まで聞こえたよ」
「すっ……すみま……せん」
責められたわけでもないのに、中年男性は謝罪の言葉を口にする。
「女性なら、わかるはずだけどね」
若宮さんの声が静かに響く。
「男の体で女性の領域へ入るということが……相手にどれほどの恐怖を与えることになるのか――女性なら理解しなきゃいけない」
中年男性は緊張のためか痛みのせいか、うつむいたまま小刻みに震え始める。
「女性は男が恐ろしいんじゃない、男の腕力が恐ろしいんだ。生まれつきそなわっているその腕力と、性暴力をふるうことのできる要素に怯えるている。けして心の性を否定しているわけじゃない」
若宮さんは穏やかな声で中年男性へ声をかけた。
「心は女性なんだろ?信じるよ、僕は」
中年男性はその言葉に顔を上げ、若宮さんを見る。しかし、若宮さんは最初からずっと自分の手元を見て話をしていたので、目が合うことはない。
ふと中年男性の後ろへ目をやると、女性店員がスリーピースの男へ耳打ちをしているのが見えた。スリーピースの男は「ありがとうございます」と、女性店員へお礼を言い、今度は若宮さんへ声をかける。
「若宮さん、あったそうです」
中年男性はびくりと体を震わせたが、それを聞いた若宮さんは愉快そうに口元に笑みを浮かべ、両手を合わせてぽんと小さな音を立てる。
「残念だな、信じていたのに」
店内は今だ静まりかえっている。何があって、何を信じていたのかまったくわからないが、中年男性の顔色は悪くなり、額には汗が浮き始めた。ボクはショック症状の可能性を考え、中年男性へ近づこうとしたその時――扉が開かれる音がした。振り向くとそこには帽子をかぶり紺色の制服を身につけた人物が立っている。警察官だ。
「失礼します、通報をされたのはこちらで間違いないでしょうか?」
その一言で大人しかった中年男は再度暴れ、逃げようと試みる。想定内の反応だったのだろう、スリーピースの男は簡単に中年男性を床へ押しつけ身動きを封じ、扉付近にいた警察官へ手錠をかけるよう指示をした。
「盗撮犯だ」
若宮さんは座ったままボクを見上げ、床に押さえつけられ、手錠をかけられた中年男性を指さす。
「心の性別というのは自己申告制だから、他人は信じるほかない。目に見える物ではないからね。それを悪用するというのは……悪用した人物以外、すべての人間を傷つけることになる」
ボクは多様性の問題だと思っていたが、ただの犯罪者だったということか。
中年男性は両腕を警察官に捕まれ、よろめきながら立ち上がる。鼻や口からは、今だ血が流れていた。スリーピースの男は「女性であるあなたが、女性たちを怯えさせるのは感心しませんね」と中年男性へ微笑んだまま伝え、「女性であっても『盗撮』は犯罪だ」と若宮さんが付け加える。中年男性はうつむいたまま何も答えることなく、連行されて行った。
「自己主張も大切だけど、お互いが相手に思いやりを持つのが一番平和的だと思うよ、僕は。流血沙汰なんて、見るだけでも不愉快だ」
若宮さんは床に落ちた血を見ないように、不快そうな顔で言う。ボクは聞きたいことが色々あったが、とりあえず一番気になることを聞くことにした。
「あの人誰ですか」
スリーピースの男を指さし、そう尋ねると…………なぜか笑われた。若宮さんは少し驚いたような顔をしたあと、笑ったのだ。スリーピースの男は警察官たちへの指示が終わったのか、こちらへ向かってくる。そして若宮さんへ尋ねたはずなのに、若宮さんより背は高いが、ボクよりも背の低い男は自分から「黒田です」と名乗ってきた。どうやら警察らしい。
「若宮さんに捜査のことで相談に乗って貰っていたんです。そうしたら、たまたま騒動が見えたので寄らせて貰いました」
黒田は穏やかな声で、微笑みながら説明した。
「捜査って……警察が一般人に捜査の機密をもらすなんて、守秘義務違反になるんじゃないんですか」
ボクが真面目に言うと若宮さんは、さらに笑い出した。黒田も困った顔はしていたが口元は微笑んだまま「すみません、気をつけます」とボクへ頭を下げる。
「世羅くん。君、ここへは一人で来たんじゃないだろ?席に戻った方がいい」
若宮さんは明らかに黒田へ助け船を出した。ボクがムッとしていると、黒田が若宮さんを送ると言い出したので「ボクが送ります、一緒に住んでますので!」と断り、ボクは彼女が待つ席へ向かい事情を説明した。彼女へタクシー代を渡し会計を済ませると、若宮さんを連れ黒田の横を通り抜け店を出た……が、結局若宮さんは笑いっぱなしだった。
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