文字数 2,428文字

 どんなにゆっくりした速度でも、嫌でも目的地には到着してしまうもの。あんなにたっぷり時間があったというのに、気が付けばもう反対側まで来てしまった。目の前には船着き場があり、さすがにこれ以上はゆっくりはできないとカロンから優しく言われた。慣れた手つきで船着き場に舟を横付けして、紐で舟を固定しひょいと船着き場に飛び移ったカロンに続いて、わたしは船着き場から手を伸ばして引き上げてくれるカロンの優しさに最後まで甘えていた。
「さぁ、あとはこの森を通り抜けた先に君の目的地があるよ。気をしっかり持ってね。ぼくはここで君の到着を待ってるから。頑張ってね」
 微笑みながら見送ってくれるカロンに、わたしは力強く頷くと鬱蒼と生い茂る森の中へと進んでいった。カロンに言われたことを忘れないよう、時々思い出しながら闇よりも濃い闇へと潜っていった。

 闇の森を進み景色に見慣れたころ、木の陰から何者かの呻き声だったり半透明の腕が見えたりと、そういったものが苦手なわたしに次々と現れるようになってきた。小さな悲鳴を上げては走って、また悲鳴を上げては走ってを繰り返しているとどこからともなく女性の鼻歌を歌っているのに気づき、わたしは恐怖心より警戒心が勝りその場にびたっと立ち止まった。
(もしかして、カロンが言ってた女性なのかしら)
 わたしは手で口元を覆い、少しでも音が漏れないように息を潜めながらその鼻歌が通り過ぎるのを待った。だけど、その鼻歌はどこかに行くどころかその場に留まり続け一向に動く気配を感じられなかった。わたしは意を決し、茂みの中から音を出さないよう細心の注意を払いながらその女性を窺うことにした。すると、その女性は大きく実った赤い果実を収穫していた。どれも大振りで中身がきっしりと詰まっているというのがそれを見ただけでわかる。収穫した果実を腕から提げている籠の中に丁寧に入れていき、やがて籠がいっぱいになると女性は同じ果実が実っている木へと移っていった。
「今日もたくさん実っていて嬉しいわ。うふふ」
 収穫した赤い果実に話しかけている様子は、まるでわが子のように慈しみに満ちた表情をしていた。その表情のまま収穫をしていると、どこからともなく白い幽体が現れ女性を取り囲んでいた。やがてその幽体は徐々に人の姿に形成した。いや、

姿

かしら……。一つは口の半分がなく、顎は千切れることなくだらりと垂れ下がり、また一つは白骨化が進んでいるのにも関わらず女性が持っている籠を凝視していた。食べられるものが入っているとわかっているようで、早く早くとせがむ様に唸っていた。
「あらあら。あなたたち。また来たの?」
 女性は口では困ったという色を滲ませているけど、その表情はさっきよりも嬉しそうに微笑んでいた。女性は籠から収穫したばかりの赤い果実を全員に配り終えると、にんまりと笑いながら食べるように勧めた。
「赤く実った果実。収穫したばかりだからとっても美味しいわよ。あなたのために用意したのよ? うふふ」
 人の姿をした何かは女性から赤い果実を受け取ると、それを躊躇することなく食べ始めた。むしゃむしゃと食べるその姿は、まるでお腹を空かせた子供の様だった。果実から溢れる汁を気にもしないでただ一心不乱にむしゃむしゃと食べていた。
 ごくんという飲み込む音が生々しく聞こえ、わたしは思わず耳を塞いだ。それでも、ほかの人の姿をした何かが食べ終わる度にごくんと聞こえ、思わず声が出そうになった。
「全員、食べ終わったのね。うふふ。残さず食べてくれて嬉しいわ」
 本当に嬉しいのだろう。女性は心の底からの笑顔を浮かべながら手を振ると、果実を食べた人の姿をした何かは一瞬で透明になり消えていった。誰もいなくなったというのに、女性は微動だにせず何かをじっと待っているようだった。ほかに誰かが来るのかと考えていると、女性は声を張った。
「そこに隠れているのは誰かしら? 出ていらっしゃい」
 女性はわたしと目が合っていることに気が付いているのかわからないけど、確かにそこにいるという自信に満ち溢れた表情をしていた。このまま隠れていてもきっといいことはないと思い、わたしは茂みから出て女性の前に出た。
「あらやっぱり。ちょっと前から何か気配を感じていたのよねぇ。大正解だったわ」
 ふわふわとした口調だけど、どこか危険な臭いを含んでいる女性の声に意識を集中し、聞かれても最低限のことしか答えないと自身に言い聞かせながらわたしは女性に名前を尋ねた。
「わたし? わたしはグレナ。この森で果実を栽培しているの。ほら、真っ赤に熟れてておいしそうでしょ? あなたもひとついかがかしら?」
 グレナと名乗った女性は、籠から大ぶりの果実をわたしに差し出した。さっき、人の姿をしたなにかは全員美味しそうに頬張っていたけど……本当に美味しいのかしら。そう考えてすぐ、わたしは食欲という願望に抗うことができなくなっていた。そしてその願望はわたしの意思とは無関係にその大ぶりの果実に手を伸ばしていた。そういえば、ここに来てから何も食べてないし飲んでいないし……急にお腹が空いてきちゃった。これを食べれば喉もお腹もきっと潤うよね……。半ば誘われるように果実へと歩み寄り、あと数歩というところでどこからともなくけたたましい警告音が鳴り響いた。
「きゃっ! な、何の音??」
 グレナは耳を塞ぎ、音の発信源を探し始めた。はっとしたわたしもあたりを見回してみた、けど、音が反響してうまく音の発生源を特定ができない。どこだろう……早く止めないと厄介なのが来ちゃうかもしれない。
「……もう。興醒めだわ。さようなら」
 グレナはむすっとした表情で霧のように霞んで消えると、けたたましい警告音もそれに続いて鳴り止んだ。いったい何だったのだろう……。わたしは晴れない疑問を抱きながら冥界の森を進み続けた。厄介なものと出会いませんようにと切に願いながら……。
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