第8話 三角兵舎

文字数 1,071文字

 額がひんやりとする感触に、鳴海は重たい(まぶた)をうっすらと開けた。見慣れぬ天井がぼんやりと視界に広がる。

「あ、目が覚めたと? さっちゃんな今、洗濯(せんた)っをしちょ。呼んできもんそか?」

 やがて景色が焦点を結び始めた。目に映る天井は斜めに迫る木造だった。そしてこちらをのぞき込む声の主は、色の浅黒い頬のふっくらとした少女だった。

「さっちゃんなもう(たま)がって、大変(わっぜえ)やった」
 さっちゃん……?
「杉浦さんが、(けし)んでしまうちゆて、なっかぶって。あてが今呼んでくっ」
 小走りに遠ざかる後ろ姿は、お下げ髪にもんぺ姿だった。

 杉浦? なっかぶって?
 首を動かすと額から何かが落ちた。拾い上げると水で濡らした手ぬぐいだった。

 その視線の先には粗末な寝具がたたまれている。長方形に切り取られた入り口から階段と明るい日差しが見えた。



 ここはどこだろう。あの言葉と独特のイントネーションは聞き覚えがある。あれは確か学生の頃だ。外の日差しを見つめながら、鳴海の体は起き上がることも許さぬほどの気怠さを訴えていた。

 その景色の中に黒い影が現れた。

「さっちゃんな、(いそ)ぎん用が出来(でけ)たちゆて家に帰ったそうです」
 先ほどの娘が戻ってきたようだ。
「杉浦さん、(びんて)は冷やしちょいた方がよか」娘が手ぬぐいを一度水に浸して絞り、鳴海の額に乗せた。

「さっちゃんって誰?」痰が絡んで声は出なかった。鳴海は咳払いをひとつした。

「なっかぶって何?」
「あぁ、なっかぶるって、泣きじゃくるとかそげん意味ですがね。かごんまべんは(むっか)しですか?」娘は口元を押さえて笑った。
 そう、確かに鹿児島弁だ。

「むっちゃん、呼んだ?」さらに人影が現れた。
「さっちゃん帰ってきたと。杉浦さんな、さっちゃんの看病じゃなかとダメんごたっ。さ、あたしも洗濯(せんた)っをせんな」むっちゃんと呼ばれた娘が笑いながら走り去っていった。

「さき──ちゃん」
「んだもしたん。杉浦さんな寝ぼけてしもたんと? サチですがね」枕元にしゃがみ込みながら自分の鼻先を指さした。ここは半地下状に通路が一段低く造られている。

「ここ、は?……」鳴海は再び明るい屋外に目をやった。サチと名乗った少女が素早く額の手ぬぐいを押さえた。
「ここはって、三角兵舎ですがね。杉浦さん、お熱が出て倒れてしもたとですよ」

 三角兵舎?
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