全人称小説
文字数 2,218文字
あなたが彼女と最後にデートしたのは、四月の晴れた日曜のことだった。
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「二人称小説ですか、珍しいですね」
僕がそう言うと、作家の滝田連十郎先生は小さくうなずいた。
「ちょっと風変わりなものが書きたくなってね。書いてみたはいいものの、初めてのことなので、いまいち感触がつかめない。そこで、まず編集者の君に見てもらおうと思ったわけだ」
「光栄です」
そう言って、僕は再び原稿用紙に視線を落とした。
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レンタカーで海に行こうというあなたの申し出に、彼女は快くうなずいた。あなたは、内心でほくそ笑む。
あなたは彼女を殺すつもりだった。他に好きな女が、具体的には上司の娘と縁談を持つことができ、その話が進みつつあったのだ。そのために、いま付き合っている彼女は邪魔だった。
あらかじめレンタカーを彼女の名前で借りてもらい、家まで迎えに来てもらう。彼女はその事について何の疑問も持たなかった。あなたは車の免許を持っていなかったのだ。
彼女とのデート中、あなたは人目につかないよう細心の注意を払った。花粉症のためと偽ってマスクを着用し、車中に指紋を残さぬよう手袋をする徹底ぶり。デートコースもプラネタリウムなどの暗い場所を選んで回った。
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僕は、ちょっと顔をしかめた。
「これには何かモチーフが?」
「いや、特にはないよ」
滝田は無表情に言う。
僕は背中に冷たいものを感じながら、それでも原稿を読み進めるしかなかった。
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そして、デートの最後、あなたは彼女に夕日を見ようと言って、海に面した崖の上に車を止めさせた。
夕日は水平線に沈みつつあり、空は茜色に染まっていた。
「わぁ、きれい」
そう言って、笑みを浮かべ、髪をかき上げる彼女。
あなたはこっそり彼女の背後に回り、どん、と背中を押した。
突然のことに、悲鳴すら上げることができず、彼女は海へと落ちていった。
海面までは数十メートル。とても助かる高さではない。
「すまないな、成仏してくれ」
あなたは冷めた口調でそう言って、そこから駅までの道のりを口笛を吹きながら歩いていった。
その後、あなたの計画通り、警察は、レンタカーを借りた彼女が一人で崖までやって来て、身を投げたと判断した。
ただ一点、彼女の父親だけは娘の死は他殺だと主張していたが、警察がそれを認めることはなく、やがてその父親もあきらめたのかおとなしくなった。
後顧の憂いがなくなったと判断したあなたは、ようやく上司の娘と結婚することができた。
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僕は震える唇を開いた。
「あ、あんた……どこまで知ってるんだ」
滝田は答えない。ただ、冷たい瞳でこちらを見つめている。
間違いない。こいつは僕の悪事の全てを知っている。
問題は、その悪事を暴く証拠を持っているかどうかだ。証拠さえなければ、妄言の類だと一笑に付すことができる。
僕は原稿に視線を戻す。
これを読めば、滝田が証拠をつかんでいるのかどうかが分かる。
場合によっては、この男を殺さねばならないかもしれない。
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それからのあなたは順風満帆。
会社でも出世し、子宝にも恵まれた。
そんなある日、あなたはある男に呼び出される。それは殺した娘の父親であった。
あなたは警戒するが、行かないわけにはいかない。
なぜなら、その男はあなたが担当している作家だったからだ。
作家は、あなたに一束の原稿を渡す。あなたは原稿に目を通し始めた。
最初は違和感だけだったものが、少しずつ確信に変わっていく。その原稿にはあなたの悪事の一切が書かれていたのだ。
「あ、あんた……どこまで知ってるんだ」
あなたの問いにも作家は答えない。
あなたは再び原稿に視線を戻した。
なんにしろ、作家が確証を得ているのか、それとも単なる想像でしかないのか、確かめる必要がある。
場合によっては、作家を殺さねばならないかもしれない。
あなたは、そう思った。
その時。
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その時、僕は背後から視線を感じた。
おそるおそる振り向くと、そこには――。
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そこには死んだはずの彼女が立っていた。
ゆっくりと、あなたに手を伸ばしてくる。
彼女は血まみれの顔で微笑んで、こう言った。
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『迎えに来たわよ』
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滝田は本村があの世へ連れ去られるのを、黙って見ていた。
やがて、本村たちの姿は消える。
後には、一束の原稿用紙が残るばかり。
「仇は取ったぞ、沙耶音」
ぽつり、と滝田はつぶやく。
そして、原稿用紙をびりびりに破き、窓の外の風に乗せて吹き散らした。
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「二人称小説ですか、珍しいですね」
僕がそう言うと、作家の滝田連十郎先生は小さくうなずいた。
「ちょっと風変わりなものが書きたくなってね。書いてみたはいいものの、初めてのことなので、いまいち感触がつかめない。そこで、まず編集者の君に見てもらおうと思ったわけだ」
「光栄です」
そう言って、僕は再び原稿用紙に視線を落とした。
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レンタカーで海に行こうというあなたの申し出に、彼女は快くうなずいた。あなたは、内心でほくそ笑む。
あなたは彼女を殺すつもりだった。他に好きな女が、具体的には上司の娘と縁談を持つことができ、その話が進みつつあったのだ。そのために、いま付き合っている彼女は邪魔だった。
あらかじめレンタカーを彼女の名前で借りてもらい、家まで迎えに来てもらう。彼女はその事について何の疑問も持たなかった。あなたは車の免許を持っていなかったのだ。
彼女とのデート中、あなたは人目につかないよう細心の注意を払った。花粉症のためと偽ってマスクを着用し、車中に指紋を残さぬよう手袋をする徹底ぶり。デートコースもプラネタリウムなどの暗い場所を選んで回った。
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僕は、ちょっと顔をしかめた。
「これには何かモチーフが?」
「いや、特にはないよ」
滝田は無表情に言う。
僕は背中に冷たいものを感じながら、それでも原稿を読み進めるしかなかった。
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そして、デートの最後、あなたは彼女に夕日を見ようと言って、海に面した崖の上に車を止めさせた。
夕日は水平線に沈みつつあり、空は茜色に染まっていた。
「わぁ、きれい」
そう言って、笑みを浮かべ、髪をかき上げる彼女。
あなたはこっそり彼女の背後に回り、どん、と背中を押した。
突然のことに、悲鳴すら上げることができず、彼女は海へと落ちていった。
海面までは数十メートル。とても助かる高さではない。
「すまないな、成仏してくれ」
あなたは冷めた口調でそう言って、そこから駅までの道のりを口笛を吹きながら歩いていった。
その後、あなたの計画通り、警察は、レンタカーを借りた彼女が一人で崖までやって来て、身を投げたと判断した。
ただ一点、彼女の父親だけは娘の死は他殺だと主張していたが、警察がそれを認めることはなく、やがてその父親もあきらめたのかおとなしくなった。
後顧の憂いがなくなったと判断したあなたは、ようやく上司の娘と結婚することができた。
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僕は震える唇を開いた。
「あ、あんた……どこまで知ってるんだ」
滝田は答えない。ただ、冷たい瞳でこちらを見つめている。
間違いない。こいつは僕の悪事の全てを知っている。
問題は、その悪事を暴く証拠を持っているかどうかだ。証拠さえなければ、妄言の類だと一笑に付すことができる。
僕は原稿に視線を戻す。
これを読めば、滝田が証拠をつかんでいるのかどうかが分かる。
場合によっては、この男を殺さねばならないかもしれない。
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それからのあなたは順風満帆。
会社でも出世し、子宝にも恵まれた。
そんなある日、あなたはある男に呼び出される。それは殺した娘の父親であった。
あなたは警戒するが、行かないわけにはいかない。
なぜなら、その男はあなたが担当している作家だったからだ。
作家は、あなたに一束の原稿を渡す。あなたは原稿に目を通し始めた。
最初は違和感だけだったものが、少しずつ確信に変わっていく。その原稿にはあなたの悪事の一切が書かれていたのだ。
「あ、あんた……どこまで知ってるんだ」
あなたの問いにも作家は答えない。
あなたは再び原稿に視線を戻した。
なんにしろ、作家が確証を得ているのか、それとも単なる想像でしかないのか、確かめる必要がある。
場合によっては、作家を殺さねばならないかもしれない。
あなたは、そう思った。
その時。
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その時、僕は背後から視線を感じた。
おそるおそる振り向くと、そこには――。
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そこには死んだはずの彼女が立っていた。
ゆっくりと、あなたに手を伸ばしてくる。
彼女は血まみれの顔で微笑んで、こう言った。
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『迎えに来たわよ』
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滝田は本村があの世へ連れ去られるのを、黙って見ていた。
やがて、本村たちの姿は消える。
後には、一束の原稿用紙が残るばかり。
「仇は取ったぞ、沙耶音」
ぽつり、と滝田はつぶやく。
そして、原稿用紙をびりびりに破き、窓の外の風に乗せて吹き散らした。