長き夢の終わり

文字数 4,914文字

 毎週、金曜日の帰りは行きつけのカウンターバーで、お気に入りのバーテンダーが作る魅惑のカクテルのマドラーの音、シェイカーの音、お気に入りのカッティンググラスに注がれた色合いと味を楽しむ。
そして周囲を観察するように見回しながら、空間を味わい、やがて時間になると小さな舞台で行われるジャズライブに酔いを流してゆく。この束の間の贅沢を満喫し、やがて帰路へとつく。飲酒は2杯までの自己ルール、酒を楽しむよりは嗜んで、気分よく休みの幕開けをするはずだった。
だが、その日は体調が優れないわけでもないのに、マンションのドアを開ける頃には珍しく酔いが回っていた。一人暮らしの部屋は真っ暗でリビングのソファーに悪酔いのようにまわった酒に少しいら立ち塗れに腰を下ろす。着ていたものが汗ばんでそれが張り付いて皮膚がとても気持ち悪い、翌日から休みということもあり、普段なら皺にならぬようにハンガーへと掛けるがところかまわずに脱ぎ捨てて、出かける際にソファーへと畳んで置いていた薄手の作務衣に袖を通して気分を軽くリフレッシュするとソファーへと寝転んだ。
やがて意識は微睡の中へと誘われ沈み込んでゆく。

 そして、夢を、見た。

 レコードが間延びしたような音と低いエンジンの音のような、いや、遠くから聞こえてくる荒川の濁流のようとも言えようか、神経を逆撫で印象つけるには十分すぎるほどの雑音が寝入った意識を微睡から引き揚げてくる。

やがて、ぼやけた視界の先に、先程まで飲んでいたバーの扉が見えた。

 BAR Garden Crystal

 漆黒の重厚な扉に金色のプレートが吊り下がっている。見始めはいつもと違うけれど、幼い頃から夢で見慣れた扉、使い込まれた古いドアノブを回して扉を引くと金属が擦りあうような古鍵が回るような音と共に金属の擦れる開閉音が響く。

「いらっしゃいませ。ミツキ様」

 お気に入りのバーテンダーではなく、古い写真から現れたような、くすんだ色合いの老バーテンダーが恭しく出迎えを受ける。室内も同色なのだが、バーテンダーの後ろに並ぶ色とりどりのボトルは宝石を散りばめたように光輝いて星空のようでもあった。
 何回見てもため息を漏らすほどに美しいそれらに少し見惚れながら、老バーテンダーの手が席をさし示した。
 L字のカウンターには短線に5席、長線に8席の丸椅子が並んでいる。その線が交わる付け根の席へと光樹は腰を下ろすと、クリスタルグラスに注がれたミネラルウォーターが音もなく卓上へと差し出された。
 やがて、いつもの通りに、きっちりと10秒が過ぎてから、玄関の扉が開いて一回り年上と思われる女性が姿を見せた。思われるというのは実際にそれを確かめるすべがないので仕方がない。

「いらっしゃいませ、トウコ様」

 視線が互いに笑みを浮かべて会釈をした。
 夢のバーでの10年と少しの付き合いのトウコさんとはこの場所でのみで出会う。
現実の本人とは出会ったこともないけれど、いや、現実に居るのかどうかは分からないのだけれど、ここでは気心の知れた中だ。隣の席へ案内されて腰掛けたトウコさんにバーテンダーは同じ飲み物を出すと、いつものように姿勢を正して店の一部のように気配を消した。

 トウコさんとは会話をすることができない。

 店内は無音で喋ることができるのはバーテンダーのみだ。
今日は互いに微笑みながらじっと見つめ合うだけの関係、そして無言の中でも互いに意思の疎通を苦労して編み出していた。文字を書くことはできない、何を描いてもぼやけて読み取ることはできないからだ、差し出される水を使って卓上に書いてもそれは只の水の塊になるだけで、手文字や手話など数多くを試したが、どれもこれも結局うまくはいかなかった。
結局、感情を体現するしかない。といってもここはバーの店内、動き回るなどの派手なことはできないから、ウインクなどなどの表情で互いの意思疎通を図っていた。
大人と成長途中の子供、結局、トウコさんに慰めてもらってばかりで、思春期特有の悩みで拗ねていたり、時には怒っていたり、泣いていたりしては、それを察して寄り添ってくれた。もちろん、数は少ないけれど逆もまた然りだった。
 いつも通りの時間を過ごすことになりそうだと思案していると、トウコさんが耳に輝く雫のような形のガラスのような透明度のイヤリングに触れた。
キラリと眩しい光の反射が目に入って思わず顔を顰めると、ごめんなさいの表情の後にもトウコさんはイヤリングを外すでもなく、少し荒れた指先でそれを幾度となく触り続ける。違い静かに語り合うのでなく、いつもと違う動きに少し驚かされながら表情を見落とさぬようにトウコさんを見つめていた。
やがてイヤリングを通しての光が卓上に零れ落ちる。
その動きに目を凝らしてゆくと、やがて、その光の中に濃淡のようなものがあることに気がついた。トウコさんに視線を向け、光を指さすとそれに同意するようにゆっくりと頷いてくれた。卓上に零れ落ちた光にさらに目を凝らし続けてゆく。
どうやら「文字」であることがようやく理解できた。

『昇仙峡』

 彫り込まれたであろう文字は、揺らぎを見せるが、それを光の反射が補う様に浮かび上がらせる。そしてトウコさんを見て頷いて理解できたことを伝えると、トウコさんの目から一筋の光の筋が伝い落ち嬉しそうに微笑んでいる。その表情はとても幸せそうで思わず見惚れてしまうほどに綺麗だった。
 どういうことか語りかけようとして表情を浮かべようとしたところで、いつもならばもっと時間がるはずなのに、急に二人の間に黒い影が差し込んだ。

『お時間でございます。長らくの御愛顧、ありがとうございました』

 バーテンダーの声だけが聞こえた。やがて、視界が真っ暗に染まる。綺麗な店内も、バーテンダーの姿も、そしてトウコさんの姿も、闇が塗りつぶしてしまったように掻き消えて、やがて足元が無くなったような感覚とともに、意識は再び微睡の淵へと落ちた。

 どれほどの時間を過ぎたのかは分からないが、目を覚ますとカーテンから漏れる朝日の光が朝が来たことを告げていることは理解できた。寝ぼけ眼の目を擦りながらいつもなら夢の記憶は鮮明に思い出すことができていたのに、今回はその記憶を思い出すことができないでいた。ただ、あの夢のバーには二度と訪れることができないであろうことだけはしっかりと確信が持てる。それはつまりトウコさんともう二度と会うことができないと言うことを意味していた。

「何かを伝えてくれたはずだ」

 あまりにも不鮮明な夢の記憶を思いだそうと、差し込まれてくる朝日の光に目を凝らす。一本の線となって床を照らしている光の筋を見つめながらじっと考えてはみるもののまるで体がそれを思考することを嫌がっているかのように感じてしまうほど、思い出すことができない。

「大切なことなのに」

 思い出せないことに苛立ちながら、光の筋が徐々に徐々にその長さを縮めていくさまを見つめて、朝日が昇っていくことにすら焦燥感のようなものに駆られていたが、ふと、カチンと心の中で何かが噛み合うような音を立てた。

「あ、昇だ、そうだ、最初の文字は昇だったはずだ」

 ソファーから飛び起きて、脱ぎ散らかされたスーツのポケットに入っていたスマホを取り出し、思いつくままに昇の文字を入れてから検索を掛ける。当たり前のように恐ろしいほどの数の地名や店名が表示された。順番に見つめていくがそれはどう考えても、夜空の星の中から目的の星を自力で探し出すようなものだ。到底、見つけることなどはできない。

「ああもう、なんで思い出せないんだ」

 苛立ち紛れにスマホをソファー脇の台へと多少乱暴に置き、ソファー前に誂えてある液晶テレビに映り込むムスッとした顔の自分と視線を合わせながらいると、スマホを置いた拍子に台に置かれていたチャンネルに触れてしまったらしく映像が映し出された。

『みなさまの歌です、曲は…』

 英会話の教育番組を前々日に見ていたことを思い出し、そのチャンネルで、幼い頃から慣れ親しんだ歌番組が流れているのを見つめながら、ふと、2曲目のアンコール放送にじっと聞き入っているときのことだった。ミュージックビデオのように流れている影絵の世界の隅に、おそらく作品を展示しているのであろう美術館の名前と、そして、そこに「昇仙峡」と小さな字が躍っていた。

「ここだ!」

 忘れる前にと慌ててスマホのマップアプリで地名を入力する。表示されたのは山梨県甲府市から北の山奥へと入ったあたり、そこに名勝と書かれた昇仙峡という観光地を見つけた。別に確かな確証がある訳ではないのだけれど、漠然としてそして漫然とした間違いないという確証が心の中で溢れかえってきて、そのままマップへとポインティングをした。
 今度の休みにでも行ってみようなどと考えながら、風呂へと入り汗を流して着替え朝食を作りながらふと不安感のようなものが漂い始める。
やがてそれは口をついて言葉となって出てしまった。

「この記憶を持ち続けていることができるのかな…」

 今は思い出せているのかもしれない。でも、それが明日、必ず思い出せるとは限らない。朝の夢のように思い出すことが難しくなることもあるかもしれない、いや、それ以上に昇仙峡の名前のように思い出すことすらも難しくなるのかもしれない。
 そして、トウコさんの存在すらも記憶から消えてしまい、あの夢の中での10年と少しが、淡い泡沫の夢のように消えてなくなる。
 きっとその時、忘れてしまったことすら忘れて、何事もなかったように生きている自分を想像して思わず身震いする。トウコさんがあそこまで手の込んだことをしてくれたということは、居場所をきっと教えてくれたと解釈してもよいのだろうと思う、意味が通じて流してくれた涙の意味も、きっとあるはずだと、後から考えると恐ろしく自分勝手だとは思う、朝食の時間を惜しむように食べ終えると、手帳を開きタブレットを起動して仕事の業務内容と今後のスケジュールの確認をする。運がいいことに、スケジュールに関しては可及的速やかな仕事も、そして、重要な打ち合わせや会議もなく、比較的に落ち着いていたことが幸いだった。さらに一つ幸いしたことは働き方改革の一環で有休を半分使い切っていない部署は上司の評価が駄々下がりするという社内規則ができあがったおかげもあっただろう、休みにもかかわらず迷惑千万な電話をかけて有休を取りたい旨とスケジュールを説明したところ、泣いて喜ぶほどの声が帰ってきた。どうやら、ウチの課員は誰一人として先陣を切るものが居らず、上司は週末の会議でその問題でつるし上げられたらしかった。
 そして月曜深夜にこの静岡SAに立ち寄っていた。
 購入をしたはいいが、週末の買い物以外には使うこともなく。高い駐車場代を払って普段から止まったままの状態に等しかった愛車のリリスは、初めての遠出に喜んでいるようで、高速道路を滑らかに走り抜けてくれた。
 販売機から珈琲を取り出して一口飲んでから、ほっと一息をつく。長距離ドライブなどは学生の時以来で、久しぶりに長く握るハンドルに少々の疲れを覚えたが悪くはない、ゆっくりと体をほぐすように歩きながら車へと戻り、車の周りを2周ほど歩いて足を解してからドアを開けて運転席に座る。
 両親の乗っていた車とは違う、デジタル化の進んだ車内に馴染むには時間がかかったが今はだいぶ慣れた。大学生の頃はSUVの大型車に憧れて購入もしたが、故障の際に台車で借りたリリスが気に入り、その後、中古相場の値上がりで売りに出してそのままこの車へと乗り換えて今に至っているが、特に不満なく、ちょこちょこと車内に手を入れては遊んでいる。
 エンジンスイッチを入れて車を目覚めさせる。シンボルマークの後に各種メーターが切り替わるとちょっとしたコックピットのように感じるのも面白いところかもしれない。

「さて、行きますか」

 駐車場を出て再び本線に入る、大型トラックの中を走り抜けながら新清水ジャンクションから中部横断自動車道へと入り一路甲府へと車を進めた。 
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