第1章 借金取りは笑わない

文字数 5,145文字

 たそがれ時。昼のなごりを残した藍色の空に、燃え上がるような橙色に輝くぼってりした雲が、いくつも漂っている。眼下の街並みは鮮やかな闇に呑まれていく。


 北緯五十度帯(フィフティース・パラレル・ベルト)随一の大都市ノーヴィキエフ。

 惑星温暖化で低緯度地域に人が住めなくなった今、数世紀前までタイガと呼ばれていたこの土地が文明の中心地となった。


 理想(アイディール)もイデオロギーもくそみそになった、混沌と爛熟に満ちた最果ての地(ハイ・ラティテューズ)。迫りくる終末の予感に怯える人類に残された最後の遊び場。


 ひりひりするような熱気と興奮が電流のように行き交う街の上空を、無数の浮遊広告が、
 ――人生は一度きりです。楽しみましょう、今を。
と連呼しながら流れていく。


 そんな時間帯になって、俺の相棒は、ようやく活動を開始する。


「よぉ、マルク。二十九階のアンドレイんちで今夜パーティがあるんだが。おまえも行くか?」


 奥の寝室からのそのそと起き出してきた大男を振り返り、俺は声をかけた。

 俺の仕事上の相棒にして同居人でもあるマルク・ヴォインは、殺風景な部屋の中央近くまで来ると、開ききらない目を手の甲でこすりながら、黙って首を横に振った。


 寝起きで、金髪がぐしゃぐしゃにもつれ合っていて、目やにまでついている状態でも、こいつは美男子だ――いまいましいが認めざるを得ない。鼻筋の通った端正な顔と、ボディビルダーが裸足で逃げ出す筋骨隆々たる巨体は、文明黎明期の神話に出てくる太陽神を思わせる。


 形の良い唇が開き、深みのあるバリトンが発せられた。


「腹減った」


 俺は警戒しながらうなずく。


「ああ、そうだろうな」

「『食事』させろ、ヴァレンチン。……おまえが夜遊びに行く前に」


 不意に大きく開かれたマルクの瞳が青白く発光した、ように見えた。

 バンパイア・ウィルスの感染者が持つ、厄介な能力の一つだ。捕食モードに入ったバンパイアに魅入られると被食者は動きがとれなくなる。被食者ってのはこの場合、俺のことだが。


 俺は逆らうこともできず、マルクにソファに押し倒された。首筋の皮膚に牙が食いこむ感触に顔をしかめたが、すぐに意識が朦朧として痛みも気にならなくなる。背骨だけが体をつき抜けて地中へ沈んでいくみたいな強烈な脱力感。

 数えきれないほど繰り返されたプロセスなので、「血を吸われること」自体には慣れているが、この脱力感だけはいつまで経っても平気になれない。


 ――どれだけ意識が飛んでいたのかはわからない。数秒か、あるいは一分近くか。はっと我に返ると、マルクの唇がやわらかく俺の唇に重なっていた。


「おいっ、てめえ、こらっ! そういうのやめろっていつも言ってんだろうがっ!」
「ああ、すまない。血の味がしたか?」
「そういうことを言ってるんじゃねえよ」

「……」


 マルクは鮮血に濡れた舌をぺろりと出し、微笑む。悪びれている様子はない。


 こいつは、俺が抵抗できないことをわかっている。

 バンパイアに血を吸われた人間はその後十分間ほど、脱力と倦怠で動けない状態になる。その間、こいつは俺に、したい放題できるわけだ。


 何年か前、マルクが調子に乗って、最後までやろうとしやがったことがあったので、「そんなことをしたら俺はおまえの血液提供者(ドナー)をやめる。おまえの前から姿を消して、二度と見つからない所まで逃げる」と宣言してやったら、それからは奴も少し遠慮するようになった。


 マルクにとっては、ドナーである俺を失うことが最大の恐怖だ。奴はバンパイア化してから俺以外の人間の血液を知らないし、俺の血で最大のパワーを出せるようにチューンアップされている。


 けれども、見るからに賢そうに引きしまった顔立ちと裏腹に、おつむの中身は五歳児レベルの残念系美男子のマルクは、自分の欲望を抑えられるような奴じゃない。毎日のように、こうしてちょっかいをかけてくる。俺がどこまでなら許すかを測っていやがるんだ。阿呆のくせに。


 マルクが再び、そっと俺にキスをした。飛び出したままになってる牙が俺に刺さらないよう、気を遣っている様子が伝わってくる。


 身動きとれない俺は、なされるがままに受け入れる。

 不本意だがマルクにキスされるのには、実はもう慣れている。俺がこれまで生きてきた二十一年間で女とキスをした回数よりも、マルクに押し倒されてキスされた回数の方が多いだろう。それを認めるのは男の沽券にかかわるので、毎回いちおう抗議することにしているが。


 マルクの指先が俺の体の上をすべるにつれて、くすぐったいような、ぞくぞくする感覚が広がっていく。


 その時。他に誰もいないはずの室内で、いきなり陽気な男の声が響きわたった。


「やあ! あいかわらず仲良しだな、君らは!」


 マルクがさすがに吸血鬼らしい超反応を見せた。俺の上から飛び降り、リビングの片隅に立つ白衣姿の男めがけて蹴りを放つまでの動作は、目で追えないほどすばやかった。

 威力といい狙いといい、男の頸椎を砕くのに十分な蹴りだ。


 しかしマルクの足はむなしく空を切った。ザップ音と共に白衣の男の姿は一瞬揺らいだが、すぐに元の姿を取り戻した。男は細長い顔にへらへらした笑いを張りつけていた。


 皮つき骸骨みたいにやせこけた体躯、ぼさぼさの赤毛、秀でた額と大きな鷲鼻が特徴的なこの初老の男は、国立生体工学研究所 (NBI)ゼウスプロジェクトの研究主任、ロジオン・リュボフ博士。厳密に言うと、部屋の天井近くを飛行するミクロドローンから投影されているリュボフ博士の立体映像だ。

 博士は俺たちのNBIに対する感情をよく承知している。俺たちの前に直接顔を出すだけの度胸はないだろう。


「勝手に人んちに入ってくんじゃねぇ、このイカレ出歯亀変態マッドサイエンティストが!」


 ソファに横たわったまま俺は怒鳴った。まだ力が入らないので、たいして大声は出せないのだが、そこは殺気と口汚さでカバーだ。

 リュボフ博士はこたえた様子も見せなかった。あいかわらず、わざとらしい陽気な態度で、


「つれないこと言うんじゃないよ、ヴァレンチン。君たちのこの愛の巣の家賃を払ってるのはNBIだ、忘れたわけじゃないだろう? 中へ入れてもらう権利ぐらいあるはずだ」
「あ、愛の巣とか言うんじゃねえ~~~っ!」
「照れなくてもいいさ。バンパイアが血液提供者(ドナー)に対して強い愛着を持つことはデータからも立証されている。君らは特に、ゲノム面での適合率は最高だしね」
「あいにくドナーの方はそれほどバンパイアに愛着持ってねえんだよ、この腐れ脳軟化エロ妄想ジジイ!」

「そうは言っても、君たちはもはや運命共同体だ」


 博士は芝居がかった仕草で両手のひらを上へ向け、肩をすくめてみせた。


「君たち二人はフェオドラ&ダステイン損害保険会社に対して多額の連帯債務を負っている。こないだマルクが州立美術館で暴れて展示品を壊したので、その損害額が加算され、債務はさらに大きくなるだろう」

「ぐっ……!」


 相手の言葉は俺にクリティカルダメージを与えた。ふだん俺がなるべく考えないように努めている現在の危機的状況を、博士は情け容赦なくえぐり出したのだ。

 リュボフ博士は俺の動揺を楽しんでいる様子を隠そうともしなかった。面長の顔に余裕の笑みを浮かべ、追撃弾を放ってきた。


「それに、州立美術館での器物損壊と傷害罪で逮捕された君たちの保釈手続をとってやったのは誰だと思ってるんだい? 我々が保釈金を払わなきゃ、君らは今頃まだ留置場暮らしだったんだよ? 感謝してほしいとは言わないが……少なくとも、悪態を投げつけるのはやめてくれてもいいはずだ」


 俺はとうとう瞳を閉じた。現実をシャットアウトしようとして。


 ――四年前にNBIを飛び出したマルクと俺は、このノーヴィキエフ市の片隅で『何でも屋』を開業した。金さえもらえば何でもやってのける、昔ながらのいかがわしい稼業だ。頭が悪くて社会性にも乏しい暴力王マルクでもやれそうな仕事が他になかった、というのが理由である。


 俺たちは合法(セーフ)違法(アウト)の狭間に張られたタイトロープをきわどく渡り続けた。だが幸いにもこの四年間、おおむねセーフサイドにとどまっていた。俺たちに持ちこまれる仕事は護衛や警備が多かった。「人を守る」、「人の財産を守る」という仕事は、良心を汚さずにこなせる仕事だった。


 だが、普通の人間をはるかに上回るバンパイアの怪力を制御しきれないマルクは、しばしばトラブルを引き起こした。
 護衛を依頼されれば、依頼人を守ろうとして大暴れしたあげく建物や器物を破壊する。

 受け取る報酬額より、払わなければならない弁償額の方が大きい、という悲惨な事態に何度も陥った。


 先週の州立美術館の一件もそうだ。警護スタッフとして雇われた俺たちの前に、美術品泥棒が現れたのだ。それは盗賊一味にとって不幸な遭遇だった――美術館にとっても、俺たちにとっても。


 マルクは立ち回りの末、泥棒を一人残らず取り押さえた。その過程で、室内にあった貴重な美術品をことごとく破壊した。おまけに、他の警備スタッフを盗賊の一味と間違えてぶん殴り、重傷を負わせた。


 引き裂かれた絵画、粉々に砕かれた彫刻を見て、美術館の館長はショックのあまり卒倒した。
 そして俺たちは、俺たちが取り押さえた盗人どもと一緒に、警察に連行されたのだ。器物損壊と傷害罪の現行犯で。


「州立美術館や、君らに物を壊されたその他の被害者たちに対して、保険会社が保険金を支払った。その結果、保険会社は君らに対する損害賠償請求権を代位取得している。こないだ保険会社からこちらに連絡があったんだけどね。とんでもない金額だよ。ヴァレンチン、君はちゃんと把握できているのかい。君らが保険会社にいくら賠償しなくちゃならないのか。教えてやるよ、なんと……」

「やめてくれ。言わなくていい」


 俺は我ながら弱々しい声でうめいた。血を吸われた後の脱力感がようやく収まりつつあったが、今度は別の理由で、ソファから頭を起こす力が湧いてこない。

 途中から話についていけなくなったマルクは、のんきな顔で、目をぱちくりさせている。その脳天気な様子が腹立たしい。すべての原因はこいつだというのに、犬猫に毛が生えたレベルのおつむしか持ち合わせないこの破壊大魔神は今の状況を理解できていないのだ。


 借金漬け。ひとことで言うと、それが俺たちの現状だ。

 普通に働いていたのではとても返せる見こみのない莫大な借金。


「私が今日ここへ来たのはね。そろそろ研究所へ帰ってきてはどうかと勧めるためなんだよ。君らの生まれ故郷であるNBIへ」


 リュボフ博士は急に口調を変えて、しんみりした調子で語り始めた。にやにや笑いも消えている。この男はその気になれば、まるで本気で同情しているみたいな優しい顔を作れるのだ。


「君たちは、君たちの望んだ『自由』を手に入れた。研究所を出て、外の世界で暮らし始めた。だけど四年経って、結果はどうだい? 借金だらけで、にっちもさっちもいかない。君たちの『普通の人間』としての暮らしは完全に破綻してる。認めちまえよ、ヴァレンチン。君らは研究所の外での暮らしに向いてないんだ。
 君たちは、バンパイアやドナーとなるために特に遺伝子操作によって生み出された人間だ。マルクはバンパイア・ウィルスに人為的に感染させても耐え得る強靭な体を持つよう作られたし、ヴァレンチンはマルクの力を最高に発揮させる血液を持つよう作られた。人造人間である君たちは、研究所の中がいちばん居心地が良いはずだ。

 だから……帰ってこいよ。君らの借金はNBIがちゃんと面倒を見てやる。ゼウスプロジェクトにはその程度の予算はある。なんといっても君らは貴重なプロトタイプだからな。他のバンパイアやドナーとは違う。生きている、ただそれだけでも、研究対象としての価値がある……」


「マルク」


 俺は食いしばった歯のすき間から、囁きに近い声を絞り出した。


「ミクロドローンを叩きつぶせ。あの、天井のすぐ下をふわふわ浮いてる奴だ」

「了解だ」


 マルクは()めさえ作らずに即座に跳躍した。その腕の動きは速すぎて見えなかった。しかし次の瞬間、しゃべり続けるリュボフ博士の立体映像が消滅したから、マルクが間違いなくドローンを破壊したことがわかった。


 ――今を、楽しみましょう。今を、楽しみましょう。


 窓の外では、浮遊広告のとってつけたような明るい声が流れ続けていた。

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