第十章 ⑨
文字数 3,464文字
かなりの時間がかかり、水曜日は、
その任同から逮捕の事案で一日が
終りました。
クタクタになって署に戻ると、もう19時
過ぎ。
命令してくれた係長殿は、すでに帰宅
されていました。
自席に着き、時間を確認し、
「もう、昨日と同じで、誰も出ないだろう
なぁ」と考え、平戸の会社には、
電話しないことにしました。
でも、ヤギヌマさんが、良いと言って
くれたので、ヤギヌマさんには、
電話してみることにしました。
何度かコール音がなった後、
ヤギヌマさんの声が聞こえてきました。
「不動刑事!大丈夫です!
メールは来てますけど、外出時に
出くわしたりはしていません」と。
私は、「分かりました。こっちでも、
やれることはやっています。
今後もメールの保護とカギ閉めとかの
用心は続けてくださいね」と、
彼女に伝えました。
相変わらずメールは届くようでしたが、
まだ、平戸も、ヤギヌマさんの自宅までは
把握していない……。
でも、「急がないとな」と思いました。
このようなケース、最終的には、男は、
女性の家の周囲をうろつき出すものです。
ヤギヌマさんの自宅周辺をウロウロする
ようになったら、ヤギヌマさんの身に
危険が及ぶ可能性が、一気に高くなります。
私はスケジュール表を見つめました。
フリーに動けそうな日は、金曜日でした。
「非番か……。会社に乗り込もうかなぁ」
と、私は目をつぶりながら思いました。
そして、木曜日。
午前中は、事情聴取や防犯協会関係の
協力者との連絡等であっという間でした。
午後は、先輩と一緒に、訊き込みに
回りました。
そして、署に戻ってからは、いつもの
書類作成。
定時退庁なんて所轄の生安課にいる限り、
無理だろうなと、思いながら作成に励み
ました、目薬を供に。
そして、18時20分頃……。
パソコンに向かう、私のポケットの中で、
携帯電話が鳴りました。
やはり、その時も、「ヤギヌマさんだ」と
直感で分かりました。
パッと開いて、表示を確認すると、やはり、
そうです。
急いで、通話ボタンを押しました。
私は、「はい、不動です。
何かありましたか」と訊こうとしたのです。
でも、その私の質問は、ヤギヌマさんの
叫びで打ち消されました!!
私の耳、ヤギヌマさんの叫び声が、
飛び込んで来たのです!
「不動刑事ッ!!助けてくださいッ!
平戸に追われてる……ッ。
今ッ、お、大町通商店街の手前……。
突っ切って、警察署の方に向かうからッ
……!!」
と言う緊迫した、そして、息も絶え絶え
の状況……!!
半分パニック状態になっているように
感じました。
当然です、クソ野郎から追われているの
ですから。
「あぁ、やられたかぁ!
しかも、一般市民は、誰も助けて
くれないんだよなあ、やっぱり!」と、
思いました。
こんな時、一般市民は頼りになりません。
正直、何もしない人が、ほとんどです。
女性が必死に、変質者から逃げていても
……。
私は、係長や先輩や他の係員のことを、
一瞬忘れました、本当に!
勢いよく立ち上がってました。
そのせいで、私の椅子は、ドカンッと
大きな音を立てて倒れました。
でも、あの時の私は気にもしません
でした。
署付近の地図を一瞬で頭に浮かべます。
そして、大声でヤギヌマさんに叫びます。
「分かった!
走って!!
とにかく、諦めないで逃げて!
そう、こっちに向かって来てッ!
私も今から、商店街の方に向かう!!」。
私は、携帯電話を握ったまま、生安課から
出ていこうとしました。
その時、ハッと気づきました。
係長も先輩たちも他の係員も、それから
奥に座る生安課長もポカンとした表情で
私を見つめています……。
「そうだ…。
今日は、課長もまだいたんだ……」。
後悔が、走ります。
でも、そこで説明している余裕なんて
ありません。
しかも、私が、報告もせずに勝手に動いて
いた件ですから、助けを求めることは
できない……。
私は、倒れている椅子から勢いよく、
警視庁と刺繍されたジャンバーを
つかみ取り、生安課内を一気に、
走り抜けました!
後ろから、「オイッ!!
不動産、どうしたんだッ!!」と叫ぶ
水口係長の怒声が聞こえてきましたが、
普段ならともかく、かまっている暇は、
ありません!!
普段は、エレベーターを使っていますが、
大急ぎで、階段を駆け下りました!
女性らしからぬ、自分の足音が、
ドタバタと、響きます。
運悪く…、途中、夫とのお見合いを
すすめてくださった、副署長と、
すれ違ってしまいました…。
普段なら、絶対に、立ち止まり、
敬礼です。
でも、時間が惜しかった……!
「エイッ!もうどうにでもなれ!」と
言う心情です……。
立ち止まらずに、そして、
もちろん敬礼もせずに、
「すいませんッ!!
急ぎなので、失礼しますッ!!」と、
すれ違いざまに叫んで、そのまま、
階段を駆け下りました、私は…。
でも気になり、さっと後ろを振り返ると、
副署長が立ち止まり、目を大きく
見開いて、ポカンと、こっちを見ています。
すぐに目をそらしましたが、
「さすがに、まずいナ!」と思いました
……。
でも、立ち止まり、向きを変えて、
階段を駆け上り、副署長のところに戻って、
敬礼しなおしてくる余裕は、ありません。
そのまま、行くことにしました、
「あぁ、評価が……」と思いながら。
あと、もう一つ、駆け下りながら
思いました。
「何で今日にかぎって……!?」と。
退庁時刻を過ぎても副署長が残って
いたとは!
とにかく、余計なことは考えないように
して、足を進めました。
……1階にたどり着き、私は、
正面玄関に向かいます。
もう、廊下を走っていました。
トイレから出て来て、驚く交通課員。
すれ違いざまに、何か声をかけてきた
当直班の巡査長……。
みんな、無視です!!
視線も声も無視して、走りながら、
背面に警視庁と刺繍されている黒の
ジャンバーを大急ぎで着ました!
……まさか、人妻で新米デカの自分が、
こんな女性らしかぬことをするとは、
それまでに、想像もしていません
でしたが、もう後戻りは不可!
私は、正面玄関を突破して、署の外に
出ました。
「このまま商店街の方に走ってこう!
途中で、ヤギヌマさんとぶつかるはず…」
と考え、勢いよく歩道に向けダッシュ
しようとしました。
しかしです!!
折よく、警邏か何かから戻ってきた
ばかりの地域課員3人が、自転車を
押して署敷地内に入ってきます。
年輩の男性巡査部長と若い男性巡査、
それから、独身男性署員に人気の若い
女性巡査でした。
そして!!
何かを深く考える前に、私の身体が、
勝手に動いていました。
足が一歩、彼らの方に出て、そして、
手はポケットの中の警察手帳に!
私は、警察手帳を右手に、大声で
叫びながら、彼らの方に突進して
いました。
「生安課の不動巡査部長です!
ちょっと、ソレ、貸してくださいッ!!」
と言い放ちながら……!
もう、無我夢中でしたね。
そう、必死でした……。
後のことも考えずに、なんと、私は、
その若い女性巡査が、押していた自転車に
手をかけて、彼女から、自転車を
ひったくっていました……!!
そう、奪っていました。
彼女の同意も何もナシです……!
あきらかに、貸してもらったのではなく、
どっからどう見ても、奪ったのです、私は。
完全に、様々な法律に引っかかる行為です、
今思えば……。
女性巡査の「ヒッ!!」と言う、
叫び声が、署の玄関前に響きます。
でも、気にしている余裕は、
全くありませんでした。
と言うより、無我夢中で、そんなの気に
していませんでした。
私は、咄嗟のことに、驚きで何も
出来ずにいる男性巡査部長と巡査、
それから、口を大きく開いて立ち尽くす
女性巡査を横目に、大急ぎで、警邏用
自転車にまたがり、
「すいませんッ!!
一刻を争う事件なんで、借りますっ!」と
叫びました。
そう叫んだ時でしたね。
やっと、我に返ったのは……。
でも、すでに、時遅し。
この私は、奪った警邏用自転車に、
乗ってしまっているのです。
一瞬、サーと血の気が引きましたね。
自分のしたことの重さ!!
目の前に、ポカンと立ち尽くす、
その3人の地域警官。
形相もスゴイ…。
警察官から署の自転車を奪って、
その警邏用自転車に、またがっている……。
しかも、意図して、3人の中で、一番弱い
と思える、婦警に突進していった……。
「公務執行妨害……。
他にも、規定違反、その他数々だな」と
思いました。
でも、今さら、自転車から降りて、
ペコリと頭を下げて、「ごめんなさい。
驚かしてしまい……」と言っても、私の
したことは消えません。
彼らと私が書くはずの報告書からは……。
それに、彼らや他の署員の記憶からも。
私は決心して、グッと唾を呑み込み、
ペダルに置く足に、力を入れました。
(著作権は、篠原元にあります)