第42話 パンプキン・ベーカリー:2023年4月

文字数 1,492文字

(南山洋子は、ベーカリーで、朝食をとっている)

2023年4月。東京。パンプキン・ベーカリー。
洋子は、忙しい日には、早朝にアパートを出て、G社の近くのパンプキン・ベーカリーで朝食をとることが多い。パンプキン・ベーカリーは、朝は6時からオープンしているので、6時半頃に、ここで、朝食を済ませて、G社に出勤出来る。今日も、洋子は、パンプキン・ベーカリーに朝食をとりにきていた。
パンプキン・ベーカリーは、イートイン・スタイルで、棚から、食べたいパンをトングでとってトレイに載せ、ドリンクを追加して、テーブルで食べる。洋子のお気に入りは、フランスパンにシャキシャキのレタスが挟まったレタス・サンドイッチだった。このレタスは、格別美味しい。理由はよくわからないが、
「他では味わえない魔法のレタスだ」
と洋子は思っていた。
「今日の朝食は、レタス・サンドイッチとサラダ、それに、ミルクティーにしよう」
洋子はそう思って、レタス・サンドイッチの棚に近づき、トングでサンドイッチを挟んで、自分のトレイに移そうとした。とその時だった。ガチャンと洋子のトングが、誰かのトングとぶつかった。あやうく、もう少しで、サンドイッチを床に落とすところだった。
「ごめんなさい」
という声が響いた。
それにしても、なんと、無神経な人がいるものだ。
声のする方を振り返ると、色の白い、背の高い男がこちらを向いていた。
洋子は、男を無視して、レジの清算の列に並んだ。
支払いを済ませ、いつもの外が見える窓際の席に座った。
その席からは、道を歩いている人、満開の枝垂れ桜、散歩中のトイプードルが見えた。洋子が今住んでいるアパートは、ペット禁止だ。
「余裕が出来たら、ペットの飼えるアパートに引っ越して、犬を飼おうかしら。
飼うなら、何がいいかな」
と想像を巡らせた。
それから、レタス・サンドイッチに、かぶりついた。
「ああ。美味しい。やっぱり、パンプキン・ベーカリーのレタス・サンドイッチは世界一だわ」
と洋子は思わず、言葉を口にした。
サラダを食べて、ミルクティーを飲み終わるころには、7時を過ぎていて、窓から見える人通りも増えてきた。
「さて、そろそろ、出社しようか」
トレイを配膳口に片付けて、店を出ようとすると、さっき、ぶつかりそうになった男にまた会った。洋子は、謝罪の言葉が出ると予想したが、男の口からは意外な言葉が出た。
「ところで、僕の作ったレタス、美味しかったですか」
「え。なんですって」
洋子は思わず、切り返した。
「あなたが、さっき『パンプキン・ベーカリーのレタス・サンドイッチは世界一だ』っていっているのを小耳に挟んだんです。このレタスは、うちの関連会社の工場でつくっているんです」
「たしかに。美味しいレタスでしたよ」
「ああ。うれしい」
それにしても、失礼な男だと洋子は思った。一方では、「うれしい」と言った時の表情から、本心からそう思っていることが伝わり、憎めない人であることも確かだった。ベーカリーの時計をちらっと見ると、予定時間を過ぎそうだった。
「今日は、時間がないので、これで、失礼します。美味しいレタスをありがとう」
洋子はちょっと強めの口調で言って店を出た。
普通なら、これだけ、強く言えば、ちょっと嫌な顔をする程度の反応が返ってくるのだが、男の表情は、強い口調には全く動じる様子はなかった。「自分のつくったレタスが美味しかった」と言われたことが、よほどうれしかったのだろう。トングをぶつけられた時には、無神経な男だと思ったが、案外、単純な子供のような性格なのかもしれない。変わった男もいるものだ。悪い人では、ないのだろうと洋子は考えた。
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