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文字数 5,349文字

興梠(こおろぎ)さん! まさか、わかったと言うのじゃないでしょうね? これだけ(・・・・)の情報で?」

 電話の会話を書きとめた紙片を翳して、弓部(ゆべ)が興奮して詰め寄った。
「誰が描いた何という絵か、ぐらいは言えますよ」
 興梠は淡々と答えた。
「最初の2枚の内、雪の道を行く後姿の男の絵はモネの《雪のアルジャントゥイュ》だと思います。確か、この絵は我が国の実業家、松方氏が所有していたはず。俗にいう松方コレクションです。もう一枚もモネの《かささぎ》かと思います。雪の原に黒い鳥が留まっているというのでピンときました。最後の一枚。一番下に飾ってあるという絵。これが、ちょっと自信がないのですが、多分、コローの《鎧を着て座る男》ではないかな。勿論、3枚とも複製画でしょう」
「凄い!」
 片岡家の長男が叫んだ。助手も鼻高々だ。
「流石、興梠さんだね!」
 夫人と家庭教師、そして執事は目を(みは)って絶句するばかり。
 当主と警部補が相次いで感嘆の声を漏らした。
「いや、本当に……敬服します」
「お見事です」
 目を伏せて興梠は首を振った。
「いえ、実は、どれも印象派を代表する有名な絵なんです。絵画愛好家なら誰でもわかるはず。とはいえ、弓部警部補、確認の方をお願いします」
「あ! 了解しました。えーと、モネとコローですね?……おい、君、急いで美術書を調達して来てくれ」
 弓部は手帳をちぎり取って控えていた警官の一人に渡した。
「はっ」
 敬礼して部屋を飛び出して行く若い警官の姿が、一瞬、探偵の脳裏で10年前の弓部と重なる。


―― あいつは警察官になるべくして生まれたような男だ

―― よく、動いてくれたよ……


 気を引き締めて、興梠は再度一同を見回した。
「絵の題名と作者がわかったとはいえ、この絵だけでお嬢さんの居場所の特定は困難だと思います。それで、今後の調査の参考のために皆さんにお尋ねしたい。どうかお気を悪くなさらないでください」
 断った上で順番に質問を始める。
「片岡さん、貴方のお知り合いの中で美術愛好家などの絵画に詳しい人はおられませんか?」
 片岡瑛士(かたおかえいじ)は即座に首を振った。
「いません。父と付き合いのあった年配の人たちの中には古道具や骨董趣味の人はいますが、残念ながら絵画に入れ込んでいる友人は僕の周囲にはいないな」
「奥様はどうです?」
「私も思い当りませんわ」
 弱弱しい声ながら夫人もきっぱりと否定した。
「私のお友達は皆さん、音楽にはお詳しいですが、絵画は……」
「妻は女学校時代、音楽部に所属していたんです。だから、お付き合いのある皆さんは素晴らしい演奏家ですよ。妻も、ピアノは当然として、フルートを奏でます。これが、夫の私が言うのもなんだが、なかなかの腕前でしてね」
「よして、あなた」
 頬を染める夫人。
「いえ、私のはほんの手慰みですわ、お恥ずかしい」
「君はどうだい、青生(しょうき)君?」
「僕の友達? 絵画に詳しいかって? まさか! 連中が興味あるのはフロイライン(おんなのこ)とテニスだけさ」
 ここで瑠璃子(るりこ)夫人は母親の顔を見せた。誇らしげに息子を見つめると、
「青生は中学でテニスをやっていますの! 正選手ですのよ」
「スポーツマンなら、髪型をどうにかするべきだといつも言っているんですがね」
「僕の髪型? どこが悪いんだよ」
 にこやかに微笑んでいた少年が、突如、豹変した。
「僕はこの髪はやめないからね? 姉様が帰って来るまで!」
 青生は火が付いたように凄まじい剣幕でまくし立てた。
「僕と晶子(しょうこ)姉様は双子と間違えられるくらいそっくりだったんだ。だから――その姉様が無事帰って来るまで、僕が姉様の役割もする! 今の姉様がどんな風か……どう成長したか……皆に見せてあげてるんだ! 母様も父様も、嬉しいでしょう?」
「これ、青生――」
 遮ろうとした父親の手を息子は激しく振り払った。 
「それに、姉様だって喜んでるはずだ。だって、姉様、今はこの邸にいないけれど、皆、僕を見るたびに姉様の顔を思い出すだろ? けっして、忘れ去られることはないからね」
「誰が晶子ちゃんのことを忘れるものですか! バカなことを言わないでちょうだい、青生」
 涙ぐむ母の声も少年の激昂を止めることはできなかった。長い髪を揺すって絶叫する。
「あの日、姉様がいなくなって――いや、連れ去られて、僕は一日たりとも自分に問いかけない日はなかった。僕でもよかったのに。僕ならよかったのに! あの頃、僕たちは瓜二つだったろう? 間違えて僕を連れて行けばよかったんだ!
 何故、犯人は姉さまを(・・・・・・・)連れて(・・・)行ったんだろう(・・・・・・・)?」
(しょう)ちゃん……」
「やめなさい、青生。今更そんなことを言っても晶子が帰って来るわけではないのだから――」
「やめないよ! そうだ、弓部さん、貴方も知ってるよね? 憶えてるはずだ。僕がどれほど姉さまに似ていたか」
「え」
「貴方は10年前の僕を見ているし、姉さまの顔も知っている」
「いや、その、僕は君の顔は見ているが――お姉さんには直接会ってはいないよ」
 突然の名指しに警部補はひどく困惑したように見えた。
「でも、写真は見たろう? 母様が渡したじゃないか。その場面を僕ははっきりと憶えているよ」
 ピタリと人差し指を警部補の額に突きつける。
「子供だからって、周囲が見えてないわけじゃない。あの日、貴方に(・・・)母様はアルバムから抜き取って、晶子姉様の写真を渡してた――」
「あれは……捜索上、必要だったからだよ。僕個人がもらったわけじゃない」
 少年を落ち着かせようと警部補はゆっくりとした口調で説明した。
「僕は捜査本部長の雨宮(あまみや)警部補に、写真が必要だから借りて来るよう指示されただけだ。すぐに捜査本部へ持って行って、渡したよ」
「ふぅん? そうなの? でもさ、あの写真、返されてないよね? だってアルバムのその場所は空っぽのままだもの」
 この言葉に夫人が反応した。両手を頬に当てる。
「あら? そうだったかしら? 私、あの前後は尋常じゃなくて……ちっとも気づかなかったわ」
「返されていない?」
 瑛士(えいじ)も小首を傾げた。
「待てよ、そういえば思い出した。最初、妻が渡したその写真は急場しのぎだったので、後日、警察には、もっと良い写りのキャビネ版をネガごと提出したんだった。私自身がそれをやったのでよく憶えています――まぁ、こんなことは些細な話ですが」
 弓部が引き取って、締め括った。
「最初にお預かりした晶子ちゃんの写真がこちらへ未返還だというのは僕も知りませんでした。多分、まだ、警察にあるんじゃないかな。署に、戻り次第、調べてみます」
「いやなに、写真のことは今、特別に急ぐことではありませんからお気遣いなく。こちらこそ息子が変なことを言い出して申し訳ない。さあ、青生も――もういい加減にしなさい」
 一家の主らしく息子を(たしな)める瑛士だった。
「これ以上、警部補への失礼な言動は慎みなさい。古い写真のことなど、どうでもいいじゃないか」
「どうでもよくなんかない! これはすごく大切なことなんだ!」
「あ、青ちゃん……?」
「青生!」

 バン!

 青生は応接室から飛び出して行った。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ない、弓部さんも、興梠さんたちも……」
 瑛士は息子の非礼を詫びた。
「だが、今日に始まったことじゃないんです。一緒にいるといつも、こんな調子になる」
 執事が差し出したハンカチで額の汗を拭いながら片岡家の当主は言った。
「あの事件以来、あの子は――私を責めているんです。いや、〝大人〟を、と言った方がいいのかな。あの日、何もできなかった、不甲斐ない大人たちを」
 瑛士の声は震えてしわがれ、どんどん小さくなって行く。
「だから、ああやって……私たちに見せ続けて来たんですよ。見せつけて苦しませる……
 いなくなった姉の顔を……
 過去・現在・そして未来まで……」
「あなた……」
 シンと静まり返った応接室。身動(みじろ)ぎする者は誰もいない。皆、彫像のように立ち尽くしている。
 その重く沈殿した空気を断ち切るように、勢いよく弓部が興梠を振り返った。
「そうだ、興梠さん、今日、貴方が行かれた鎌倉の古刹(こさつ)。そこでなにがしか発見があったと言ってましたね? それについて僕や片岡家の皆さんに話していただけませんか?」
「ええ」
 興梠は一歩前へ出た。
「5番目の手紙にあった文言の中で《二人の天使》と《曲がらずに伸びる葉》に該当すると思われるモノを鎌倉の英勝寺(えいしょうじ)というお寺で確認して来ました」
「おお!」
「まあ!」
 一変に部屋が明るくなる。片岡夫婦の顔が希望に輝いた。
「まだ、今の段階では『この寺だ』と言い切ることはできませんが、引き続き調べようと思っています。ここから、犯人の〈意図〉や〈正体〉……そして、お嬢さんを監禁している〈場所〉まで辿り着ければいいのですが」
 興梠は慎重に言葉を選んで先を続けた。
「僕の今までの経験では、この種の犯人は遊戯(ゲーム)をやりたがる。こちらを挑発して面白がる傾向がある。ただ、投げかけてくる言葉や謎の中に、紛れもない〈真実〉が隠されている場合が多いのです。ですから、こちらも真剣に対応する必要がある」
 片岡夫妻は深々と頭を下げた。
「その種の難しい話は私たち素人にはわかりません。まして、特異(アブノーマル)な犯人の心理など……とにかく、全て、お任せいたします」
「ええ、本当に。なにとぞ、よろしくお願いいたします」
「ところで、どうでしょう、興梠さん?」
 先ほどとは別人のように快活な声で瑛士が提案した。
「調査に当たっている間、ぜひ我が邸に投宿なさってくださいませんか? 部屋はあるし、何より、私たちも貴方に傍にいていただいた方が心強い。より早く進展具合や情報を聞くことができます。どうです、弓部警部補? 貴方も、探偵氏がここにいた方が連絡などの面で便利でしょう?」
「ええ、その通りです」
「それなら、決まりだ! 河北(かわきた)、すぐ部屋を用意してくれ。2階の端の客室がいい。あそこなら、ツインベッドだし、日当たりもいいし……」
「かしこまりました」
「お心遣い、感謝します。では、お言葉に甘えて」
 こうして、探偵と助手は片岡邸に寄宿することが決まった。


 その日は、弓部も是非にと誘われて夕食を共にした。
 雨宮元警部が手帳に記した片岡邸の料理人、三浦洋介(みうらようすけ)の腕前は素晴らしかった!
 ホワイトアスパラのシャルロット、天然真鯛のポワレ・桜海老のガレット添え、浅蜊(あさり)のスープ、牛ヒレ肉のブルーベリーソース掛け、温野菜……
「奥様がきちんとお食事をお摂りになるなんて、本当に嬉しいですわ!」
 家庭教師の笹井敦子(ささいあつこ)が頬を上気させて言う。彼女自身、こうして笑っている顔をみると、大変可愛らしいお嬢さんだった。その敦子に微笑み返して夫人が言った。
「弓部警部補と興梠さんのおかげで希望が湧いて来たんです。ちゃんと食べて元気にしていないと、珪子(けいこ)ちゃんが帰った時、抱きしめてあげられませんもの」
「そのとおりだよ、瑠璃子」
「奥様は、お医者様が処方してくださった睡眠薬もお飲みにならない上にお食事もほとんど口にされないので、このままでは体を壊されてしまうのではと、私、本当に心配でした」
「睡眠薬なんて、私、絶対飲みませんわ。何か連絡が入った時、知らずに眠り続けるなんてイヤ」
「ならば、ちゃんと眠り、ちゃんと食べることだ。長期戦になる。気をしっかりと持っていなければならないよ、瑠璃子」
 家長の瑛士も力強く頷いて夫人を励ました。
「なぁに大丈夫さ! 興梠さんという、こんな有能な探偵氏が捜査に加わってくださったのだ。今回は必ず解決する」
 遂に、子息は姿を現さなかったが。
 ちょうど食事が終わる頃、先刻の警官が美術書を抱えて戻って来たので、一同は電話で珪子が言っていた絵を確認することができた。
 3枚の絵はどれも、興梠が指摘した通りだった。



☆モネの《雪のアルジャントゥイュ》
collection.nmwa.go.jp/P.1959-0150.html

☆モネの《かささぎ》
www.salvastyle.com/menu_impressionism/monet_pie.html

☆コローの《鎧を着て座る男》

https://matome.naver.jp/odai/2146820023681785601/2146820241483725703

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ジャン=バティスト・カミーユ・コロー-鎧を着て座る男-

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