夏合宿への下準備~筋力編~

文字数 3,416文字

「ふう……露骨な尾行はもう結構ですよ」

 光太が振り向いて暗がりの二つの人影に向かって話しかける。人影の内の小柄な方がビクッとなって、おずおずと姿を現す。黄葉原南武であった。

「やはり……バレてしまいましたか……」

「当然です。気が付かない方がおかしい……貴方がついていながら随分と程度の低い尾行だったのではありませんか?」

 光太は大柄な影に話しかける。暗がりから黒駆秀吾郎がゆっくりとその姿を現す。

「むしろ早く気が付いて欲しかったのです」

「……何ですって?」

 秀吾郎の予期せぬ返答を受け光太が眉をひそめる。そして、別の通りから一人の男が駆け込んできて、光太の前で土下座せんばかりの勢いで膝を突いた。冷静な光太もこれには少し驚いた。すぐに落ち着きを取り戻し、その土下座の主を確認する。

「……大毛利君ではないですか、どうしたのですか?」

 ここまで走ってきたのか、景元は息切れ状態である。何度か深呼吸をして、改めて、光太に向かって頭を下げる。

「強くしなやかな肉体を手に入れたいのです! ヒョロガリな姿をどうしても見せたくない人がいるのです!」

 光太と秀吾郎と南武は揃って、小霧の顔を思い浮かべる。光太が首を捻る。

「私に頼むのはお門違いでは? それこそこちらの黒駆君でもいいでしょう?」

 景元は頭を上げて首を激しく左右に振る。

「僕は先生のような細マッチョが理想なのです! 先生に近づくには、先生のよく利用されている女人禁制のトレーニングジム! 『筋肉達磨』への入会を……」

「あ~~! 一体何の話をしているのか、さっぱり分かりませんね!」

 光太は平静を装いながら答えるが、眼鏡の蔓を抑えている指が小刻みに震えている。

「先生、調べは完全についています。これ以上の誤魔化しは無駄です。秘密を更に公にされたくなければ、大毛利様と南武殿、そして俺の入会を紹介して下さいませんか」

「……黄葉原君は何の為に?」

 光太は尋ねる。

「体力を増強し、夏合宿の“特別指定強化訓練”を難なく突破したいのです。正直、何をやらされるのか、皆目見当もつきませんが……」

「訓練で課せられたメニューを早く消化すれば、その分上様と過ごす時間も増えるかもしれない……そういう企みですか」

 光太の眼鏡がキラッと光る。南武は思わず目を背ける、

「黒駆君は?」

「自分は純粋に興味です。大江戸城下でも屈指のトレーニング環境とのこと。鍛え上げて強くなれば、困難なお役目も果たせるようになるというものです」

「なるほど……しかし、それでは私にあまり得がありませんね……」

 光太が顎に手をやる。秀吾郎が口を開く。

「事が全て上手く運んだ暁にはお礼として、世にも珍しい合体忍術をご披露致しましょう……南武殿と北斗殿が」

「ええっ⁉ 僕と兄上がですか⁉」

 南武は驚いて秀吾郎の方に振り返る。秀吾郎は小声で囁く。

「基本的に我々は他人にいたずらに術を見せることは憚られますので、代わりに……」

「それで何故僕らになるのですか⁉」

「それは……なかなか興味深いですね」

「興味抱いちゃった⁉」

 うんうんと頷く光太に対して南武が戸惑う。

「良いでしょう、三人をジムに御紹介致します」

 手続きを終え、光太に続き、三人はジムの中に入る。

「あ……ごく普通のジムなんですね」

「なんだと思っていたのですか……それでは、大毛利君は私と同様のメニューを消化してもらいましょうか。もっとも初めてですから、負荷は軽めにですが」

「先生と同じ負荷で構いません!」

「無茶はいけません。マッチョは一日にしてならずですよ」

 気が逸る景元を光太が諭す。秀吾郎が南武に話しかける。

「では、我々は『怒気! マッチョへの道! ショートカット版』をこなすとしますか」

「ちょっと待って下さい! 今の先生の言葉聞いていました⁉ 僕も無難に初心者用のトレーニングメニューから始めたいのですが⁉」

「しかし、合体忍術を披露するにはあまり悠長なことは言っていられません」

「披露するのは決定事項なんですか⁉」

「他の会員の迷惑になるぜ。騒ぎたいなら余所へ行きな」

 四人が声のする方に振り返ると、二年は組のクラス長、日比野飛虎と副クラス長であり、飛虎の親友である神谷龍臣(かみやたつおみ)の姿がそこにはあった。

「は組のお二人……このような場所でお会いするとは、やはりそういうご趣味が……」

「ち、違う! 女人禁制はあくまでもオーナーの意向だ。会員には関係ない」

 秀吾郎の言葉を飛虎が即座に否定する。光太が同意の意を示すように頷く。

「まあ、確かにお前らとこんな所で出会うとは意外だったな。どれどれ……はんっ、どんなメニューをこなすのかと思えば、しょぼいメニューだな」

「!」

「これ位のメニューで満足するようじゃ、将愉会の程度も知れるというものだな」

「聞き捨てなりませんね……」

 飛虎の煽るような物言いに秀吾郎と光太の目の色が変わる。

「気に障ったか? それならどうだ、勝負でもしないか?」

「勝負?」

「ああ、バーベルスクワッドだ。80㎏のバーベルを三分間で何回持ち上げられるか、その回数を競うんだ」

 そう言って飛虎は器具を指し示す。

「面白い」

「受けて立ちましょう」

 秀吾郎と光太が飛虎の誘いに乗った。

「そうこなくちゃな、よし、各々準備しな」

「盛り上がってきたな、飛虎。あの日の勝負を思い出すぜ!」

「こういう勝負は初めてだが……龍臣、審判を頼む」

「ああ!」

「だ、大丈夫なんですか?」

 南武が心配そうに秀吾郎と光太に尋ねる。

「心配無用です」

「ええ、ここで逃げては将愉会の名折れというものです」

「は、はあ……」

 飛虎たち三人が横に並び、インストラクターがそれぞれ補助につき、龍臣が号令を掛ける。

「よし……スタート!」

 三人とも同じ位のハイペースで両肩に担いだバーベルを上げ下げする。

「す、凄い!」

「新緑先生はしなやかさ、黒駆はたくましさ、日比野は力強さを感じさせる! 三者三様の筋肉の躍動だ!」

 南武と景元が驚嘆する。勿論、三人とも決して無茶な動きはしていない。フォームを綺麗に保ちつつ、一定以上のスピードでバーベルを上下させている。

「新緑先生は一見、華奢に見える肉体に筋肉が詰み込まれている! そのしなやかな動きは全く無駄がない! 筋肉の筋一本一本までもが合理的だ! 流石は数学教師! まるで筋肉の因数分解だ!」

「大毛利さん?」

「黒駆も細身ではあるが、その肉体はまさに屈強という形容詞が相応しい! たくましい動きには隙が見られない! 身体の部位、一つ一つがさり気なく頑強さを主張している! 流石は腕利きの忍び! まるで忍法、筋肉ムキムキの術だ!」

「大毛利さん⁉」

「日比野もまた痩身だが、筋肉の塊だ! その力強さを感じさせる動きには弱みなど微塵も感じられない! 神経や細胞レベルに至るまで、精強そのものだ! 流石は一流の人気芸能人! まるで筋肉のアカデミー賞、グラミー賞、トニー賞の総なめだ!」

「大毛利さん‼」

 おかしな方向で興奮する景元を南武が必死で落ち着かせる。

「うおおおおっ! まさに筋肉の競演だ! あの眠れない夜が甦ってきたようだ! 俺も盛り上がってきたぜ!」

 龍臣が何故か脱ぎ出して、上半身裸になる。

「……どの夜が甦ったのかは分からんが、勝手にヒートアップするな、龍臣! しっかりとジャッジしろ!」

 飛虎がそんな龍臣をたしなめる。

「タイムアップだ! 勝者は……飛虎だ!」

 龍臣の宣告に飛虎が肩で激しく息をしながら、ガッツポーズを取る。いつの間にか周囲に集まってきたギャラリーが飛虎に対して惜しみない拍手を送る。

「ま、負けたのか……?」

「くっ……やりますね」

「へっ、どうだ? お二人さん、俺が本気を出せばこんなもんよ……」

 そこに二人のマッチョが拍手をしながら前に進み出てきた。

「素晴らしい勝負だった! ねえ、細田さん?」

「ええ、太田さん! 実に感動させられました!」

「貴方、あちらで我々と直に筋肉を触れさせ合って、対話しませんか!」

「それがいい! 是非そうしましょう!」

「えっ……い、いや、遠慮しておく」

「遠慮なさらず!」

「お前ら警備員だろう!」

「今日は非番です!」

「ちょ、ちょっと待て、引っ張るな! 龍臣、止めろ……って何故お前も乗り気なんだ⁉」

 飛虎がマッチョの群れに引きずり込まれていく。

「……何事もマイペースが一番です」

 光太の呟きに南武と景元はわけも分からないがとりあえずこくこくと頷いておいた。
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