第126話 4ヶ月目の初日 9月26日(土)

文字数 1,382文字

 自主治療を始めて記念すべき4ヶ月目に突入したと言うのに、取り立てて感動したとか、感無量だ、と、言った感覚はない。
 最早競馬やパチンコをしないことが日常になってしまっている感がある。
 スクラッチくじの買い過ぎにこそ一抹の不安はあるものの、それも今日は買うこともなく派遣バイトに入ったので、バイトの終わった今は買おうとしても開いている窓口もなく、一週間続いたスクラッチくじの購入にも一旦終止符を打てた。
 つまり競馬及びパチンコ依存症治療の方は支障なく進んでいるし、大した障害もなく日々平穏に過ごせていると言うことになる。
 しかし私にはそれが怖いのである。
 理由としては現代の医療技術では完治することのない競馬及びパチンコ依存症は脳の病気であり、再び興奮を求め自分自身でその平穏をぶち壊す可能性があることが第一。
 次にカウンセラーに日々言われていたにも拘わらず、競馬やパチンコに代わる何かを見つけられていない私が、退屈を埋める為に競馬やパチンコを求めてしまう可能性が第二にある。
 最近エレメンタリーと言う推理物のアメリカドラマを観ているのだが、元薬物依存症の設定である主人公のシャーロック・ホームズが言うのだ。
「薬を断って2年だが、この退屈をどう克服するか」、と。
 凄く的を射た言葉である。
 贅沢な話なのだが、薬物もギャンブルも買い物も含む総ての依存症に取って、退屈と言う概念こそが敵なのだ。
 退屈と思わずに何か他のことに幸福を見出せているなら問題はないのだが、何かに依存して来た人間に取ってはそのことを完全に断つと、今迄そのことに費やして来た時間や労力などの総てを失ってしまうような気がするのだ。
 つまり心にぽっかりと空洞が出来てしまったような感じがするのである。
 無論精神的に弱いから依存症になるのだし、依存症の人間は精神的に弱い。
 しかしだからと言って、依存症にならない人間は皆が皆強い人間と言えるのだろうか。
 そうではない筈だ。
 人は皆生まれ付き依存しているし、一人では生きていけない。
 生まれて直ぐは親に依存しなければ生きていけないし、成人して子供が出来れば今度は依存される側になる。
 たとえば団塊の世代では仕事一筋、と、言う言葉が美談であったが、昨今はそれを仕事依存と言って余り褒められた話ではなくなって来ている。
 総じて人は依存とは切っても切れない関係にあると言うことだ。
 要はそれ等は程度の問題であり、心の持ちようとバランスの問題なのである。
 たとえば美しい花を観ているだけで心が満たされるなら、その人は依存症にはならない。
 逆にそんな小さな幸せでは満足出来ないと思う傲慢な人が依存症になる。
 過去の私は花々の美しさを見ても、否、花など目に入らないくらい傲慢で強欲だったのであろう私は、その美しさを愛でることもそのことを幸福と感じることも出来なかったのだ。
 今日1日は派遣バイトの肉体労働をしながら、ずっとそのことを考えて1日を過ごした。
 今日の競馬やパチンコの無事は派遣バイトに感謝である。
 そして明日の競馬やパチンコの無事は、退屈を恐怖に感じる自身ではなく、退屈を幸福と感じれる自身で居れることで確実であろう。
 そして美しい花を観れるだけで幸福、と、思える自身であることも忘れずに。
 
 
 
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