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忍谷夕吉VS森重義生① 「チェス」

エピソードの総文字数=3,266文字

チェスですか。それは良いゲームですね。なぜならば、私の最も得意とするところだからです。
しかし、申し訳ないのですが、普通に私とチェスをプレイするわけではありません。それでは私が負けることは目に見えていますからね。私はボードゲームは嗜む程度で、源くんのようにその実力で飯が食えるほどではありません。ゲームにチェスを指定しましたが、忍谷さんの勝利条件はまったく異なったものになります。
変則的なルールを導入するということですか。
そうなりますね。というよりも、そもそも互いの勝利条件をまったく別のところに設定します。具体的なルールを説明しましょう。私のみコンプレックスを使用した上で、ゲームをプレイします。そして忍谷さんには私のコンプレックスの正体を見破ってもらいます。チェスの勝敗は勝利条件に含まれません。なので、勝つように動いても、負けるように動いても、お好きなように駒を動かしてください。ゲームは二度行います。そして1ゲームごとに忍谷さんに回答権を与えます。
なるほど。チェスはあくまで、森重さんのコンプレックスを探る手段に過ぎないと。しかしせっかくの提案ですが、コンプレックスの種類は人の数よりも多くある。ただ一つのコンプレックスを正確に言い当てることは不可能かと思いますが。
ご安心ください。これはあくまで、忍谷さんの実力を確認するためのゲームです。こちらも、「このレベルの洞察力を持つ人間ならば、スパイであることを承知の上で、身内に置いても良い」という程度で情報を出します。回答についても、不正確でも、非常に近いものならば、私の判断で正解とします。
わかりました。森重さんの提案したルールでプレイします。ところで、ここにいる人間にコンプレックスを見せてしまっても良いのでしょうか?
 忍谷はさっそく情報を引きずり出すために、質問をした。
かまいません。私のコンプレックスは知られていることにより、抑止力にもなるものですから。
 森重の方も忍谷の誘いに乗り、情報を一つ出した。
 甲板がガラスでできたテーブルの上にチェス盤と一揃いの駒が用意された。
私のコンプレックスの名前とシンボルを教えます。名前は『ミリオンダラー・ベイビー』。シンボルはこのとおり、チェスのポーンです。
 森重はシンボルの黒のポーンを具現化すると、テーブルの隅に置いた。
 ソファには忍谷と森重だけが座っていた。ゲームの邪魔にならぬよう、源ですら立ち上がり、二色の隣に控えた。凪子と散歩が忍谷の後ろに立つ形になった。
先手と後手、どちらが良いですか? 忍谷さんがお決めください。
それでは1ゲーム目は先手をもらいましょうか。
 忍谷は白の駒を並べた。
 チェスは言わずと知れた完全情報ゲームである。仮にプレイヤーがその時点で公開されている情報による最善手を打つことができるのならば、勝敗はゲームが始まる前から決する。つまり、運要素が排除されているということである。チェスはそのルール上、二人のプレイヤーが最善手を打ち続けるならば、先手が勝つ。だから忍谷が先手を取ったということは、1ゲーム目は勝つように駒を動かすという意味になる。
 忍谷はチェスにおいて最善手を打ち続けるだけの判断能力と経験がある。森重本人が言った通り、まともにプレイをしたら、森重に勝ち目はない。
 それゆえに「自分のコンプレックスを見破る」という特殊な勝利条件を設定したのだ。
 1ゲーム目が始まった。
 忍谷は当然、チェスの定石で発見されているものならばすべて把握している。1ゲーム目は通例のチェスのように戦略、戦術ともにアドバンテージを得られるような動きを取った。
 忍谷は五手で本人の言う通り、森重がチェスプレイヤーとして趣味人よりも上の実力は持っていないことを見抜いた。
 相手にプレッシャーを与えるため、忍谷は自分の手番はノータイムで駒を動かした。一方で森重の方は長考に入ることがたびたびあったが、それでも悪手を打つことがあった。
 この場にいる誰もが予想していたとおり、ゲームは忍谷が圧倒的なアドバンテージを取る形で進んでいった。
 勝負の進行は早く、プロ同士の対決ならば、まだ序盤と言える段階で森重の逆転は不可能、という盤面にまでなった。
 もっとも盤面を一目見ただけで、その事実を悟ることができたのは、忍谷、源、散歩の三人だけだったが。
 しかし、これは忍谷のゲームの実力を測るものではなく、その洞察力を測るものである。無論、このままゲームが進み、チェスでは忍谷が勝つ、という流れにはならない。
 森重はすでに盤面がひっくり返せなくなったタイミングで『ミリオンダラー・ベイビー』を発動した。
 忍谷はビショップを動かし、チェックを宣言した。当然、それが最善手であり、次の手番でダブルチェック、さらに次の手番でチェックメイトとなる。これが最善手、そのはずだった。
 森重はこの盤面でナイトを動かし、チェックを解消した。しかし次に忍谷もナイトを動かせば、再びチェック、それもダブルチェックが掛かる。
 ところが実際にはそうならなかった。
 チェックは掛かったが、ダブルチェックにはならなかった。つまり忍谷はこの手番か、一手前の手番で打ち間違えたのだ。
 そして何よりも問題は、忍谷は打ち間違えた事実に気がつくことができていなかった。
 ビショップとナイトによるダブルチェック、それが達成できなかったタイミングになって初めて、忍谷は自分が打ち間違えたことを知ったのだ。
 忍谷は無論、自分のミスだとは考えない。『ミリオンダラー・ベイビー』によって、打ち間違えさせられたのだ。
 忍谷はその表情をまったく変えなかった。そしてチェスのプレイと並行して、『ミリオンダラー・ベイビー』の能力について考えを巡らせたが、手痛いのは、「どの時点」でコンプレックスが発動したのかわからないことだった。
 戦況から察するに、ビショップ、もしくはナイトのどちらかの手を間違えたことは確かである。しかし、そのどちらかを確定させる情報が不足していた。
 チェスにおいて、一手のミスは致命的である。忍谷はダブルチェックを掛け損じたことによって、さらに追い打ちでチェックを掛けられる状況ではなくなった。
 それどころか、相手にクイーンを自陣に深く切り込まれる形で苦境に追い詰められた。
 忍谷の圧倒的なアドバンテージは一手のミスにより、一瞬で消し飛んだ。
 忍谷は防戦に回ったが、勝負が決した、とはまだ言い難かった。森重が手練の打ち手でないことを考えると、再び攻勢に出ることは十分に考えられる。
 森重はクイーンを動かしチェックを掛けた。しかしそれはキングを位置を動かすための牽制にすぎない。そのはずだった。
 忍谷はキングを移動することによって、チェックを外した。次の手、森重はビショップを相手の陣地に切り込んだ。そして白のキングとクイーンに対するディスカバード・チェックとなった。
 チェスのルールを齧ったことのある人間なら誰でも、キングとクイーンをどちらも押さえられることが致命的であることはすぐに理解できる。
 キングとクイーンのディスカバード・チェックはチェスの局面の中でも、もっとも避けなければならないものである。この局面に持ち込まれた場合、そこからの逆転は事実上、不可能である。
 だが、アマチュアレベルの森重が相手にもかかわらず、忍谷はその局面に追い詰められたのだ!
 チェックを外す段階で、忍谷がキングの逃がし方を誤ったことは間違いなかった。これで忍谷ほどの人間がチェスにおいて二度も指し間違えたのだ。通常のチェス勝負ならば、このようなことはあり得ない。
 忍谷はクイーンを切り捨て、キングを逃がした。しかし、ここから忍谷が勝つ手筋のないことは明らかだった。
 実際、さらに二手進むと、1ゲーム目は終わった。忍谷はビショップとクイーンにより、ダブルチェックを掛けられ、チェックメイトとなった。相手がコンプレックスを使っているとはいえ、忍谷がチェスで負けたのは生まれて初めてだった。

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