第5話 盆

文字数 58,817文字

 八月に入った。
 暦の上では秋だとか何とかで、少しは風が吹き始め、雲が棚引く事が増えた。が、それでも下界はまだまだ猛暑に晒されたものだったが、
「ここは本当に涼しいわね」
 毎度夕方に立ち寄る仮名は、相変わらず山小屋で夕涼みを満喫していた。やはり縁側右隅に腰を下ろしている。
「この時期に冷房がいらないなんて」
 仮名は一人で勝手に感心した。
「有り得ないわ」
「一日中日陰で、風も抜けて熱が籠りませんから」
 具衛は、自宅で話す相手が変わらないのに、最近この話を何度口にしたか分からない。
「周りが暑過ぎるんですよ」
 天気予報で最高気温が三五℃を超える日もある中、山小屋の温度は、具衛の腕時計の気温測定機能による計測値ではあるが、三〇℃を超える事がなかった。実数値もそうだが、耳をすませば川のせせらぎや林間の木々が風に揺れる音など、気分的にも涼しい。
 確かに——
 涼しい。涼しいのだが、それはこの空間を独り占めしている時の話である。仮名は涼しいと言っているが、具衛は断じて涼しくはない。大抵呈茶の後は、静かに居間中央の座卓に移って本を読むなどしながら放置しているのだが、毎度毎度、只ならぬ美女が腰を下ろしているその視界の方の据わりが悪い。山小屋の環境と生活振りに興味を覚えているだけだろう、と勝手に決めつけていた仮名の好奇心が、実は自分自身にも多少は向けられているようだ、と気づいてしまった花火大会前後からは、特に据わりが悪くなってしまった。
 どうやら今回は——
 えらいのに捕まってしまった、と言うのが具衛の率直な感想である。元々そこそこに見てくれの良い具衛は、これまでに全く女気がない事はなかった。が、とある切実な現実により、それを断ち続けた事は既に書いた。理由は当然それだけではなく、女の肌は人並みに恋しいが、その中身には辟易していたりもする。これまでに具衛に絡んで来た女達は、軒並み見た目に違わず穏やかな具衛の草食系たる資質を好み、擦り寄って来た女達である。具衛から言い寄った事がないため、似たようなタイプの女に入れ替わり立ち替わりつき纏われた、と言って良い。大抵はその穏やかさを求めた女達だったためか、打たれ弱くすぐ泣き、その上ヒステリックと言う典型的な女の悪癖を悉く露呈させた。
 この擦り寄って来た女達の過ちは、具衛を見た目のみで判断した事である。見た目に反し剛毅木訥のこの男は、つまりは外柔内剛の懸隔では類を見ない食わせ者だった。その凄まじいまでの意外性から詐欺師呼ばわりされる訳なのだが、心身ともに壮健な優男故か、中身の只ならぬ据わり方が表面上に反映されにくく、そのギャップで悉く波乱を呼び込みがちであり、長らく混沌に身を置いて来た。花火大会の日のトラブルもその表れである。そんな詐欺師と柔い女の関係が保つ筈がない。一緒に波乱に見舞われる女達は、毎度具衛の為人をよく知ろうともせず、勝手な思い込みで勝手に擦り寄って来たにも関わらず、波乱の相が顕在化するや、具衛が反論しない事を良い事に、例外なく一方的に思う様具衛を中傷しては勝手に去って行った。一度ならまだしも、何度か続けば辟易するのも無理はない。そのぐらい具衛の優面は本人の意に反し、ストレス社会に晒され、癒しを求める女達に対し強力な磁力を持っていた。
 が、そんなこんなを経て今回捕まったのは、幸か不幸かこれまでの女達とは全く毛色の違う女である。それ自体は歓迎すべきなのだろうが、余りにも違いが極端であり、その辺りも具衛の波乱振りが伺えようものだった。見た目はぶっちぎりで、過去の女達には悪いが比にならない。中身は寂然としていながらも凛々しく知性的だか、ひしひしと厳然たるものを感じさせる。一言で言うなれば大物感が半端ない。
 正直——
 手に余るとは、具衛でなくとも大抵の男なら思うだろう。現代は男だの女だのと言う時代ではないが、それにしてもこうも男の矜持をあっさりと突き崩し、取って代わって余りあるような男振りを持つ女など中々いるものではない。具衛が知る限りそんな女は、歴史上の武勇伝で耳にしたような女であった。
 正直なところ、
 ——どう言うつもりなんだか。
 と思うのだが、それでもすぐに、
 お遊びの慰み者扱いなんだろう。
 ここ最近もこの堂々巡りである。なるべく考えないようにしているのだが、やはりつい、その有り得ない二人の社会的格差が、どうしてもその思考を頭の片隅に残しては膨らむ。貴賤の差は、どう転ぼうとも貴人の優位性が揺らぐ事はない。召されれば従うのみ。そんな感覚に近かった。問題の焦点はどう召されるか、と言う事である。仮名と名乗るこの女は、そんな具衛をどう召す
 つもり——
 なのか。考えると急に生臭さを覚え、またじわりと汗が出た。会話が弾む時もあれば、殆ど口を開かない事もある。そう言う時は、何か考え事をしているのか、何も考えずぼんやりしたいのか、具衛にはよく分からなかったが、何れにしてもこちらから口を開く事はなかった。
 今日は少し口が、
 重い——
 らしい。
 据わりの悪い具衛は、とにかく本を読む格好さえしていれば、手持ち無沙汰にはならない。スマートフォンを突いたり、ワンセグでテレビを見ても良いのだが、それだと余りにも客を突き放しているような感じがして、それをする気にはなれなかった。如何にも時間潰しをしているかのようであり、それに音が耳障りではないか、と思ったのだ。景色と共に、田舎には都会にはない音がある。昼間こそ蝉一色だが、夕方にもなると、徐々に林間を抜ける風の音、田畑から聞こえて来る虫の声、木の上や空の高い所からたまに聞こえて来る鳥の声などが耳に入るようになる。具衛には無理だが、詩を嗜む者ならば即興でいくらか読む事が出来そうな、そんな情景である。その大敵とも言える国道は数百m先であり、それなりに通行量があるが音は遠い。何となくざわめいている感こそあるが、騒音としては聞こえず、縁側から眺めているとリアルな模型が走っているようでもあり、時の移ろいを繋ぎ止める砂時計のようでもある。客が何処まで本心か分からないものの、体裁として風光明媚の堪能を求めて来訪しているのであれば、曲がりなりにもそれを受け入れるもてなし側にも、それなりの節度は必要だろう、と一応は思った。具衛の中では、その最低ラインは読書、と言う事で自己解釈した。人里離れた山奥の小屋で、変わり者が本を読む、と言う体なら、周囲の情景を著しく阻害しないのではないか。そんな回りくどい事をぐちぐちと考えていると、
「盆踊りがあるんでしょ?」
 仮名が唐突に口を開いた。
「え?」
「今度。そのチラシ」
 仮名が体を捻り、縁側に左手をついて左半身を室内に乗り入れながら、
「いつも何もないから、何かあるとつい目が行っちゃうわ」
 卓上のカラフルなチラシに目を移す。今日も仕事帰りなのだろうか、ベージュを基調としたビジネススカートのコーディネートは、クールビズ仕様なのか若干印象が柔らかい。必ず上着を着用しているが、涼しいと言えども山小屋では流石に脱いでおり、オフホワイトの半袖ブラウス姿である。相変わらず整った身形とその艶かしい仕種が具衛の脳裏を直撃し、つい目が張りついてしまった。
「もしもし?」
 仮名の低く棘を有した、しかし茶目っ気のある呼びかけに、硬直を認識した具衛は慌てて「えーと」などと狼狽する。
「チラシ。テーブルの上の」
 仮名としては、こう言う事は日常茶飯事なのだろう。
「一々見惚れてんじゃないの」
 失態を軽く拾い上げられ、具衛の体感気温は上がる一方である。仮名は目で、部屋の中央に置いている座卓上のチラシを差した。
「この町の商工会が作ったチラシでしょ?」
「良くご存じですね。こんなローカルな祭り」
 具衛は率直に関心を示す。その程度の取るに足らない、田舎の自治会レベルの祭りのチラシだった。盆休みに町の町民グラウンドで開催される、町の商工会主催の盆踊り大会である。
「通りがかりに聞いてね」
 冗談めいた口振りで、仮名が具衛から渡されたチラシを受け取り目を通す。
「案山子か何かに、ですか?」
 具衛はチラシを手渡すと、仮名の左半畳横に胡座をかいた。心情としては、もう少し離れないと落ち着かない。何せ二人切りなのだ。が、近寄っておきながら、いきなりあからさまに離れても変な気を遣わすのではないかと思い、性根を据えて半畳程度の間隔で踏ん張る事にする。山小屋はおろか中山集落の住人は、山小屋に住む具衛のみなのだ。周囲は直径五〇〇m程度の小盆地であり、盆地内には田畑と林地の他は国道と市道と川しかない。昼間であれば農家の人間が、ちらほら田畑で作業をするのを見かけるが、夕方になるとその人達も皆引き上げ無人になる。そもそも農家の人間が、一見して明らかに毛色が違う仮名に軽々しく話しかけるとは到底思えない。となれば「相手は案山子か」とする具衛の言は、そんなに外れたものではなかった。
「そう。あなたみたいに一々人の言う事を勘繰らない親切な案山子さんにね」
 口車で到底具衛が敵わない事は、二人の間では既知である。
「はあ」
 具衛は半分白旗を上げるように、相変わらず間が抜けたような溜息を吐いた。
「まあネタ元は何処だって良いじゃないの」
 それに軽く失笑した仮名は、チラシに目を通しながら、そんな具衛に一息つく間を与えず
「一緒に行かない?」
 畳みかけた。
「ええっ!?
「何よ、大きな声出して。びっくりするでしょ」
 仮名の抗議もそこそこに具衛は、
「こんな田舎の祭りに興味があるんですか?」
 答えも何もあったものではなく、まずはストレートな疑問をぶつける。仮名のようなセレブが、こんな田舎町の祭りに興味を示すとは思えなかった。自治会レベルの祭りなのだから、当然と言えば当然の反応だ。
「退屈なのよ、私も」
 それに対して仮名は、然も物憂気に答えた。
「お盆は休みだし」
 それは、
 ——分かるけど、
 暇潰しにも、その潰し方と言うものがあるだろう。
「旅行とか行かないんですか? リゾート地とかに」
 具衛でなくとも、普通の者が思う仮名のイメージはそう言うものだろう。長期休暇の度、リゾート地で羽振り良く散財しては、英気を養うセレブのイメージだ。
 しかし仮名は、
「飽きたわ」
 事もなげに吐き捨てた。
「はあ、そうですか」
 具衛があからさまに意外そうな声を上げると、
「そ」
 仮名は何のためらいもなく、素気なく切り捨てる。
 ——て、言われても。
 それ以上の休み方がセレブにあるとは思えない具衛は、言葉を失い黙り込むと、仮名の問いかけを失念した。ヒグラシの鳴き始めが少し早くなった山小屋周辺を、しばらくそれが占拠する。二人は目の前に広がる林を、物も言わず遠い目で、只しばらく眺めた。大抵の市井の民が羨むリゾート地での保養を、明確に拒否する仮名に唖然として絶句する具衛と、それを然も当然の向きとして退屈げな仮名と、目の焦点が呆ける理由はそれぞれ異なるが、林間から垣間見る田園風景は、いつも見る者に優しい。
 少しして切り出したのは、また仮名だった。
「リゾートって、何処行っても必ず痛い日本人に出くわすから嫌なのよ」
 仮名はいきなり容赦ない。
「金が全て、客は神様みたいな。旅の恥のかき捨てが平気な人達を見るとどうも、ね——」
 ひどく、やさぐれている。
「うんざりしちゃうのよ」
「そんなにひどいですか、日本人」
「まあ、ね。平和ボケしてるからおめでたいと言ったらないし」
 具衛はそれ以上の追求を止めた。
「ホント、同じ日本人として嫌気が差すわ」
 のだが、仮名の愚痴は止まらない。
 どうやらこれは——
 相当に嫌っているらしい。
 休暇に良い思い出がないと言う事は、人生の半分は鬱屈しているも同じだ。オンオフのオンはどうなのか、現状で具衛は知る由もないが、仮名のオフを揺るがす程の日本人のモラル低下は、仮名でなくとも懸念されるところではある。それを言及する仮名は、では危機管理能力に秀でているのか、と言う事については、やはり今の具衛には知る由もない。のであるが、その為人は旅先で恥のかき捨てをするような人間ではない事は、日頃の雰囲気で何となく理解出来た。
「あなたは今朝、黙祷するタイプよね」
「——え? ええ、まあ」
 突然尋ねられた意味に、瞬間具衛は悩んだが、即座にそれを連想させる日である事を思い出すと、やや遅ればせながらも肯定を示す。
「今日日の日本人が、果たして今朝何人黙祷したかしらね」
「どう、でしょうね」
 そしてそんな仮名に、只ならぬ意外性を覚えた。
「相変わらず、天気もいいし」
 瀬戸内海気候の広島は、この時期雨が少なく、年間を通した晴天率も一番高いと言われる。
「それを加味して投下された、と言われています」
 それでも夕方には夕立が降る季節である。それで、
「それも最良の気象条件が見込まれる朝にね」
 昭和二〇年八月六日午前八時一五分。人類は後戻り出来ない新たなる戦争の姿を見出してしまう事になった。
 ——まさか、
 それを数十年後の同日、如何にも縁遠そうな元大都会暮らしのセレブの口から聞こうとは。それは完全な不意打ちだった。大まかな金勘定ぐらいは長けているのだろう、ぐらいにしか見ようとしていなかった自己の狭量さに呆れる他ない。
「東京の人にしては、珍しいですね」
 思わず出てしまった、然も何か心得ているかのようなその言が、更に追い討ちで自分を切った。
「今は広島よ」
 世界的に「ヒロシマ」で名が通る国際平和都市広島は、その知名度では国内の観光都市と比べても何ら遜色ない。人類史上初の都市に対する核攻撃を受けたヒロシマは、その後七〇年は草木も生えないと言われたが、今では水と緑の豊かな都市へと復活を遂げている。その裏で不断の努力がなされた事と、原爆投下により失われた多くの命があった事は、後世を生きる人間として忘却を許されるものではない。
「広島では毎年特別な日です」
「世界にとってもよ」
 その日の存在を辛うじてメディアで知る、と言う人々が増えている昨今、自己認識している都会人と言うのは明らかに少数派だ。
 何か関わりが——
 ある、と考える具衛の向きは自然と言えた。日本国内でさえ、地域で只ならぬ温度差がある中で、それを世界的視野で捉えるなどは、現代日本では
 学者か活動家か何かか?
 のレベルであると考えて差し支えない。が、それにしては仮名のイメージは、どう考えても
 セレブだよなぁ。
 であり、一瞬で考えを改めた。
「忘れてはいけない日の一つよ」
 それは、
「そうですね」
 そうなのだが、この身形の良い只ならぬ美女がそれを語る事が、具衛にはどうもイメージが重なりにくい。それは具衛の根底に潜む、拭い難い偏見だった。
「未だに必要悪と言って憚らない連中が、世界にはゴロゴロいるの」
 実は、その偏見や差別が生み出す暴力の極みこそが、
「だから未だに、世界中で爆弾がゴロゴロしてるんでしょうね」
 現世のこの現状である。
 その超世的で、暴力性の粋を極めた爆弾を手にするには、人類は余りにも幼かった。この狂気の沙汰は、人類史が続く限り、おそらく永遠に語り継がれる悪弊の象徴となるだろう。
「人間の弱さの表れね」
 仮名は容赦ない。
 必要悪だからこそなくならない、と言う考え方は、言うなれば、ギャンブル、酒、タバコ、薬物など行き過ぎた嗜好に対するそれらと何ら変わらない。それは、人の本能に近い部分を突いてくる魔である。つまりは、世界を滅ぼして余りある力が、
「魔によって左右されてるの」
 と言う事だ。
「綱渡りですね」
 世界の均衡とは、実はそれだけ極めて際どいバランスで成り立っていたりする、と言う事だ。
「——と、ここで言ったところで蛙鳴蝉噪だけど」
 蛙が鳴き、蝉が騒ぐ。まさに今の山小屋の有様である。このような山奥で、微妙な年齢の男女が、よもや核談義をして憂いていようなどと、世界は知りもしない。
「ここは確かに、それに事欠きませんが——」
 前置きした具衛は、
「祈る事は出来ますから」
 と言うに留めた。
 人を知ろうとしない、理解しようとしない、その擦れ違いこそが戦いを生み出す。難しく語られがちな世界の際どい均衡は、実は一人ひとりの考え方の変化で、良くも悪くも簡単に変わってしまう可能性があるものだ。
 仮名に対する見方が少し変わった事は、あえて口にしなかった。

「一人で行っても味気ないのよ」
「は?」
 昼間は蝉が賑やかだが、夕暮れが気持ち早くなって来たためか、ヒグラシに続いて今度は、林間から遠目に見える田の方から蛙の声が大きくなり始めた。文字通り蛙鳴蝉噪の最中、仮名は唐突に話を戻す。
「リゾート」
「はぁ」
 盆踊り、の話だったっけ?
 具衛は勝手に脈を早くする。
「人の手が加えられ過ぎた楽園なんて紛い物だ——」
 突然、何かの劇中めいた紋切り口調で言い放った仮名が、
「——何てね」
 一間置いて、目を瞬かせる具衛をまた現実に引き戻す。
「はあ」
 曖昧な相槌を打った具衛に、仮名は、
「一部の特権階級しか得られないベネフィットに飽きた」
 明け透けな言い方をした。
「って言ったら、大抵の人から反感を買うもんだけど」
 その、あえて切られに来るような仮名が、また寂然とするのを具衛は、この頃看過出来なくなっている。
「古代ローマの貴族みたいだ、と言ったら逆鱗に触れますか?」
「無遠慮に喉元に手を伸ばされた感覚はあるかも」
 仮名は小さく噴いた。
 不作法に切りたくないが、そうしないとこの小難しい女は、それを止めない。具衛の微妙な匙加減は受け入れられたらしかった。それを端に、仮名は喉元に片手を伸ばすと、そろそろと摩り始める。
「——最近ね」
 しばらく摩ったかと思うと、思い至ったかのように、少し重そうな口を開き始めた。
「営みの中で、人々が育んで来た情景や節目に興味が湧いて来て、ね」
 足繁く山小屋を訪ねるのも、そうした心理の表れのようだ。
「これまでは、吐く程じゃなかったけど、食べて来た事には違いないし」
 美食をたらふく堪能するため、満腹になるとわざわざ吐いた、と言われる古代ローマ貴族の揶揄は、当たらずも遠からずらしかった。
「そうした世界を全否定する訳じゃないけど——」
 その世界が生み出す利潤で、世に利益が分配されれば、と言う向きもあったらしい。が、結局は、
「利益は一部の者に搾取されがちだし」
 世の中全体を潤す事には必ずしも繋がらない。つまりは、
「慈善事業の安請け合いをしていたもんよ」
 先日の花火大会での観賞プランなども、
 ——そう言う事か。
 何処かしらぼんやりして、気乗りしていない様子だった仮名を思い出した。そしてそうした懊悩は、世に利益の分配をせがまれる程のセレブである事を確定づける。更に言うなれば、それを口にすると言う事は、それを楽しんではいない、と言う事の表れでもあった。
 だが、
「雑多で猥雑に見えると思いますけど」
 上流階級を生きて来た人間には、集落の盆踊りなど、文字通り子供染みた祭りでしかないだろう。具衛ですらそう思う節があるのだ。世間知らずの令嬢の単なる
「珍しいもの見たさ、と言いたげね」
 図星されると、答えを用意していなかった具衛は、迂闊にも曖昧に目を泳がせる。
「それは否定しない。しないけど、心を寄せる向きはあるのよ」
 が、仮名のその妙な潔さは、少し怯んだ具衛の、心地良い何処かを不意に掠めた。
「ただ一人だと、どうしても敷居が高くて——」
 それは、
 ——そうだろう。
 いきなりホテルのスイートルームに連れ込まれる田舎者然りである。その逆の立場からすれば、それはよく理解出来たものだ。
「ユミさんがいるじゃないですか?」
 取り戻した具衛はすかさず、先日の花火大会で紹介されたアラフィフの淑女を持ち出した。が、
「ユミ叔母さんは家庭持ちだから。休暇は家族水入らずだし」
 と、にべもない。
「そうですか」
「そうなのよ」
 そこでまた、会話が止まる。
 ——参ったなぁ。
 それで、どうしていきなり、二の矢が自分に向けられるのか。具衛はそこが、どうしても理解出来ないでいる。確かに常ならざる美貌の持ち主であり、接点を得られる事はこの上ない喜びである。が、それは同時に途方もない気遣いを要し、同時に疲れるのだ。少しでも自分の価値を高く見せようとする本能が
 そうさせるんだろーなぁ。
 今更つまらない意地や見栄に勝手に翻弄されている愚かな中年である事は、自分でも良く理解している。理解してはいるのだが、どうしても沸々と湧き上がる良からぬ思惑が、
 ホント、何かの修行みたいだ。
 動悸を呼び起こし、更に心肺機能を疲れさせる。具衛はこっそり、大きく溜息を吐いた。
 八月に入ると、早まった夕暮れに比例して影が延びるのも早い。盆地内も既に全域が影っており、直視に耐え得る明度になっていた。依然、空は高く青く明るいが、そのコントラストが過ぎ行く夏を微かに思わせ、見た目にも感じ得る涼しさが、何処となく僅かに切なさを帯びる。
 夏の思い出——。
 具衛は目を遠くに泳がせ、子供の頃を思い起こそうとした。仮名も余暇に良い思い出がないようだったが、具衛もまた、大した思い出のない男だった。特別な所に出掛けた事もなければ、祭りなどもろくに行った事がない。友と言える人間も少なく、それでも外で一緒に遊ぶ事はあったが、周りがゲーム全盛期に突入すると、それを持たない彼は忽ち一人になった。
 ややあって、また口火を切るのは仮名である。
「あなたは休暇ってどうしてるの?」
「私は、二日に一回仕事ですから」
 現況を有りのまま答えると、
「今じゃなくて今までよ」
 仮名は相変わらず顔を正面に向けたまま、僅かに声色に苛立ちを見せた。
「社会に出てからは、休暇に縁なんてありませんでしたよ」
 具衛は普段の冴えない見た目に加えて、更に景気の悪さを盛る。
「純粋にプライベートな旅行なんてした事は、殆どない——ですかね」
「じゃあなた、働き倒して今まで生きて来たって事?」
「そう、ですね」
 それとなく思い出そうとするが、その場ではすぐに、旅行と名のつく行動に記憶が辿りつかなかった。
「出歩くと日頃の疲れが抜けないような気がして、余り好きじゃなかったような——」
 人ごとのようにつけ加えた具衛は、最後に
「それこそ一人ですから。遠出はやっぱり味気ないですし」
 仮名の意に添ったかのような締め方をした。
「そうなのよねぇ——」
 仮名もそこは同調する。
「じゃ、余暇は何してるの? 余暇ぐらいはあったんでしょ、今まででも」
「家でテレビを見たり本読んだり。今と変わりません」
「まあ、そうなるのよねぇ。やっぱり」
 仮名はやはり追認した。
 仮名は具衛が口にした内容をそのまま額面通りに捉えたようだったが、実はその月並みな額面の裏で、具衛はその実中々の本の虫であった。子供の頃、ゲームを持たなかった彼を救ったのは、偶然にも家の近くにあった市立図書館だった。
「本ってどんなの読むの?」
「え? 本ですか——何かお見合いみたいだな」
 具衛が照れると「何言ってんの」とすかさず仮名が窘める。
「お見合いは、向かい合ってるからお見合いなのよ」
 と仮名が
「今は見合ってないでしょ」
 ふと左を向くと、それに気づいた具衛が少し右を見やり、何となくお互いを見合うようになりギクシャクする。
「また。良い加減慣れなさいよ」
 仮名がすかさず釘を刺した。
 確信犯的なその動きが内心悔しいが、早々慣れるレベルではないものだから、未だにどうしようにもない。なされるがままの体たらくだ。美人は三日見れば飽きる、と語られたものだが、
 絶対ウソだな。
 只ならぬ動揺の中で、密かに具衛はその格言を全否定する。それにしても、つい妙な迂闊を吐いてしまったものだ。
「あなたがギクシャクするのは勝手だけど、ギクシャクは伝染するのよ」
 悪ふざけに調子づいた仮名は、にやにやしながらも
「一々動揺してたら、思いがけず何かが捻じ曲がって擦れ違うかも知れないじゃない。そんなの嫌でしょ、お互い」
 しれっと言って、急に黙り込んだ。悪乗りした勢いでも、やはり恥ずかしさが勝ったらしい。それはつまり、裏を返せば丁寧に思いを紡ぎたい、と言ったに等しい。仮名の方から、小さな舌打ちが聞こえて来た。そちらの方をちらっと覗き見ると、床に置いた手の指が一本小刻みに忙しく動いており、何となく耳が赤くなっている、ように見える。
 うわ。
 また何の地雷を踏んだものか、よく分からなかったが、明らかに規模が定かではないものの、爆発しそうな勢いである。これは何か、
 ——気を回せ、と?
 言う事のようだ、と何となく気づきはするが、慣れろと言われても具衛にしてみれば、毎度毎度殆ど有名女優と一緒にいるような感覚だ。早々慣れるものではない。しかも女優と会話を紡ぐなどあり得ない話である。
 深みにはまると土壺に突っ込んで身動きとれそうにない、と判断した具衛は
「本は、気になったものは何でも読みます」
 気が利かないままに、無理矢理話を本線に引き戻した。
「最近は小説や漫画が多いですかね」
「漫画って、見当たらないじゃない」
 仮名は本線に戻る事を容認するが、追求の手は緩めない。確かに部屋の中は見える範囲には、相変わらず何もなかった。
「借りるんですよ、図書館で」
「図書館で漫画が借りられるの?」
「ええ」
 全国的にも漫画を借りる事が出来る図書館は、一般書籍のそれと比べると圧倒的に少ないが、無い事はない。広島には全国的にも珍しい「まんが図書館」と言う漫画に特化した図書館があり、老若男女問わず一定数の支持者が存在する。
「いいですよー図書館は。只で借りられるので。とても有意義で優れた公共財の一つです」
 具衛は嬉しそうに手放しで褒めちぎった。実は修学期を始め、娯楽の少ない彼の人生を救ったのは他ならぬ図書館だった事を、この時の仮名は知る由もない。この男はこの年齢にして、漫画込みだが既に軽く万を超える書物を読み込んでいると言う、中々の読書家であった。それが知識の獲得に繋がったかどうかは別として、苦難を強いられる事が多かった彼の人生を、少なからず有意義なものにした事は間違いない。
「まあ、私も本は好きだけど。本を読むだけの余暇もちょっとね」
 仮名は何処となく思わせ振りだ。
「私は本だけでも良いですけど」
 が、具衛は、深い詮索なしに素直な気持ちを述べた。仮名の顔色が、また悪化する。また急に押し黙ると、やや口を尖らせ静かに溜息を一つ吐いた。
「な、何ですか?」
 それに気づいた具衛が、及び腰で少し引く仕種を見せると、
「だからつき合えって言ってんのよ」
「えっ!?
「もーあなたは抜けている時はホント抜けてるわね」
 今度は何やら怒っている。具衛は慌てて
「えーっと、盆踊りでしたっけ!?
 話の源流まで遡り、どさくさ紛れに帳尻を合わせた。
「そうよ!」
 仮名の頭の周囲から風の音がしそうな勢いで具衛を一睨みしたかと思うと、仮名はまた正面を向き直す。今度は恥ずかしそうだ。耳に加えて頬の辺りが僅かに紅潮している様子だが、具衛は抑揚の激しいその勘気ばかりが気になっている。
「仕事があるから遠出は無理でしょ! あなたは」
 仮名が言うと
「私の都合、ですか?」
 具衛は恐る恐るの感で答えた。
「他に誰がいるのよ」
 この場に、と仮名は恥ずかしさを拭い切れていない。それでも押し切り気味に
「さっきも言ったけど、整えられたリゾートはもう飽きたのよ! 批判したけりゃしなさいな! 折角の休みだし一人でぼんやりするのも良いけど、全部一人ってのは味気ないのよ!」
 と吐くと、
「一度ローカルな祭りに行ってみたいと思っていたの! その土地の祭りってのに」
 と繋いで、
「その土地の祭りに行くのなら、その土地の人間に連れて行って貰った方が良いに決まってるでしょ!」
 三段論法気味に一気に捲し立てて締めた。その無理矢理のやっつけ繋ぎ感に、具衛は思わず突っ込みたくなるが、これ以上頭に血を上らすとまた何を言われるか分からない。一見して、怒っているような恥ずかしそうな、複雑な感情そのままに
「案内しなさいよ。ユミ叔母さんも誘ってみるから」
 仮名は言うなり立ち上がった。
「花火大会の時は何か変なケチがついたし、最初から最後まで、ちゃんとした祭り感を楽しみたいとしたもんでしょ」
 今度はあなたがホストよ、と言うと、そのまま具衛の返事も聞かず
「もう帰る!」
 妙に癇癪めいた様子で縁側を後にした。
 その突っ込む相手が、山小屋の庭先に止めてある代車に乗り込んだ頃になって
「土地の人って言っても、来たばかりで何にも知らないのに」
 ようやく独り言ちた具衛は、その車が出て行くのを呆然と見送った。トレードマークとも言うべき赤のアルベールは、具衛の助言に従いナンバー及び塗色変更中につき、今は代車である。梅雨時の事故後に乗っていた独国のハイグレード車も結局代車だったらしいが、今回の代車は英国が誇る高級車メーカーのハイグレードクーペだ。代車でこのクラスの車を乗り回す事が出来る仮名は、見るからにプライドが高そうであるのに、代車を用いる事になった要因とその助言をあっさり受け入れる素直さも共存する。
 プライドは誰に対しても高いであろう事は容易に推測出来る。が、
 素直さは——
 どうなのか。
 果たして万人向けなのかと、思わぬ疑問に触れてしまうと、またもや少し脈が早くなった。もし仮名が、通常はプライドの塊で、限られた対象に対してのみ素直な一面を示すのであれば、具衛としてはこれは一大事だ。
 ホント——
 どう言うつもりなのか。
 既に立ち去った代車が止まっていた庭先を呆然と眺めながら、具衛の頭はまた堂々巡りを始めた。

 しかして盆休みは、意外な早さでやって来た。世間が盆を迎えると、会社勤めの真琴も盆休みに入った。のだが、気がつくと既に後半戦に入ってしまっている。そのある夕方。自宅リビングで浴衣を着込み、真琴は背筋を伸ばしてソファーに座っていた。背もたれに体を預けると、帯が潰れてしまうためだ。ソファー前のテーブルの上には、由美子が昨日持ち帰った東京土産の茶菓子と、グラスに入った冷茶が置かれている。それらを飲み食いしながら真琴は、由美子の浴衣の着つけを待っていた。浴衣は、真琴が呉服大手の路面店からレンタルしたものだ。普段着ない物を買い漁る趣味は真琴にはない。余り物を持ちたがらない真琴は、大抵の物を最近流行りのサブスクリプションで済ましていた。が、それは良いとして、和装に慣れている由美子にしては、いつになく着つけに手間取っている。
 一〇日間ある真琴の盆休みの前半戦は、自宅に籠りっ切りだった。テレビを見たり、読書をしたりと言った事は先生と同様だったが、武芸に嗜みのある彼女の家には竹刀と木刀と袴がある。それを着込んで一人稽古に汗を流したり、キーボードを弾いたりと、通常人が自宅で嗜む事は余りない、趣味と言うか気ばらしの術を真琴は持っていた。一通り満喫して人心地すると、昼からのんびりと入浴して、早々にバスローブでそのまま昼寝をしたり、動画配信サービスの映画を見たり。夜になると由美子の作り置いた物を冷蔵庫から出して食し、不足とあらば冷蔵庫にある物で手早く作るなどして食べた。後は眠たくなるまで晩酌タイムに突入し、そのままソファーで寝落ちする、と言う事を何日か繰り返すと、盆休みの前半戦は終わっていた。
 一見すると、だらずに見えがちな過ごし方だが、実は額面通り行かないのが先生同様、真琴の食わせ者振りである。仕事の役割上か自らが置かれた立場上か。情報を拾い上げる癖はどんな状況下でも変わらないと見え、世間で言われるところの上に立つ者としての責務を真琴はそれなりに理解しており、その務めを果たして来た。例えばテレビは、衛星放送で数か国語のニュースや国際情勢を情報番組でザッピングする。読書も新聞がメインだが、タブレットで購読している世界各国の新聞や、各種学術分野で気に入ったオンライン週刊・月刊誌を読み漁る。日本語の物や娯楽は殆ど見当たらない。木刀を振り込む音は、とても妙齢の女が振っているとは思えない鋭さで、しかも普通の木刀の二倍はあろうかと言うゴツさである。キーボードはクラシックからポップスまで、気に入った楽曲は耳コピで覚えている。ポップスなどは歌もつくが、それがまた中々の美声だ。自宅の床や壁は、当然特殊防音防振加工である事は言うまでもない。バスローブ姿は日本人らしからぬ程板についており、鍛えられた体つきに弛緩は皆無だ。有りがちな短足ガニ股とは無縁であり、腰高にして足が長く非常に均整がとれている。すっぴんながら色白で肌艶も良く、文字通り見目麗しい。洋画は日本語字幕を要せず、夕食は抜群の手性で、冷蔵庫内にある物で、その時々の自分が欲する物を確実にイメージし、それを見事に再現する事が出来る。本来ならば家政士がいなくても家事は人並み以上にこなせるが、プライベートを充実させるには手助けは欲しいらしく、由美子の支えは必須だ。また晩酌は、実はいくらでも飲めるタイプで、それでも普段は健康的観点から所謂一合ラインを心がけるが、休日の中日ともなると少し量が嵩む事が玉に瑕である。由美子がいると確実に小言が入るが、その由美子は真琴が盆休みに入るや否や、真琴が与えた盆休みに従い夫のいる東京へ年齢を憚らずルンルンで帰省した。昨日広島に帰って来たが、見るからに艶やかであり、次の長期休暇に備えて充電完了と言った様子である。片や真琴はと言うと、然しもの美肌もここ数日の酒乱で流石に少々くたびれ気味だ。日頃の鬱積から、ついたがが緩み、やや悪い酒になってしまった。
「お待たせ致しました」
 由美子が真琴の前に現れて軽くお辞儀をした。何処となく申し訳なさげな表情の裏に、何処となくほくほく顔を堪えているような面持ちが透けて見える。
「サイズが合わなかったかしら?」
 真琴が訝しげに尋ねると、
「いえ」
 由美子は恥ずかしそうに、
「少し、細くなったようでして」
 と答えた。
「あらそう。もしかして暑気あたり? それとも帰省疲れ?」
 と気遣う真琴を
「いえ、そうではなく」
 由美子は答えにくそうに、いつになくモジモジしており、妙に腰つきに落ち着きがない。顔色は悪くなく、無理に込み上げて来る嬉しさを噛み殺しているかのような素振りを見せている事から、悪い事ではなさそうなのだが。
「食が落ちたのは、確かにそうなのですが」
 その理由が、とまた思わせ振りである。
「どうしたの? 向こうで何かあったの?」
 真琴が核心に迫ると、
「生の夫を見ると、胸が詰まって」
 由美子は左手を左頬に宛てがい、
「普段の三分の一も食べられなかったものですから」
 右腕を腹回りに絡め、なよなよと然も恥ずかしそうに身をくねらせた。
「そ、それは良かったわ、ね」
 真琴は思わぬ惚気を喰らわされ、内心、
 ——心配して損したわ。
 呆れたものだ。
 が、よくよく考えれば、この仲の良い夫婦を引き離したのは、自分が拝み倒して実家にいたこの名家政を広島まで連れて来た、と言う我儘が原因である。由美子にしてみても、この年で初の単身赴任だ。真琴は、口先だけは何とか棘を含まず、辛うじて気遣いを見せる事に務めた。
「じゃ、ユミさん行こうか」
 真琴は生来、人の名前を略して呼ぶ事はない。名前の呼び方一つが人の尊厳を著しく損ない兼ねないと言う事を、それなりの位置で人の上に立つこの女傑は理解している。要するに、
 何を聞かされるか分かったものじゃないわ。
 先生に合う時の役柄モードに仕立て上げさすための婉曲だった。
 真琴は気遣いも早々に立ち上がると
「久し振りに胸の高鳴りが治らなくなってどうしようかと、あ、お嬢様? お嬢様!」
 ソファー前で独演を続ける由美子を放置し、真琴はツカツカと部屋を後にし始めた。今日は、先生の町の盆踊り大会である。
「夕方五時半に、先生の山小屋だから急がないと」
 巾着を手にすると、玄関でフラットシューズを履き、下駄を手に持つ。
「下駄はお持ちになられるのですか」
「下駄で車は運転出来ないでしょ」
 真琴は素気なく玄関を出た。
「車ではシューズ履いておくわ。あなたは下駄で良いわよ」
 下駄履きでの車の運転は、道路交通法に抵触する可能性が強く、更に詳細では、各都道府県公安委員会が定める細則で大抵は禁止されている。ブレーキ操作を始めとする
「足元が危ないから」
 操作の確実性が失われやすいためだ。これは下駄に限らず、ヒールの高い靴やサンダルなども同様に禁止されている事が殆どであるが、世間向けには余り知られておらず、サンダルで運転するドライバーは多い。
「お、お待ちくださいまし」
 由美子が慌てて用意されている下駄に足を突っ込み、カラコロと音を立てて小走りに真琴に追いすがるが、真琴は早くも外へ出てしまっている。由美子が慌ててスライド式の重厚な玄関ドアを開けると、最近の学校に見られるオープンスペース並の廊下が展開しており、その端にガラス張りの塀が見えた。その向こう側には緑地が広がり、更にその数十メートル向こう側には、やはり同様の塀と廊下が見える。よく見ると、緑地と緑地の間は空洞になっていた。実はこれを真上から見ると、数階層下に降りる度に、緑地が段々畑のように中央部の空洞に少しずつ張り出して行き、最後は緑地がなくなり空洞だけとなり、一番下の中庭まで真っ逆さまと言う構造だ。大部分の階層が、果たして何メートルあろうか、と言う凄まじい高さを作り出す中庭直結の空洞に直面するストレスを受けるのに対し、極高層に住まう事を許されたセレブ住民に対してのみ、中庭直結の空洞と廊下の間に、緑地の緩衝地帯がついた階層を提供している、と言う広島切ってのタワーマンションの最上階が真琴の自宅であった。中庭を望む景色は、さながら空中都市の趣きがある。
「お、お嬢様!」
 カラコロと下駄で小走りになる由美子に構わず、まだ足元が軽い真琴の歩速は明らかに速く、差は広がる一方だ。真琴は既に階層の端にあるエレベーターの前まで肉薄している。このEVは高層階専用であるため、大抵殆ど待ち時間を要しない。由美子がようやくEVまで到達すると、ちょうどそのドアが開いた。ドアの上にある階層表示は六〇階の旨が掲げられている。
「お、お待ちを」
 由美子が少し息を切らす様子に、
「惚気ちゃって体が火照ってるでしょうから、先に車に行ってエアコンを効かせとこうと思ったのよ」
 真琴はつい嫌味に吐いてしまった。
「まあ、大人気ない事でございますこと」
「そう?」
 などと軽い応酬を交わす二人を乗せたEVのドアが閉まるや、次にドアが開いた地下駐車場で二人が降りるまでに三十秒もかからなかった。駐車枠も近く、高層世帯向けの個別枠へ向かい、件の代車に乗り込みエンジンスタート後、スロープから地上に駆け上がった先の出口は、車の走行音が頻繁な市内の真ん中だ。取付道路から街の大通りに直結する先には、半感応式信号交差点が設置され、周囲の交通に対する優先権の恩恵を受けつつ交差点を抜けると、先日暴走車に絡まれた広島湾岸に位置する広島高速道路の最寄りICまで五分とかからなかった。
「この分なら、約束の時間に間に合うわね」
「一体どちらまで?」
「だから山の隠れ家までだって」
 このセレブ達が向かう先が、件の山小屋なのであるから驚きと言う他に言葉が見当たらない。この圧倒的な格差を先生はまだ知らない、と言う訳だ。いや知らぬが仏、と言うべきだろうか。真琴が誘った時に、冷やかしと受け止められる向きが先生にあった事は、無理からぬもの、と言ってもこの際差し支えないとしたものだろう。無理矢理素性を隠しているとは言え、その振舞は常なる真琴でしかないのだ。その断片を拾い集められれば、ある程度の推測は成り立つであろう事など、ある程度は予想していた真琴である。大抵の俗人なら、目を眩ます程の財持ちである故、その苦悩など理解して貰えない事が当たり前の身だ。そうした反応に慣れているからとて、機微に疎い訳ではない。むしろその逆だった。心を寄せる向きはある、と言ったのは本心だ。
 実のところ、真琴が盆踊りを知り得た発端は、その関係者が協賛金出資の依頼で勤務先を訪ねて来た事による。企業と住民。持ちつ持たれつ。より良い関係で有りたい、と願った真琴が個人的にも出資したのは、赴任間もない春先の事だった。日常の多忙に埋没していた記憶でしかなかったそれが掘り起こされたのは、チラシなどではなく、開催前に協賛金出資者宛てに届いた正式な案内状である。だから花火大会の時と同様、今回も半分はつき合いだったり
 ——するのよねー実は。
 なのだが、それをひけらかして訪ねるなど、やはり真琴の性ではなく、する気にはなれなかった。だからと言って、後々のためを思えば全く顔を出さない訳にも行かず、かと言って一人で乗り込む度胸も実はない。かく言う真琴は、実のところ協賛金出資企業の代表者の代理にも成り得る身である。本来ならば、企業のお膝元たる自治体住民と懇親を深める絶好の機会を逸する事なく、堂々とその役を振り撒くべきなのだ。が、真琴はそうしたスタンドプレーは好まない。人の上に立つ人間にしか出来ない事がある。その役目を果たせ、とはよく言われた帝王学だったが、真琴の本性は、上の世界で顔を広め口先三寸で人を動かす王と言うより、自らを見つめ自己を頼りに突き進む士であった。だから上に立つ者として同じ人の顔を見るのであれば、名もなき人々の顔を、そうした日常の喜怒哀楽に心を寄せたい、とする思いで生きて来たつもりだった。のだが。予想通り、先生に懐疑的な姿勢を示されると、慣れている筈のそうした反応が、意外にも胸の奥で鈍痛を覚えさせられたものだった。
 ——今更だわ。
 人に理解を求めようとする自分に驚きながらも、真琴は高速ICを通過すると、一路通勤コースを浴衣姿にサングラスの出立ちで代車のアクセルを踏み増した。

 その夕方。
 盆踊り初日を迎えた町において、具衛は山小屋で仮名を待ち受けていた。町の盆踊り大会は二日間あり、どちらかと言うと二日目の方が盛り上がるそうだが、二日目は具衛が仕事であるため、初日の部に出掛ける事になった。しかし本当に来るのか、正直疑わしい。いくら一人が退屈とは言え、セレブが田舎町の盆踊りに参加するなど聞いた事がない。例え本当に来て参加したとしても、すぐに退屈してしまうに違いない。町の商工会が主催と言えども、的屋も来ないような自治会レベルの祭りである。もっとも屋台は地元住民の様々な組織や寄り合いが、様々な屋台を出すようだが、どれもこれも月並み感が強く、到底セレブを満足させるようなものではない。
「ホントに来るのかねぇ——」
 居間の卓上で、相変わらず図書館から借りている本を読んでいると、例によって如何にも高級スポーツカーと言わんばかりのエンジン音がその耳に届き始めた。そして例によって、すっかり慣れた動きで、山小屋の庭先までバックして来て止まる。
「ホントに来たか」
 どうやら前にも
 こんな事が——
 あったような。
 首を捻りながらも本を隣の物干し部屋にある小棚に収めた具衛は、縁側の靴脱石に置いている突っ掛けを履いて、庭先で車を出迎えた。するとちょうどその時、右前ドアが開いて浴衣の裾が出て来たかと思うと、見事な御御足が現れるではないか。
 うわっ!
 思わず視線が釘づけになりそうになるのを、無理矢理斜め上に頭を振ったところで仮名が降車して来た。
「また、どうしたの?」
 仮名は車を着ける時、山小屋から見てその目の前にある庭の左端に寄せて、バックで車を止める。常に縁側の右端に腰を降ろす事から、なるべく座る目の前の視界を確保したいとした癖だ。それに仮名のプライベートカーは仏国車であり、左ハンドルだから左づけだとバックもしやすい。だが今は、ナンバーと車体色の変更中であり代車である。そしてその代車は、英国産の高級スポーツカーの右ハンドル車だった。そのことをすっかり失念していた具衛は、右ドアから突然出て来た見事な足に肝を抜かれてしまった、と言う顛末である。その神々しさ故直視に耐え難い、正確には直視すると目をひっぺがすのに多大な労力を要する仮名の外見なのだ。不意打ちのようにかまされると堪ったものではない。殆ど突然びっくり箱を開けられたようなものだった。
「いや、虫が」
 それでも辛うじて具衛は、遅ればせながらも頭上で手を振り、わざとらしく虫を追い払う仕種をして見せる。
「そう」
 事もなげに答えた仮名は、
「ちょっと物干し部屋借りて良いかしら? 着崩れ直したいんだけど」
 と言いながら、尻から腿の辺りを軽く手で撫でる仕種をした。元来直線的であり体のラインが出にくいのが和装の特徴の一つ、の筈である。が、薄い浴衣の事であり、かつまた均整のとれた体型を持つ仮名の事だ。それをわざわざ撫でつけられると不意に体のラインが浮き彫りになり、不用意にそれを目にした具衛が慄かんばかりに及び腰になった。濃青を基調とした水色の花車柄の浴衣は、男の具衛の目では、何処が着崩れしているのか検討がつかない。相変わらずの見事な着こなし振りはそれだけで目を奪われんばかりで、加えて一部分なりとも体のラインが露わになると、大抵の愚かな男としては垂涎ものである。
「ど、どうぞ」
 内心激しく動揺しながらも、外面はどうにか取り繕った、つもりだ。その左手は頭上でわざとらしく仮想の虫を追払いながらも、右手は居間の隣部屋を示す。
「あなたにしか見えない虫かしらね」
「お盆だから虫も還って来ているんでしょう」
 助手席からユミさんが降りて来ると、こちらは紺色を基調とした白の紫陽花柄であり、やはり良く似合っていた。
「まあ、本当に山小屋ですこと」
「でしょう」
 しっとりとはしゃぐ二人の淑女をよそに、具衛は二人が居間の東隣にある三畳間に入るまで虫を追い払う振りに余念がなかった。
 今ではすっかり干物を乾燥させる部屋として定着した居間の隣部屋は、合わせて洗濯物も干すようになり、湿気を嫌う物を置く部屋になった事から物干し部屋と呼ばれている。もっともそう呼ぶ人間は、具衛と仮名だけであるが。
 これでも少しは、
 ——慣れた方だ。
 以前は振りすら出来なかった。それだけでも格段の進歩である。二人が部屋に入り身支度を整え始めると、具衛は身の潔白を示すため、物干し部屋から距離を置いて縁側に腰を降ろした。いつも仮名が訪ねて来た時に腰を降ろす定位置である。自分が借主の家であるのに、そこだけは仮名のプライベートスペースのようになってしまっており、そこに腰を降ろした事に気づいた具衛は、縁側中央の靴脱石辺りに座り直した。
「あ」
 そうして今になって、重大な問題に行き着く。これからこの二人を引き連れて
 祭りに行くのかよ——
 文字通り何を今更、である。
 この男、平生は良く抜けていると仮名は評したものだが、その言は彼の形を良く理解していると言えた。土壇場に強い事でバランスをとっているかのような具衛は、日頃の存在感のなさと言ったら、俄かに漂わせる厭世観とも似通った達観も手伝い相当に影が薄い。その抜け作が、浴衣姿の美女二人を引き連れてこれから祭りに出掛けようと言うのだ。一言で言うと目立って仕方がない。田舎でありうるさい蝿に纏わりつかれる事はないだろうが、人口が二千人少しの町であり、住人同士の顔の近さは言うまでもない。辺境故ビジター客など考えにくく、よそ者を警戒する排他性もまた、何処ぞの田舎並に根強い。そこへ向けて新参者の冴えない男が、二人の美女を侍らす構図は我ながら
 ——有り得ない。
 何を言われるか分かったものではない。誰にか。誰かにだ。
「これは——」
 弱った。
「どうしたの?」
「わっ」
 物干し部屋の襖が予想外に早く開き、独り言を思い切り拾われた具衛が振り返ると、お面を被った二人が縁側の靴脱石に近寄って来た。浴衣を着た時の所作に慣れているのか、二人とも殆ど物音を立てない。片膝をついてしゃがんだかと思うと、靴脱石の上にある下駄に足を通して庭に出る。仮名が先でユミさんが後だったが、寸分違わぬ洗練された柔らかい所作に具衛はまた、思わず目を奪われてしまった。
「また、ポケーっとしてる」
 先に庭に出ていた仮名が両手を腰に当て、仁王立ちで軒から庭に向けてかかっているターフ越しに具衛を見据える。外はまだ明るく、外から室内への視認性は悪い筈だが、今の具衛はそれだけ分かりやすい、と言う事らしかった。
「え、いや、お面どうしたんですか?」
 無理矢理話題を逸らして、事実気になったお面の事に触れる。一見して狐のお面だが口から下半分がない。半狐面と呼ばれる半面である。リアルな物ではなく、柔らかい印象で何処となく愛嬌のある漫画タッチのお面だ。
「素顔でよそ者がうろついたら、土地の人が動揺するでしょ」
 仮名は仮名で、自らを取り巻く懸念は当然に認識しているらしかった。先日の花火大会の待ち合わせでも、仮名は駅前ロータリーで明白な異彩を放っては注目されており、そうした事は仮名の中では日常茶飯事であることは疑いようがない。
「まあ、ここの祭りは煩わしいのはいないと思うけど」
 それに対する免疫や対策には、慣れていて当然と言えば当然である。
「盆踊りだし、仮面舞踏会のバタフライマスクじゃ流石に浮いちゃうでしょ。ネットで探してみたら、可愛らしいこれがあったから、取り寄せたって訳」
 仮名は少し得意気だ。確かにこれなら美貌を振り撒き、無駄に周囲に動揺を与える事にはならないだろう。しかし立居振舞の良さは露見したままだ。やはり周囲にそれなりの動揺を振り撒く恐れは多分にある。
「うーん、確かに顔を晒すよりは良いですが」
 見た目が良過ぎる、との続き文句は脳裏に留めた。また土壺にはまっても困る。ユミさんもいる事であるし、何を言われるか分かったものではない。
「でしょ。前回のトラブルめいたのはやっぱりちょっと残念だしね。折角だから、余計な邪魔を受ける事なく楽しみたいわ」
 ねえユミさん、と仮名が同じく半狐面を被っているユミさんに問いかけたところ
「そうなのよねぇ」
 ユミさんも深く同意を示した。
 やはり仮名と似たような経験を有する様子である。確かにユミさんも、流石に仮名には及ばないまでも、それ相応の納得の容貌ではある。
「多少のケチは、またつきかも知れませんよ」
「あら、なんで?」
「私は大体、嵐を呼びがちなので」
「あら、自分で!?
「嵐を呼ぶ男を語るのですか!?
 具衛以外は、古い邦画のタイトルに反応したように噴き出した。
 意外に——
 古い時代を知っている、などと分析していると、
「ちょっと、古臭いとか思ってんじゃないわよ!」
 例の如く仮名に見透かされ、地雷を避けるために「いやその」などと、無様な否定をするはめになった。
「あなたの波乱なんて、巻き込まれたうちに入らないわ」
「え?」
「だって結局、あなたが一人でけりつけるじゃない」
 こう言う時は、大体が嫌がられて来た記憶しかなかった具衛だが、
「まあだから、ホントは別に何とも思ってないんだけど」
 それは——
 随分と手放しに褒められたものだ。
「でもまあ、やっぱりああ言うケチは、ないに越したことはないし」
 その割り切り方がまた、如何にもあっさりしていて本当に
 ——男らしい。
 具衛は密かに失笑した。
「今回はあなたに預けたんだし。ほら、さっさと案内しなさい」
 仮名は軽々しく言う事を言うと、具衛を囃し立てる。
「バスで行くんでしょ?」
 冗談半分に捉えていた具衛としては、そのはしゃぎ様は意外で、
「私は今回は、私服で行きますよ。浴衣はすかすかして落ち着かないんで」
 渋々立ち上がり、普段着のまま出かける準備を始めた。
「見れない事ないのに。まあ今回は用意してないけど」
 高飛車な物言いもすっかり馴染んで来たものだったが、いざ頼られるとなると思いがけずくすぐったかった。

 のだったが。
 ——う、うるさい。
 役所出張所で主催者運行のバスを降りて見送った具衛は、
「賑やかですねぇ」
「会場の凝縮感が想像通りだわ」
 口々に好きな事を吐いている半狐面の二人を横目に、早速軽く呆れていた。信頼されたのは良かった。良かったのだが、
 少しは空気を読めんかこの人は。
 バス停でバスを待っていては、
「遅い」
「時間あってるの?」
 などと、せっかち振りを発揮。乗れば乗ったで、
「遅い」
「ホントのどかねぇ」
 などと、人目も憚らずデリケートな発言を連発。降りる時は降りる時で、
「何、もう降りるの?」
「意外に近いわね」
「お金は要らないの?」
 ずけずけ口にしては、周囲の失笑を買ったものだ。極めつけは、
「バスに乗るのは初めてなのよ」
 などと吐いて驚かせた。
「り、陸上交通の巨頭ですが」
「お生憎様で無縁でね」
 ますます高まるお嬢様感に
「ごめんなさいねぇ。初めての事ではしゃいだものでして」
 ユミさんがこっそり囁いて、更に失笑を誘ったものだ。
「そこ! こそこそしない! 行くわよ!」
 仮名に急かされた二人の従者は、慌ててその背後に追いすがる。
 町の大抵の施設は役所出張所周辺にあり、盆踊り会場である町民グラウンドにしても同じだった。出張所から歩いて数分の所にあるのであるが、バスは会場まで入らず、また旅立った。車が多くて入れなかったのだ。会場周辺は、それ程に人や車が溢れていた。駐車場は既に満車で、付近にある小学校等の公共施設のグラウンドも軒並み開放され臨時駐車場となっているが、それでも車は入り切らず周辺道路に溢れている。とは言え、周辺は駐車禁止場所ではなく、実際に車を止めたところで一般交通とは隔離されたエリアであるため何ら邪魔にはならなかった。
「車が多いですねぇ」
「来る時は渋滞してなかったけど」
「それだけみんな早く来たんでしょう」
 三人ともこの祭りには初参加であるため、祭りの勝手が分からない。それが偶然の結果として、仮名とユミさんに渋滞を回避させたようである。二人が山小屋までやって来たルートは、北町の北縁にある高速のIC経由である事も、この際幸いしたようだった。これが南側からの下道経由だと、それなりの渋滞にかかっていたかも知れない。そうなれば仮名などは、車中で
 ぎゃあぎゃあ喚いた——
 ものだろう。
 密かにそれを想像した具衛は、一人でこっそり失笑した。
 チラシによると盆踊り大会は、二日間とも午後六時からと記載されている。が、ちょうど開始時刻になった頃だと言うのに、会場内は既に人混みが発生していた。とにかく意外なのは、その人の多さだった。車の多さに比例して当然人も多いのだが、それにしても人口二〇〇〇人超の町の人間全員が集まっている勢いだ。普段は何の変哲もない閑散とした辺境ながら、目的意識を持って一箇所に集まると
 こうも——
 盛況なものらしく、日頃とのギャップに、その活況を疑わざるを得ない。三人が町民グラウンドの入口までやって来ると
「これは」
 具衛は後の句が継げず、絶句して立ち止まった。グラウンドは砂地だが田舎ならではの土地の広さで、一角にはテニスコートがあるものの、それ込みで一辺がざっと見て二〇〇m前後ある。
「中々広いグラウンドなのね」
「そのようですね」
「あらあなたも初めて来るの?」
「用がないですから」
 四〇〇mトラックがすっぽり入って十分余るその中央部には、全国各地でよく見る盆踊りの櫓が組まれていた。
その周囲を様々な屋台が取り囲んでおり、既に盛り上がっている。人手の多さは、一見して明らかに町の人口以上であり、屋台の多さも町の住民以外の参加があるようだった。的屋は来ないと聞いていたのだが、ちらほらその姿も見える。
「近くまで来ると中々の規模ね」
「そうですね」
「人が多いわねぇ」
 人混みが苦手を公言する三人である。特にユミさんは先程から、そんな事しか口にしていない。
「この町の人みんな来てるんじゃないの?」
「人口は二〇〇〇と少しですよ」
「倍はいそうね、軽く」
「ですね」
 これはどうやら商工会挙げての大イベントらしい、と仮名と具衛は共通の認識を示した。事前に手にしたチラシの質感が、新聞の広告でよく見かける上質紙で、辺境の盆踊りにしては随分と気合いを入れている、と思っていた具衛は、ようやくその正体に思い至る。三人が立ち尽くす入口の傍には立て看板が立てかけられていたが、更にそのすぐ傍にある掲示板には、協賛企業や組織の名前がズラリと記載されたポスターや、祝電や電報が掲示されていた。どうやらこの力の入れようが、人手の早さと多さに影響しているらしい。仮名の目が、その掲示板の一角にふと止まったようで、具衛がそれとなく目が行きかけたが、
「でもまあこれなら、よそ者が紛れ込んでも極端に浮かないわね」
「まあ、そうですね」
「さあ、入りましょ!」
 その妙な気合いに邪魔された上、思いがけず背後から肩を押されてしまい、瞬間で舞い上がってそれどころではなくなった。明らかに作為的な動きだったそれは、何かを掴みかけた事を思わせたものだったが、結局
「まあ、子供みたいにはしゃいで」
 ユミさんの一言も、耳遠く聞こえる程の仮名の浮かれように、掻き消されてしまった。
 周囲の人の多さにユミさんは閉口したようだが、仮名は人混み嫌いと言う割には意外にも
「屋台って物に行ってみたかったのよ」
 具衛の肩を押しながらも、どんどん盛り上がっている。盆踊りはまだ始まってはいないが、屋台は既に盛況だ。とりあえず仮名の気のままに、会場内を歩いてみる事にした。
 祭りと言うものに来るのは本当に
 久し振りと言うか——
 覚えがない具衛である。ぼんやりしていると、いつの間にか仮名が焼き鳥の屋台に駆け込んでおり、
「え、現金?」
 などと、珍しく慌てふためいていた。電子マネーで決済しようとしたらしい。
 あちゃー
 お嬢様、である。
 各地の飲食系屋台では電子マネー化が進んでいるが、祭りでの屋台、それも田舎の祭りとあっては、電子化は流石にもう少し時を要するかも知れない。
「まあまあ困りましたね」
 すかさずユミさんがフォローに入り、現金を立て替えた。
「ごめんなさいね。また返すから」
「構いませんよこれぐらい」
 ユミさんが取り出したがま口を閉じると、仮名から串を一本貰う。
「ほら、あなたもどう?」
「あ、どうも」
 貰いながらも、
 こう言うの食べるの平気なのか?
 懐疑的になる具衛をよそに、仮名は器用に串の一本目を平げ、その場で次の串を買いにかかった。ユミさんが串を持ちながら、これまた器用に巾着に収めたばかりのがま口を取り出して仮名に手渡す。正にその様は
 阿吽の呼吸——
 だ。
 また一パック買うと、また同じように二人に配りながら、自分はさっさとまた器用に串から肉を抜き取り、食べ終えた。その後も、食べ物系の屋台を梯子しては、具衛の懸念をよそに仮名は、焼きそば、餃子、お好み焼き、もつ煮込み、串カツなど、所謂B級グルメを片っ端から食い尽くして行く。その食いっ振りや中々見事で、しかも然も美味そうに食ったものだった。
「食欲旺盛ですね」
 外見の優雅さに反し、よく食べる様に具衛が思わず口を挟むと
「まあ、適度に運動してるから」
 然も当然に返答した仮名は、今度はノンアルコールビールを喉を鳴らす勢いで飲んでいる。
「適度な運動と適度な食事は健康の秘訣ね」
 具衛はその食いっ振りに関心する一方で、内心少し慄いた。
 これが適度な食事?
 とすれば、運動量は中々のレベルになる。日頃からこの食にしてこの体型を維持しているのであれば、
 これは中々——
 ただのお嬢様ではなさそうだ、と、具衛はまた仮名の認識を少し改めた。

 ある程度練り歩いたところで、
「ね、あれは?」
「え?」
 仮名は腹が落ち着いたのか、食べ物ではない屋台を指し示した。小学生と思しき子供達が列を作り、順番にコルク銃を手にしている。
「射的です」
「しゃてき?」
「先っちょにコルクを詰めたおもちゃの銃で景品を狙い撃ちして、倒れたら景品が貰えるんですよ」
 説明している尻から仮名は、子供達の列に並んだ。その列の凸凹具合が少し微笑ましいが、賑やかな子供達に塗れて一人静かに姿勢良く待つ様は中々浮いている。具衛もつき添ってやれば良いのだが、彼には途端に近寄れない理由が出来ていた。
 お面屋でお面でも買ってくるか。
 傍にいたユミさんに一声かけようとした矢先、
「あ、先生じゃん!」
 射的の列に並んでいた一人が、声だけではっきりと具衛を呼びつけた事が周囲に認識出来る程の無遠慮な大声で具衛を名指しする。これぞ近寄れない元凶だった。具衛は瞬間で顔を背け、白々しくその場から逃げようとしたが、
「先生ってばよ!」
 また容赦ない一言を浴びせられ、無念そうに足を止める。
「本当に、先生でいらっしゃるんですね」
「いえ、そんな大層なモンじゃないんですよ」
「ねえ、分かってると思うけど呼ばれてるわよ」
 ユミさんに事情めいた事を口にしていると、仮名が列から具衛を呼びつけた。半狐面の、女の身としては大柄な部類のスタイルの良い艶めいた女が、張り艶のある声を出したものだから、列の子供達はおろか、周囲にいた人間が一斉に仮名に注目する。
 あちゃー
 やはり、である。
 お面を被っていても、その雰囲気は隠せないものだ。顔が見えない分、逆に余計にそそられる向きすらあった。具衛は「ハハハ」と乾いた笑いを浮かべながらやむを得ず、仮名の前に並んでいる具衛を呼びやった少年に歩みよると、いきなり両拳でその毬栗頭の両側頭部を捩りつけた。
「いだだだだっ。暴力反対!」
 丸刈り、Tシャツ、半ズボン姿で、如何にも落ち着きなさげなその男児は、如何にも昭和の時代によく見かけた腕白坊主そのものだ。
「まあ。山の人は、随分変わった挨拶をするのね」
「こいつにだけですよ。一緒にされたら他の『山の人』に悪いです」
 ある程度捩るだけ捩ると、具衛はぱっと拳をとった。
「いきなり酷いじゃんか先生!」
 一見して小学校高学年の男児は、順番待ちを維持しながらも、やはり射的の順番待ちをしている周囲の学友らしき面々の問いかけに律儀に答えている。
「ホントに先生なのね」
「ユミさんにも言われましたよ」
 仮名もまた、初めて具衛が先生と呼ばれたのを生で耳にし、今更ながらに意外と言わんばかりの声色で、傍に来た具衛に半狐面を突きつけるように問い正した。
「えせ先生ですよ」
「えせねぇ」
 具衛は思わず上半身だけ引きながらも、
「先生、女連れとはすみにおけないな」
 妙にやや古い言い回しをする男児の頭を、今度は片手で鷲掴みにする。
「や、やめろー」
 男児がじたばたするのを構わず
「先生なんて、畏れ多いんですよ」
 などとやってるうちに男児の番がやって来た。
「僕の順番だけど」
 仮名が言うなり、具衛が掴んだその毬栗頭を離すと、男児が
「くそー、当たらなかったら先生責任取れよな」
 などと愚痴りながらも「おじさん一回分」と、お金を的屋のオヤジに渡して早速射撃台上のコルク銃を手にする。
「どうやって撃つの?」
「まあ、達人が見本を見せてくれますから」
 具衛と仮名が聞こえよがしにその様子をまじまじと観察し始めると、男児はあっさり三発撃ち尽くし、坊主で終了してしまった。
「意外に難しいのかしら?」
「いえ、こいつがヘタレなだけです。どうした達人?」
「く、くそ、調子が悪いや。おじさんもう一回」
 男児はコルク銃を手にしたまま、またポケットからお金を出して的屋のオヤジに渡す。
「ま、まあ見てなって」
 が、ぎこちなさ満載の男児は、やはりすぐに撃ち果ててしまい、成果はさっぱり上がらなかった。
「ちょっと待て、お前もしかしてあのハード狙ったんじゃないだろーな」
 悔しがる男児の頭をまた具衛が軽く片手で鷲掴みにすると、上段中央に威風堂々然として置かれている日本製のゲーム機を指さす。
「そーだよ」
 男児があっさり白状するや
「バカやろ、あんなのこんな銃で倒せる訳ないだろ。連射出来るんならまだしも」
 具衛は男児のコルク銃を取り上げ、自分の財布に手を伸ばした。
「責任とってやるから、他のヤツに的を変えろ」

 二分後。
 男児はほくほく顔で予め用意していたビニール袋に景品を入れると、
「先生サンキュー!」
 周囲の学友達と他の屋台へ早々と消えて行った。
 的屋のオヤジに代打を申告し、二回分のお金を手渡した先生は、代わりに六発のコルクを受け取ると、男児に選ばせた標的のうち、ミニカーセット、着せ替え人形セット、戦隊モノの変身セット、ミニゴルフセットを獲得したが、残り二発は無謀にも男児が狙っていた大物ハードを狙い、玉砕した。
「中々やるじゃない」
 他の子供スナイパー達が立ったまま狙いをつける中、いい大人が射撃台にしゃがみ込みどっかり腕を預け、銃を構える先生は明らかに異彩を放った。背中はまろく脇は締まり、如何にもやりそうな雰囲気を醸し出したものだったが、
「パーフェクトも狙えたのに」
 残り二発の大物狙いが悔やまれたものだ。
「まあ、こんなもんでしょう」
 満足気な先生だったが、気になったのはその射撃センスよりも、射撃の最中に、次々と的を倒す様子に興奮した男児が
「流石は元——」
 と素性の一端を漏らそうとした時の、常人離れした素早い羽交い締めである。狙いをつける物だけではなく、その周囲にも注意力を残したその動きは、明らかに
 ——素人離れしてる。
 内心驚いた。
 花火の時と言い——
 この男の奥底に只ならぬ気配を感じつつあった真琴だったが、
「しゃがむと着崩れするかも知れないから、立位の撃ち方を教えてよ」
 と言うや、予想に反して先生が耳打ちをして来たものだから、素性の一端どころではなくなってしまった。
「ちょ、ちょっと何——?」
 思わず反駁しそうになったが、その理由を理解して頷き、立位の射撃のコツを説かれた通りに撃ってみると、六発中三発ゲットした。
「本当に初めてですか?」
 上手いな、と感心する先生をよそに
「お面が良かったのかも」
 真琴は冷静さを装い、自己分析を漏らす。
「あ、ピンホール効果か」
 お面を被っているため、その覗き穴から覗いた事で、焦点深度、つまりピントの合う距離の範囲が深くなり、手元から遠い景色までピントが合いやすくなると言う原理である。
「行きましょ」
「はい」
 が、実は真琴はそんな事はどうでも良く、それよりも何よりも、先程の耳打ちが頭を離れず、思わず足早にその場を離れた。
「お待たせしました」
「中々お上手でした」
 少し離れた所で待っている由美子の所へ戻るや
「これ、さっきの子が喜ぶかしら」
 獲得したばかりの景品を、先生の顔に乱暴に突きつけた真琴は、無理矢理それを受け取らせた。人形が二体とブロックのおもちゃである。先生の介護施設は、母子の支援施設も併設されている事は既に書いたが
「そこに入所している子で。中々良い奴なんですよ」
「でしょうね」
「え?」
「じゃないと、男の子が着せ替え人形なんて欲しがらないでしょ」
「——そうですね」
 施設の小さい子に土産を持って帰ろうとしたらしかった。先生は受け取った景品を、早速背負っていたリュックサックに入れる。
「景品を入れるために持って来たの?」
 その用意の良さに呆れる真琴に、
「歩き疲れた時のために、レジャーシートを持って来たんですよ」
 先生が反射気味に反駁した。こう言うところは意外に用意が良いが、
「物貰いとは違いますよ」
 珍しく気に障ったらしい。
「はいはい御免遊ばせ。良い男が小さい事でぐずぐず言ってんじゃないわよ」
 冗談めかしく応酬していると
「まぁ、仲がよろしゅうございますね」
 呆れた様子で何気なく吐いた由美子の一言で、真琴はつい固まってしまった。
「な、」
 耳打ちの動揺が、意外に長引いてつっけんどんになっているところへ、思わぬ追い討ちである。実のところ先生は、中物程度であれば全弾命中させて景品を倒す技量を持っていたらしい。が、倒し過ぎると利益を目論む射的屋が的を固くする。
「後から撃つ子供達の楽しみを奪いますから」
 射的の屋台は、この町の商工会や自治会など、祭りを盛り上げるための町独自の組織ではなく、それを専業とする部外者の的屋が営んでいる明白な営利目的だ。祭りを盛り上げる一翼は担うとしても、あくまでも商売である以上、多少の利益では納得しない。仮名に耳打ちしたのもそう言う事だった。その配慮は如何にも先生らしく、何処かその為人のイメージに被るそれに安心した。ものだったのだが。
「あ、あなたが慣れもしないのに、耳打ち何かするからよ!」
 微妙な恥ずかしさが耳伝いに感じられたそれは、思いがけず身体の芯を震わせた。
「だって、大っぴらに言えないでしょう。だから仕方なく——」
 やり場がなくなり先生を責めると、先生は先生で、やはり恥ずかしさを引きずっていたようで、もじもじし始めたものだから
「二人して、何をやってらっしゃるんですか?」
 由美子がくつくつ笑っている。見る見る顔を上気させた真琴は、
「もーっ!」
 思わず子供染みた奇声を上げると
「ちょっと手を洗って来るから!」
 足早にその場を立った。

 午後七時過ぎ。
 辺りの闇が濃くなり始めると、盆踊りが始まった。真琴は半狐面の下で、ようやく取り戻した冷静さを纏い、会場の端にあるベンチに腰を下ろしていた。櫓を囲む屋台の更に外側にあるベンチであり、喧騒も会場中心から少し離れている程度には落ち着いている。横には相変わらず、先生と由美子が揃って座っていた。真琴は食べたい物はあらかた食べてしまい、手持ち無沙汰でぼんやりしたものだが、先生は細々と菓子パンを食べている。
 日本の祭りで——
 菓子パンとか。
 別に菓子パンが悪いとは言わないが、こう言う場ではB級グルメとしたものではないのか。日頃食いつける事がないそれらを堪能した真琴としては、パンはやや祭りの情緒に欠けるような気がした。「庶民」と言っては、大多数のそうした階層に属する人々の反感を買う事請け合いだが、これまでの真琴の人生において、庶民の祭りに参加するなど経験がなく、子供心に憧れたものだ。独り立ちした後も結局足を向けるきっかけがなく、シーズンになると地方版のニュースなどで見かけては思い出す程度だったそれが、ようやく実現出来て密かにご満悦の真琴である。身内では、庶民の祭りを受け入れる者など誰一人としておらず、子供の頃に、
「行きたい」
 と親に言っても、
「野卑た祭りなど行くものではない」
 などと、それこそバッサリ切り捨てられたものだ。その上流意識は当然に今でも変わらず、真琴がお面を被って祭りに行き、B級グルメを立ち食いしながらノンアルコールビールをガブ飲みした、などと身内に知られようものならば、蔑視嘲笑ならまだ良い方、事の次第によっては激怒するかも知れない。真琴はそのような窮屈な家柄の生まれであり、そんな実家には心底辟易したもので、もう何年も帰っていない。
「始まりましたね」
 先生が、遥か遠くの櫓を中心に踊り始める踊り手を眺めながら、
「踊ってみますか?」
 と口にした。
 ベンチでの一休みが奏功し、先生に対する動揺もすっかり収まっている。実はお面の下で興奮状態だった真琴は、珍しくオーバーヒートしていたようだ、との自己分析にようやく辿り着いた。冷静沈着を旨とする自分がらしくないにも程があるが、長年の夢と言っては言い過ぎだが、身内が言うところの「野卑た祭り」に参加出来たのだからやむを得ない、と言う事にしておく。
「誰でも踊っていいの?」
「ええ。私は遠慮しときますが」
 自分で話を振っておきながら先生は「ほんと出店が多いなぁ」などと屋台を眺めている。どちらかと言うと先生は、踊りより屋台に興味を持っている様子だった。
 その先生は、人嫌いを公言しながらも、会場内ではそこそこ人に声をかけられていた。射的の子供に始まり、農家風の老人からの呼び声が多かったが、中には自治会か商工会の青年部らしき旨を記載した鉢巻をした、少し気合いの入った者達もおり、何やら脅迫めいた組織加入の勧誘をされては、尻込みしながらも柔らかく断る姿が滑稽で、半狐面の下で失笑したものだ。その様子から、人に放置されない魅力が先生にはある様子が見てとれたのだが、彼を呼ぶ人々は不思議と皆決まって先生の事を、物の見事に「宿直さん」とか「先生」と、今の仕事上での職名で呼ぶのであった。揃いも揃って、顔と仕事は知っていても名前が思い出せないのか、至極当たり前のように職名で呼んでいる。共通して言える事は、仕事外でも呼び止めないと気が済まないようであり誰も彼も好意的である、と言う事であった。もっとも好意的でなければ呼び止めなどしないだろうが、それにしても皆仲が良さそうであり、先生としても満更でもないようだ。
「何でみんな名前で呼ばないの?」
 真琴は率直に、先生に疑問をぶつけた。もしかすると、先生の名前を聞き出せるかも知れない、と考えていた向きもある。聞いたところで、別に何かある訳でもないのだが、やはり仮名よりは本名の方がより親しみを覚えようものだ。そう思い当たると、真琴は半狐面の下で勝手に動揺した。
「名前を伏せている訳じゃないんですけど——顔に特徴がないから、名前の記憶が定着しないようです」
 先生は苦笑いする。
 確かに顔つきは素直と言うか、特段の癖を感じない淡白顔の典型ではある。が、贔屓目に見ても凡庸と言う一言では片づけられない、中々の面立ちではあった。
 その男がパンをかじっている理由は知っている。真琴が手洗いと称して会場を離れた時、先生が共同作業所で作られた菓子パンが売られているのを屋台で見かけ、買ったらしかった。
 障害者自立支援法に基づく障害者の通所施設である共同作業所は、自治体の支援を受けながら社会福祉法人が運営している事が常である。就労支援型の作業所もあれば、生活介護型の所もある。近年では、業態の工夫や変化に伴い、収益を伸ばす作業所も出て来てはいるが、現状は中々厳しく、手芸用品やパンの販売の形態は比較的多く見られる。
 まあ確かに先生は、
 ——そう言うヤツよね。
 柔らかい印象の顔と慈善は、先生のイメージとよく被った。この顔で、花火大会の時のような荒事をやってしまう事こそに違和感がある。
「パンは好きなんですよ」
 と言いながらも、到底会場内で立ち食い出来る量ではなく、リュックサックに詰め込んでは
「まあ、多少は日持ちしますから」
 などと、笑ったのはちょっと前の話だ。その思いを掘り下げてみたくなり、
「そのパンは、どう言うつもりでそんなに?」
「どうって? どう言う意味で?」
「偽善?」
 時間差ながらも、つい意地悪を言ってみた。
「人によって受け取り方は違うので、まぁ何と言われても。私は寄り添いたい。それだけですよ」
 が、さらりと即答されてしまい、逆にまた軽く動揺させられてしまったものだ。そうした言動もまた、先生のイメージとよく被る。
「——ちょっと、試しただけよ」
 と言いながらも、まるで力まず口にした先生に対して、そんな事を言った真琴の方が浮いたぐらいに、先生は自然で気取ったところがない。やはり何処か、
 熟れている。
 実はそれなりに悩んでいる自分が、ひどく小さく思えた。会場出入口の掲示板に掲示されていた案内には、協賛金出資者が掲載されていた。それは体の良い出資企業の宣伝でもあったのだが、出資額に比例した文字の大小において、真琴の企業は最も大きく掲載されていた。そのあからさまな大きさは、他を寄せつけず群を抜いており、実のところ真琴の個人的な出資金が相当な底上げをした結果だ。協賛金を出す時、匿名にするか、実名にするか、企業名を底上げするか、実は少し悩んだ。真琴が勤めている企業とは、真琴の実家がやっている系列会社だ。
 それなら——
 個人名を売るつもりがないのであれば、とりあえず企業を上げておこう、と考えた。実家とは上手く行っていないし、そのグループ企業を盛り上げるなど忌々しいと思ったものだが、そこに勤める従業員に罪はないし、何より曲がりなりにも現に自分が勤めている会社だ。で、とりあえずそうしたのだったが。企業のあからさまなイメージアップを狙った底上げである事は、関係者伝いで噂となって浸透して行くと、賛否が聞こえて来て、ややもすると直接嫌味が耳に入る事もあった。今つけている半狐面も、とりあえずこの自治体にもそれなりの数が住んでいると思われる従業員対策である。素顔がそれなりに通っている真琴がそれを晒してしまうと、先生に素性を勘づかれる可能性がある事に加えて、その美貌故、不躾な目を躱す意味合いもあるのだが、どちらかと言うと従業員対策でやっている意味合いの方が強い。それも先生の追及を躱すためではなく、単に従業員からの中傷を避けたい、とする意味合いである。
 それにしても少し迂闊だったと思うのは、女狐だの赤い狐だのと、被っている半狐面系統の蔑称を持つ真琴なのだ。この形が真琴を面白く思わない連中に発覚したものならば、格好の中傷の的になる事はまず間違いなかった。
 別に悪い事をやっている訳ではないのだが、
 どうしてこうも——
 世間は捻くれたものか。祭りで顔見世興行をしている、と思われるのはやはり面白くない。金持ちの金余りの気紛れ、ぐらいの見られ方ならまだましな方で、その財を狙う物騒な輩に狙われる事すらある俗世である。
 忌々しくも——
 善が怯んで悪が蔓延る。それも姑息で卑劣な悪が。邪な悪意に中傷され、理解される事などない真琴は、それを憎む以上にいつまで経っても未だに
 善意の伝え方が——
 分からない。その拙さに、自己の至らなさを痛感させられていた。
 確かに金は大切だ。だが金は、あくまでも金だ。国家やその中央銀行による信用によりその価値が与えられている、それだけだ。そんな事はよくよく理解している身ではある。その明確さ故に、人はその価値に惑わされ、悩み、溺れてしまいがちだ。金に色がつかないからこそ、それに少しでも意義をもたらせようと、寄付、寄贈、出資を重ねて来たものだったが、未だにその伝え方に悩む。実は投げ遣りで贈呈した事など一度もない。節税と言う側面もある事はあるが、あくまでも側面だ。自分には有意義な使い方が出来ないから代わりに有意義に使って欲しい。として金を贈るその自分の、何と高慢で不躾で物を知らない事か。その裏で、実は贈られる側としては、金以上に有難いものはない事もよく分かっている。要するに、それをする自分が据わっていない、それだけなのだ。それに深い意義を見い出そうとする余り、未だにその深みにはまりがちで、未だに悩む向きのある自分を、
「まぁ、気まぐれですから」
「そうなの?」
 先生は、いとも簡単に答えてくれたものだ。
「まだまだ人生経験も浅く、熟れたもんじゃありません。常に安定的な慈善家でもありません。だから思い立った時ぐらいは。その程度です」
「ふーん」
 真琴はこの瞬間、先生の意外性の根幹に少し触れたような気がした。良い意味で開き直れるからこそ思い切れる。それが意外性に繋がっている。つまりはそれが、
「詐欺師の真骨頂ね」
 皮肉めいた断定に至った。
 偽善だろうが善は善だ。偽っても、贈る行為は善だ。更に突っ込んで言えば、代わりに泥を被った汚い金でも、金は金だ。それを寄贈する事自体は善ではないか。事実、人類有史において、そうした義賊は古今東西少なからず存在したものだ。
「褒め言葉ですか? それは?」
 この瞬間、真琴の懊悩を少し軽くした事など恐らく理解していない先生は、思わず苦笑いしてみせた。
「そうよ」
 真琴の贈る善意は、幸いにも偽りなどない善意だ。
 それで——
 充分ではないか。
 そもそもが、くよくよ悩むべき問題ではない。のだが、裏を返せば真琴を巡る世の邪な目は、それ程までに苛烈である、と言う事でもある。
「まだまだ修行が足らないなぁ」
 くすくす苦笑めいては、
 一人で抱えるよりは——
 などと、思わぬ答えをもたらした詐欺師に内心感謝をしていると、
「まぁホント、仲がおよろしいこと」
 由美子がまた、したり顔で毒づいた。
 盆休みに里帰りで夫を堪能してきた筈の由美子だったが、
 それが仇になったか。
 また別れて帰広してしまった事で、あっと言う間に足らなくなってしまったらしい。口には出さないが、真琴が見る限り由美子は何処か気鬱気であり、一見して
「また拗ねて」
 いるようだった。
「拗ねてなんかいませんよ」
 また、俄かに雲行きが怪しくなる。
 その時、その横で明らかにはらはらしていた
「先生」
 を呼ぶ声が傍で上がった。
 真琴がそれに気づくと、先生の顔色は既にやや固くなっている。子供の声だったそれは、明らかに窮状を訴える声色であり、由美子と諍いつつあった真琴だったが、由美子共々即時休戦した。闇と薄暮の曖昧な明暗の中で、お面越しに目をすがめて見た子供は、射的の屋台で先生を呼びつけた男児だった。その傍に泣きじゃくる年下と思しき小さい男児を連れている。
「どうしたケンタ、ショウタを泣かせて」
 先生は男児をケンタと呼び、小さい男児をショウタと呼んだ。小学校三年生ぐらいだろう。
「俺が泣かせたんじゃないよ」
 ケンタの話では、ショウタがあの射的で、大物標的の野球盤をまぐれで倒したらしい。射的のオヤジはショウタに野球盤を差し出し、ショウタは一人で抱えるのがやっとの景品に興奮しながらも、一人で抱えて引き続き友達と会場を散策していた。が、そうするうちに友達とはぐれてしまい、代わりに現れたのが柄の悪いチンピラだった。チンピラはショウタをあやすが如くその野球盤を取り上げると、然も新しく用意したかのように、そのまま堂々と射的の景品として的に戻した、と言う。
「ショウタの奴が、泣きじゃくりながらもチンピラの後を尾けたんだって」
「そうか」
 先生は、ケンタから事情を聞きながらショウタの頭を撫でている。
「それが事実なら恐喝ね」
「詳しいですね」
「それが理解出来るあなたこそね」
「そんなもんですか」
 真琴が見聞きする限り、一部始終をケンタから聞き取る先生は、時として年端も行かないショウタを交えた聞き取りにおいて、推測と確定要素の棲み分けが適切だった。
 ——慣れている。
 子供に限らず、素人の純粋で単純な正義感は、頭の中では誇張や推測と事実との乖離を理解出来ていても、口に出す段階になると中々それを上手く使い分けて理路整然と説明する事は難しいものだ。それを上手く棲み分けるのが、聞き取り役の重要な役割である。それが弁術がままならない子供が相手となれば、尚の事骨が折れる
 ものだけど——
 だから大抵の場合、子供が被害者の場合は、法的にもコミュニケーション的観点からも、その保護者がつき添うものなのだが、一見して周囲に保護者は見当たらない。とは言え、先生に対する子供達のすがり具合を見る限り、その信は中々
 ——厚い。
 ようではある。
「お父さんやお母さんは——」
 つい考えついでのように口にした真琴が、
 しまった!
 と思った時には、もう言葉が口から漏れた後だった。少なくともケンタと呼ばれた男児は、母子生活支援施設の入居者と聞いていたにも関わらず、迂闊を踏んでしまった。ショウタの周囲にも当然、保護者らしき人物は見当たらない。
「今日も母ちゃん遅いんか」
 先生は、相変わらずショウタの頭を撫でながら少し悲しそうな顔をした。少し垣間見たその広島弁が、真琴が春から耳にして来たどの広島弁よりも優しく、切なく、胸に刺さる。
「周囲に保護者がいないから、狙われたんでしょうね」
 会場までは施設の先生に連れて来て貰うらしかったが、周囲にはその先生らしき人物も見当たらない。
「会場内は自由行動だったよな確か」
 先生がケンタに確認すると、ケンタは力なく頷く。
「俺が目を離したばっかりに。面目ない」
 ケンタは潔く謝罪した。
「ちょっと調子に乗り過ぎたか」
「うん」
「まあ先生達も、先生達だよなぁ」
 小さい子には、つき添う必要も無きにしも非ず、と言う事だろう。先生は、今度はケンタの毬栗頭を気持ち良さそうに、ジョリジョリ音を立てながら撫でた。
「どうするの?」
 真琴は下手な事を言った手前もあり放っておけなくなり、
「いつも間抜けな事しか言わない自分が嫌になるけど」
 とは言いながらも、実は先生の出方も気になり、間抜けを承知で先生に尋ねた。
「そのチンピラってのは、まだ射的屋におったか」
「うん」
「よし。じゃあ正面から行くか」
 先生は二人の男児を両脇に抱えて射的屋に足を向けた。
「お二人は、他を見て回っててください」
「何言ってんのよ、ねえ」
「そうですとも」
 由美子は由美子で、
「小さい子供を謀るなど許せません」
 半狐面の下から俄かに怒気を露わにしている。
「じゃあひょっとすると、手を借りるかもしれませんよ」
 先生が飄々と口にすると
「いいわよ」
「望むところです」
 二人の淑女は、先程までの諍いが嘘のように、良く合った息で、それぞれ妙な気を吐いた。

 射的屋は、相変わらず子供達が列を為しており、中々の盛況振りだった。先生と真琴が撃った時にはいなかった、一見して目つきの悪い、世の中を僻んでいるような、如何にも柄の悪そうな二〇前後の男が、射的屋の六〇代のオヤジの背後に控えているのが確認出来る。
「あれか?」
 先生が口を開くと、ショウタがぐずつきながらも力強く頷いた。
「よし」
 先生は、ショウタの頭を軽く叩くと、
「後は大人の出番だな」
 由美子に二人の男児を託した。
 子供を優しくあやすのなら由美子だろうと判断された事が密かに真琴のプライドをなぶったが、先生は「手を借りるかも知れない」と言っていた事もある。とりあえずそれを飲み込むと、その出方を慎重に伺う事にした。自分の迂闊な一言で、子供を傷つけてしまった結果は変わらない。であれば、挽回する機会があればそれを逃したくはなかった。
 先生の雰囲気は、先日の花火の時のように有事モードに切り替わっていると見え、こうなって来るとこの男は中々に頼もしいものである。真琴としては、実は先生の出方も楽しみになって来た。
「この子から取り上げた景品の野球盤を返して貰えませんか」
 先生は射撃台の横に立ち、子供達がコルク銃を撃つ横で、いつもと変わらない柔な声色だ。が、内容は普段にはない決めつけで、射的屋のオヤジの背後に控えるチンピラに言った。チンピラは完全無視で、客の子供の相手をしている。
「聞こえなかったかぁ」
 先生が力なく呟いたかと思うと、
「この子から——」
 今度は、その細い体と変化のない息遣いのどこからこんな音量で出るのか不思議なくらいの大声で、先程の台詞をチンピラに投げつけた。声を張り上げる前に、息を吸い込むとか力むとか、そう言ったアクションが全くなく、隣にいる真琴ですら完全なる不意打ちで、驚きの余り体を痙攣させた程だ。一体それは、
 ——どんな呼吸法!?
 少し心得のある真琴も刮目するその声量は、会場のスピーカーから流れる盆踊りの音頭にも掻き消されず完全に周辺の虚をつき、これには堪らずチンピラもオヤジも体をびくつかせて驚いた。一瞬、周囲から音が消え、盆踊りの音頭がより明瞭に聞こえ始める。言い放った先生は先生で、射撃台で遊戯中だった子供が固まっている姿を認めると
「あ、僕らに言ったんじゃないから」
 瞬間で相好を崩してみせた。
「ほら、よく狙って撃った撃った」
 合わせてライフルを撃つ真似をすると、ようやくとケンタと同年代の男児がたじろぎながらも「う、うん」と答えて遊戯を再開し、俄かに周囲に雑音が戻る。
「で、どうかなそこのお兄さん」
 オヤジの後ろで周りに注目されるはめになったチンピラは、口を歪めて
「知らん、と言ったら?」
 薄笑いを浮かべた。
 その僻んだ目を捉えた先生は、瞬きせずじっとりと睨みつける。
「正攻法でこの店に、それなりの引導をくれてやる」
 平生にはない荒々しいセリフだが、声色は相変わらずと言うチグハグな物言いは、隣で聞いていた真琴でさえ、まるで説得力を見出す事が出来なかった。
「知らん」
「分かった」
 静かに答えた双方のうち、先生は言うなり射撃台の順番待ちの列に並ぶ。片やチンピラは意も介さぬ様子で、撃たれたコルクを拾うなど、甲斐甲斐しく動いていた。
「仮名さんとユミさんも、隣の列に並んで貰えますか?」
 射撃台には順番待ちの列が三列あり、コルク銃も三丁用意されていて、三人までが同時に撃つ事が出来るようになっている。先生に言われた通り、その列に真琴と由美子がそれぞれ列に並んだ。先を撃つ子供達が、流石に場の雰囲気を感じ取り、何処か撃ち辛そうに再開する。俄かに成り行きを気にし始める周囲がざわついていると、すっかり前座にされてしまった子供達は、そそくさと撃ち終え足早に立ち去って行った。
「何か、気を遣わせて悪かったねぇ」
 その注目に耐えられない様子で人影に逃げ込む子供に、先生が緊張感なく声を掛けていると、早々といい年をした大人三人の順番がやって来た。注目が集まる中、周囲を気にせず先生が淡々と真琴に
「仮名さん、これから動画を撮って貰っていいですか?」
 後ろから全体を写すよう指示を出す。
「わかったわ」
 真琴は大人しく従い、少し下がって巾着から私物のスマートフォンを取り出し、早速動画撮影を開始した。何かのボタンを押した時に鳴るような軽い電子音が一回聞こえると、
「始めたわよ」
 先生に伝える。
「お二人の銃は、私がまとめて使わせて貰いますから」
 と言うと先生は、
「九〇発分」
 射撃台に千円札を三枚置いた。
 オヤジが掠め取るように取り顎をしゃくると、チンピラがコルクを入れたバケツを射撃台の上に乱暴に置く。
「え、数えてくれないんで?」
 随分だなぁ、とバケツを受け取った先生は、素早くコルクを数えながらも三つのグループに分けて並べた。
「仮名さん、コルクを写して置いてください」
「OK」
 指示を受ける真琴は、撮影に合わせて射撃台の上に並べられたコルクを目算すると、
「左の塊が四三個、真ん中が三〇個、右が一七個、全部で九〇個ね」
 声に出して数を読み取ってやった。一々後から難癖をつけられないように、と言う事なのだろうと理解した真琴のそれに
「助かります」
 先生が短いながらも謝意を口にする。その口振りは相変わらずの先生だ。が、やっている事は明らかに勝負事の準備である。どうやらコルクの質を見て三グループに分けたらしく、一見して右に行く程質感が良さそうだ。それは分かるのだが、今一何かをするようには見えない落ち着き振りと言うか飄々としたもので、何処か様にならない。
「コルクはもういいですよ」
 先生のその声で、真琴がまた画角を元に戻すと、次に先生は三丁のコルク銃の手に取った。先程も使った銃だが、今更ながらに空撃ちをしている。かと思うと、
「コルクは擦り減ってるのが殆どだし、銃はゴムが伸びて威力が弱い」
 いつになく喧嘩腰の先生だ。しかも真琴のスマートフォンに声が入るよう、わざと大きな声で説明臭い。
「これじゃあ倒れる物も倒れない」
「言いがかりつけンなや! 気に入らんのんならやンな!」
 すかさずチンピラが、下卑た声を浴びせるが先生は取り合わない。左の塊のコルクを一つ銃口に詰めると、早速射撃姿勢に入った。やはり腕は射撃台に預けてしゃがみ込んだが、今度は右膝を地面につけている。その姿勢が妙に
 堂に——
 入っているではないか。
 今し方までの飄々振りはどうしたのか。只ならぬ雰囲気に、いつの間にか周囲に集まった観衆も声を顰め、息を飲んで見守り始めた。
「ケンタ、倒れた景品を片っ端から拾ってくれ」
 先生は射撃姿勢のまま、背負っているリュックサックから、器用にレジャーシートを取り出すと、ケンタに手渡す。
「これ敷いとけ。並べて置くような暇は、多分ないで」
「わかった」
 由美子の傍にいたケンタが、それを鵜呑みにして射段の右に移るのを確かめると、先生は
「一番下の段の右から左へ向けて倒して行くからな。また掠めとられちゃかなわん」
 多少の嫌味を滲ませる余裕を見せながらも銃を構えた。ケンタがレジャーシートを敷き終えると
「OK。いつでも始めていいよ」
「よし」
 先生が銃に頬を寄せ、僅かに目をすがめる。
「あの、さ」
 その何かの寸前で、真琴がつい口を挟んだ。要らない配慮かも知れないとは思ったが、何かの足しになりたいと思う気持ちが、
「お面、つける?」
 つい余計な一言を口から吐かせる。
 ピンボール効果を狙ったアドバイス、のつもりだったが、先生は後ろに立つ真琴に少し横顔を向けると
「大丈夫です」
 そのいつになく少し締まった顔の笑みが、真琴の心臓を一跳ねさせた。
「私には必要ありません」
 その何やらまた、ふっ切れたような据わり具合に
 また——
 何処かしら、何かを期待させる怪しげな雰囲気を纏い始める先生を見ていると、
「録画、頼みますね」
 知らず知らずのうちに録画中の画角が近接モードになり、先生の顔をどアップにしているではないか。
「あ——うん」
 言われて予想外にしらを切り切れず、真琴は図らずも、少しギクシャクしてしまった。認めるのは悔しいが、その形に
 つい——
 吸い込まれてしまっている。
「いいわよ」
 慌てて取り繕い、また遠望モードに戻し、声だけは平生を繕うと、
「じゃあ、始めます」
 それを聞き取った先生は、早速一番右下の景品を一撃で倒した。かと思うと素早くコルクを詰め、その隣の景品をまた一撃で倒す。一番下の段は一番手前にあり、一番倒れやすい軽い的だ。発射音と景品のヒット音、コッキングレバーを引く音がリズミカルに鳴り始めると、瞬く間に一番下の段が、文字通り薙ぎ倒されていく。
「殆ど斉射ね」
 真琴は録画している事も忘れ、思わず声を漏らした。百発百中も然る事ながら、照準合わせから射撃までが異常に早い。本当に狙いをつけているのかさえ怪しい早さのそれは、通常早撃ちと呼ばれる。加えて、射撃間隔も異常に短い。銃口に直接コルクを詰めると言う煩わしさを諸共せず、上体の位置は殆どぶれない。小器用に両腕が忙しく、システマティックに射撃準備を繰り返しており、準備し終えると次の瞬間には的の景品が倒れている、と言った具合である。まるでクレー射撃のアスリートが次々に飛び出す皿を、次々に撃ち落としている、そんな具合だった。
 周囲がその凄さに息を飲んでいる隙に、先生は下三段の小物を全弾命中で平らげた。
"すげえ"
 意識外の声が口々に漏れ始める。おもちゃの銃、それも先生によると半分欠陥品のような銃の命中精度として
「ありえねーだろ、これは」
 その感嘆が真琴の耳にも届いた。
「ケンタ、回収」
 その見事な撃ちっ振りを目の前にしたケンタが、回収を忘れて固まっている。それを先生が、一息入れるついでに回収指示を出した。
「あ、うん」
 と言っても、地面に落ちた景品はない。雛壇の上で倒れている景品をそそくさと回収するケンタを見て、真琴は不意に
「まさか、的の倒れ方まで——」
 と言いかけて止めた。
 コルクと銃の調子を今一度確かめ終えた先生が、的が並ぶ雛壇を順々に注視しているではないか。
「——ウソ」
 明らかに何かの示唆を思わせるその視線に、真琴の内心がざわめく。遊びといえどもこの技量は流石に
 有り得ない——
 のではないか。
 真琴が思わず呟くのも構わず、今度は嫌に気を練ったような雰囲気をたぎらせ始めると、先生はケンタが引くや引き続き中段の的を斉射し始めた。中段も三列構えだが、やや奥に下がっている。まさに雛壇のイメージで、上に行く程的が大きく、重く、遠くなる。それを理解していると見える先生は、中段から三丁の銃全てにコルクを詰めた上で、三丁抱えで撃ち始めた。
 一発で倒れれば、その撃ち終わった銃にコルクを詰めてまた撃つ。一発で仕留めれなければ連射して倒す、と言う念の入れようだ。連射など中々見られる技術ではなく、たかがおもちゃの銃の的当てとは言え、極めれば
「プロだな、ありゃあ」
 周囲からもっともらしい声が上がり始めた。それに比例するように射的屋の二人が、あからさまに顔色を悪くし始める。射的には、通常の撃ち方ではまず倒れない大物も陳列されている。普通間違っても倒れる事はないのだが、もし倒そうものならば射的屋は大損害だし、倒した方は安価で高価な景品を手にする事が出来る。極端な話、それを売却すれば、物によっては結構な期間を食い繋げる程の価値を有するのだから、倒れないのは当然と言えば当然だ。あえてそれを陳列するのはサービス精神のようなものである。夢を持たせるため、狙わせて帳尻を合わせる。それは店も客も分かっている暗黙の了解と言うか、常識めいたお約束、としたものだ。
 が、先生の撃ちっ振りにはそうした妥協が一切見られず、勢いとしては雛壇丸ごと倒さんとする意気込みようである。それを見て、オヤジとチンピラが耳打ちをする回数が増えて来ていたが、結局のところ周囲の目が余りに多く、なす術なし、と言った様子だった。
 先生はそんな周囲の思惑に委細構わず、瞬く間に中段の三段を平らげた。まだコルクは、三分の一弱残っている。残るは最上段の一列、大物群である。
「ケンタ、回収」
 また先生が指示を出し、また残ったコルクと銃を点検していると、チンピラが目の前に雪崩れ込んで来て、突然土下座した。
「すいませんでした! 野球盤はお返しします!」
 先生の技量に観念したらしい。このまま連射で最上段の超大物を取られては、店としては大損害だ。その辺の計算をしたようだった。
「知らん、と言ったら?」
 先生が先刻、このチンピラに言われた言葉をそのまま返したが、
「お詫びに一品、何でも差し上げますから!」
 チンピラは頭を下げたまま、殊勝気に絶叫する。
「——って言ってますが、ホントに良いんですか? ご店主?」
 先生がチンピラの後ろに控えるオヤジに声をかけると、
「店の不手際だし、しょうがない。この際気前良く持ってってつかぁーさい」
 こちらも椅子に座ったままではあるが、やはり頭を下げたものだった。
 この子の先走りかしら?
 チンピラが在庫を惜しんだ事による単独犯行、を思わせる素振りを感じ取った真琴だったが、それは
「よし。じゃあすごろくセットを貰えますか?」
 先生も同じだったようだ。
「えー! あのゲーム機がいーじゃんか!?
 そこを慌てて横からしゃしゃり出て来たケンタだったが、事もなげにとっ捕まえた先生が、やはり慣れた手つきでまたその毬栗頭を片手でぐりぐり捩り始める。
「分かった! 分かったってば!」
 毛が抜けるー、などと奇妙な悲鳴を上げるケンタに素気なく「すごろく貰って来い」と指示をくれてやった先生は、
「ショウタ、野球盤が返って来たけ、もういいか?」
 一方でショウタに、犯人に対する処罰意思の確認を始めるではないか。
「それともお巡りさんに言うか?」
 土下座していたチンピラの頭が上がりかかったが、その下級役人の名称が耳に入ったのか、それに合わせてまた頭を下げ、今度は地に擦りつける。
 ——それでも、だ。
 被害品は返って来ても、お詫びの品を貰っても、悪事の事実は消えないのだ。
「悪さのしっ放しになるじゃろー」
 先生はショウタの前にしゃがんで、いつもの柔い調子で噛み砕いた説明を始めた。
 被害に伴う損害賠償が法律上民事とされる一方で、被害者の犯人に対する処罰意思は刑事であり、双方の訴訟は似て非なるものである。被害回復がなされても、それに伴う賠償を得ても、基本的に刑事においては、その後の罰に多少の減刑こそ見込まれるものの、事実認定に何ら影響を及ぼすものではない。それを止める事が出来るのは大抵の場合、被害者の処罰意思の撤回だけである。
 被害者として罪を許せないと思うのは、大人だろうと子供だろうと
「当たり前じゃろー」
 先生は、周囲の雑音がざわめく中で、ショウタに被害者としての立ち位置を粘り強く説明し続けた。分かりやすいように、言葉を選ぶように話す先生の姿が、また少し真琴の脳を揺さぶる。俄かに声が大きくなり始めた外野が、ケンタの、
「しー」
 と言う声で、静まり返った。
「お巡りさんに捕まえてもらうか?」
 先生が念押しする横で
「どうするショウタ?」
 ケンタも改めてショウタに訊き直す。兄貴分として少なからず責任を感じているらしい。
「先生なら——」
 そのケンタがまた何事か口走りそうになるや、また先生がその背後から素早くケンタを羽交い締めにして口を塞いだ。
「おまえは黙っとけ」
「んーんー」
 早っ!
 動きこそコミカルで、周りも笑ったものだが、何か言いかけた人間の口を瞬間で封じるなど、実は反射に近い身のこなしを有していると言う事だ。一人水を被らされたような真琴の横で、悶絶しているケンタを前に、一方で野球盤を抱えているショウタは思いがけず注目を浴びてしまっており、その戸惑いで今にも泣きそうになっている。それでも先生は、周りに構わず泰然としており慌てない。
 するとショウタが半泣きで
「もういい」
 と口を開いた。
「分かった」
 子供なりに考え抜いたらしいその意思を聞き取った先生の、静かながらも揺るぎない返事が真摯な尊重を帯びる。合わせてまたケンタを捨てるように解放すると、
「でも後で、一応母ちゃんにも聞いてみような」
 一つの決断をしたショウタの頭を撫でた。「一人でよく考えたな」などと笑むその顔が、先を生きる者としてのあるべき教導を思わせる。
 何よ——
 しっかり先生をやっているではないか。
 つい引き込まれそうになるのを、内心で悪態を吐いては抵抗する真琴の前で、先生の言及は終わらない。そのままチンピラに、
「謝罪をされても、被害品を返して貰っても、お詫びの品を貰っても、本人は許すと言っても——」
 親権者の意思確認が終わっていない。
 先生は淡々とした口調で、さらりと突きつけた。
 親権者——。
 その法律用語を耳にした真琴が、また一人、密かに先生の素性を窺う。
 親権者とは、この場合ショウタの母親の事であり、つまりは法定代理人の事である。基本的に子供と親の関係性から見る法定代理人の位置づけとは、未成熟な思考を補充させる機能を有する法律で認められた代理人、となる。法律上本人になり代わり、つまり代理して法律行為を行う他、本人の行う法律行為について同意を与える、本人が保護者の同意を得ずに行った法律行為について、取消権や追認権を行使出来る、と言う権能を有する。
「あんたの処遇は、被害者に委ねられたままだと言う事をよく考えときなさいよ」
 真琴が、その口からどの程度の文言が出て来るか、様子を見ている中で先生は、
「恐喝の——」
 などと、更に後の句を用意しているらしかったが
「すげーじゃんか、先生よー」
 周囲は法手続きの機微に疎く、弁償が終わった様子に解決を見出したようだ。
「まずは胴上げじゃー」
 先刻、先生を脅し気味に勧誘していた、気合いの入った何かの青年部めいた鉢巻や襷掛けの怪しい連中が、いつの間やら肉薄しており、にやつきながら先生を取り囲み始める。
「え? 何ですこれ?」
 何か良からぬ事企んでんじゃあ、などと声を裏返らせる先生に、わざとらしく下卑た笑い声を冷ややかに上げ始める男達が、銘々その四肢を掴むと、
"わーっしょい!"
「ぎゃー!」
 際どい胴上げをし始めた。
 射的屋から少し離れた所で、情けない断末魔が周囲に響き渡る。
「不思議な人ですねぇ」
 しばらく様子を見ていた由美子が、家政士に戻って真琴に言うと
「そうなのよ」
 真琴はようやく我に返り、それまで吸い込まれるように録画していたスマートフォンに気づき、慌てて止めた。
「ホントに」
 言いながら、何となしに録画内容を確かめてみると、今目の前で繰り広げられている胴上げまで入っている。その情けない断末魔に思わず失笑する一方で、その思いがけない腹の据わりように、得も言われぬ箔を感じざるを得なかった。花火大会のトラブルの時もそうだったが、他人に圧を感じるなど真琴には殆ど覚えがない。
 ホント——
 何者なのか。
 おもちゃの銃とは言え、その構えと雰囲気は尋常ではなかった。ケンタと言う少年が言いかけた、元——に続く句は、元々の職業かキャリアを示す事に間違いないだろうが、それも先生の常人らしからぬ素早い動きによって封じられてしまっている。
 ライフルといえば軍人?
 すぐに思いつきやすいワードに思案を巡らすが、今となってはなされるがまま、厳つい何かの青年部連中に何故か胴上げをされている先生の悲鳴が滑稽過ぎて、どうも最後までそのイメージが結びつかない。何故か胴上げを止める条件に、
「青年部に入らんかい!」
 また脅迫めいた勧誘をされており、
「たしけてー」
 などと間抜けな声を上げている先生に、真琴は思わず噴き出した。
 確かに生活スタイルは、何処となくサバイバルめいた日常を送ってはいるが、その裏に見え隠れする人を引きつける妙な魅力は、高い社会性の現れでもあり、隔離された世界で活動する軍人のそれとは、どうしてもイメージが重ならない。
 ——ないない。
 勝手に頭を横に振って否定しては、社会性が求められる銃の専門家
 と言えば——警察官?
 とも思う。
 合わせて先生は、少し法的教養を思わせる物言いが散見されるのだ。梅雨時の事故の時も、花火大会の時もそうだ。妙に専門性を感じさせる言動を繋いでみれば、今日の事も含めて共通して言える事は、何れも警察沙汰になり得る、と言う事である。ただそれにしては、これは軍人でも共通して言える事だが、元の職業に対するプライドや匂いが
 全くないのよねぇ。
 この種の独特の職業に共通して言える事は、一昔前の言い方をすれば「三K」つまり、キツい、汚い、危険、と言う職務と言う事である。世界的には現代において、社会的身分もそこそこ高く、これらのOBは大抵在職期間に比例して、容易にやり遂げられないその職務従事者にありがちな凝り固まったプライドを有しているものだ。が、真琴がこれまで見聞きしたそれらの人種とこの男は、そのプライドと言う一点において決定的な違いがあった。言動に全く偉ぶったところがなければ、外見的にも
「反り腰」じゃないのよね。
 と言う事実は、大きな否定材料になり得た。軍事組織に従事経験を有する者は、総じて反り腰が抜けないものだ。見栄えが良く型を重んじる組織柄、美しい反り腰の「気をつけ」は基本中の基本であり、体に仕込まれた所作は退官後もその癖が抜けない。のだが、先生にはそうした
 シャチホコ張ったところが——
 皆無、と言って良かった。
 武芸に嗜みを有する真琴の目から見ても、姿勢は常に無理の少ない自然体に近い。つまりは常時臨戦態勢、と言い換える事も出来る。この姿勢を見るだけで、心得がある者ならばもしやと思うものだが、だからと言って先生には、そうした厳つさもまた縁遠い。
 苦し紛れに、射的の上手さだけを捉えて
 そうか、クレー射撃——
 の経験者か、などと思考を巡らすが、それだと法的教養の理由がつかない。
 ——そうか。
 大学が法学部で射撃部だった、と言う線は中々捉えてはいないか、などと推測するが、
 いや、そんなに賢そうには——
 目下胴上げで悲鳴を上げているその間抜けそうな様子が、どうしてもそうしたクレバーさを阻害する。
 最後に残った可能性は、
 ロークラークか。
 たった三件と言う電話帳登録のうちの一件である、大家の顧問弁護士を手伝っているのではないか。先生は否定したが、それならば、様々な案件を扱う事で法的知識を積む事が出来る。
 それよりも——
 それに加えて気になったのは、先生の左手首にある
 あの時計——
 だった。
 花火の時にもつけていたそれは、漆黒の地に鮮やかな深紅が映える物で、穏やかな先生が身につけるには少し武骨な印象が否めない。が、どうしてどうして、射的の時の只ならぬ様子には、実によくマッチしたものだった。それと言うのは、世界的な国内メーカーが誇る特注品である。タフソーラー電池に充電式電池機能も有し、電池交換不要ながらデジタルアナログ兼用の文字盤は頑強さで知られ、スマートフォンとも連携可能。GNSS、地図表示、位置情報、気象予測、バイタルチェック、録音機能等々上げれば切りがないと言うハイスペックなものだ。防水防圧防塵対衝撃仕様にして軍用品を上回るタフさは、深海以外なら何処でも耐え得ると言われ、派手さはないが普段使いするには明らかに高性能過ぎてその機能が活かし切れない。極限状況下での仕様を目論んだ多機能振りから、スパイが欲しがる逸品として、コレクターの間では世界的なスパイ映画の主人公の名前が冠される程である。
 可愛らしい、と言うフレーズに乏しいこの女傑は、嗜好の一端からも裏づけられたもので、時間に縛られせせこましく働かされる身の真琴は、時計をアクセサリーと見なしていなかった。それに関しては、常々機能性重視で信用の高い物を求めるその女傑が持っている物は、先生がつけている物の廉価版の汎用モデルであった。本当は先生のモデルが欲しかったのだが、単に買えなかったのだ。理由は値段と予約待ちである。値段は軽く五〇〇万を超えると言う中々出鱈目な物で、それでも値段は飲み込めたとて、予約は数年待ちと言う中々呆れた人気振りだったのだ。完全受注生産の特注品は、所謂限定モデルであり製造総数が限られる上、不定期的な予約受付と言う事も相まって、せっかちな真琴は諦めざるを得なかった訳だ。実家の権能を使えばどうと言う事はないのだが、それを良しとしない真琴なのだからどうしようにもない。
 それを——
 先生が何の気なしにつけている。見る者が見れば、垂涎物の高規格時計であるそれは、先生の普段の飾り気のなさからすると、チグハグのレベルを明らかに逸脱していた。
 どうやって——
 手に入れたものなのか。それを尋ねたい気もするのだが、先生に見合わない高価値であるそれを確かめる事は、あの男に限ってそれはない、と思う一方で、耳目にしたくないものを見聞きする事になるかも知れず、真琴をためらわせたものだった。それ程までに、先生が普段使いするには、余りにもかけ離れた逸品だ。
 そんなところまで意外にも
 ——程がある。
 真琴がぼんやり考え込む中、
「ねぇ、景品を動かすの手伝ってよ」
 ケンタが寄って来て、真琴と由美子の袖を引いた。
 この子に聞けば——。
 咄嗟に思った真琴だが、殆ど自分自身の都合でお互いの素性を伏せているようなものである。そう考えるとそれは、
 やっぱり——
 公正とは言い難い。ケンタから聞き出す案は、自分の中で逡巡の末、却下されてしまう。結局ケンタに言われるまま、レジャーシートに盛られた射的の景品を、由美子とケンタとショウタの四人で、それぞれシートの端を持って会場の端へ移動した。
 一人の男に脳裏が囚われるなど「いつ以来か」と言う真琴は、先生が獲得した山のような景品を、シートの片隅を把持してよちよち歩きで運ぶ。お面を被り、浴衣で使役するなど、普段の真琴からは到底有り得ないその様を客観視するゆとりもなく、真琴は脳裏で先生の正体を巡らし続けた。
「さて、」
 その先生が蹂躙される一方で、射的屋はその腰が浮つき始めている。このどさくさに紛れ、ややもすれば店仕舞いして逃げるかも知れない。景品を避難させた今、恐らくこの場で先生の意向を引き継げるのは、
 ——私だけ、かな。
 のようだ。
 目の端で、バカな胴上げに興じている男衆を見ながらも真琴は、
「ちょっと後始末してくるわ」
 由美子に子供達のつき添いを任せると、相変わらずの半狐面姿のまま、射的屋に向かった。

 具衛が有り得ない回数の胴上げで腰砕けになりながらも景品の避難先へ戻ると、ケンタがレジャーシートの上に景品を並べていた。その横でショウタは、相変わらず野球盤を離そうとせずニコニコしており、仮名とユミさんが腰を屈めて物珍しそうに景品を一つひとつ検分している。
「あら、お帰りなさい」
 ユミさんが具衛に気づき顔を上げると
「一生分胴上げされたんじゃない?」
 仮名も顔を上げ、口元で笑みを浮かべた。
「そ、そうですね。もう胴上げはいいかな」
 具衛が力なく漏らすと、仮名が小さく噴き出す。
「全部で六〇個あったよ」
 具衛が戻るなり、景品を並べていたケンタが数を報告した。
「六〇個かぁ」
 いや我ながら、などと具衛が独り言ちると
「取るも取ったりね」
 仮名は呆れた様子で溜息を吐く。
「まあ、昔遊びセットですって」
 そんな周囲の声を意に介さず、ユミさんがマイペースで
「懐かしい」
 中物レベルの景品の中から、面子やベーゴマなどが入った箱を手に取った。
「今時の子達に使い方が分かるかしら。今時のおもちゃはよく分からないけど」
 ユミさんが仮名に手渡す。
「あら懐かし」
「懐かしい?」
 面子やベーゴマ遊びと言えばその起源は古く、両方とも平安時代まで遡る。もっとも現代風の紙面子、鉄ベーゴマになったのは近代に入ってからであるが、文字通り幾時代を跨ぎ、長く子供達に受け継がれた遊びである。戦後の高度経済成長期ともなると、次々と新しいおもちゃが世を席巻し始め、流石に代表的な遊戯の座を明け渡したが、昭和五〇年代まではその技を競って子供達が遊ぶ光景が見られたものだ。逆にそれ以降は、ゲームウォッチに始まるコンピューターゲーム時代の幕開けであり、面子やベーゴマなどはそれ自体を見つける事すら中々敵わなくなる。それを一見アラサーの仮名の口から「懐かしい」と漏れるなど、時代錯誤も良いところである。
「一昔前の遊びに馴染みが?」
 具衛が思わせ振りな口振りで疑問を呈した様子を敏感に察したのか、
「お婆ちゃんに教えてもらった事があるのよ」
 仮名は口を歪めた。
「年を勘繰ろうとしないの」
 その様子が、半狐面をしている筈であるのに、やはり何処か絵になり胸に去来するものがある。具衛はついたじろいでしまうと、仮名は得意気に一つ鼻を鳴らして見せた。
 くそー。
 いつまで経っても、見た目のポージングが一々目について敵わない。
「しかし、この景品どうするの?」
 が、優位性を取り戻した仮名は、そんな具衛に構わず、さっさと話題を次に転じた。
「そうですねぇ——」
「考えてなかったの?」
「ええ」
 その射的屋を一瞥すると、
「不届き者を懲らしめる事しか頭になかったもので」
 周囲の屋台が景気良さそうに勢いづく中で、細々と営業を続けている。
「一応、あなたの撃ち残したコルクは、近くにいた子供達に譲ったわ」
 合わせて射的屋と盆踊り本部の仲立ちに入り、母親に対する落とし所をまとめた事を、仮名は報告し始めた。
「早いですね」
「あなた達が呆けている時間があれば、まあこのぐらいはね」
 随分な嫌味を言った仮名だったが、その采配は確かに、それ相応のものだった。
 会場内には他に射的屋がなく、それなりに子供達の需要がある事。
 あれ程の騒ぎを起こしていれば、少なくともこの祭りでは、もう悪さはしないと思われる事。
 被害者の母親の意見を聞く前に射的屋をこの会場から締め出すのは、後の展開を考えれば労が嵩むばかりである事。
 元来薄利の商売を続ける屋台など中々なく、子供達の需要を考慮すると、これを機に恩を売っておく方が得策ではないか。
「——と言う事で」
 被害者自身も処罰を望んでいない事を鑑み、罰を与えるよりは実を得た方が得策である旨で話をまとめれば良いのでは。と、言う示唆を伝えたらしい。
「これで良かったかしら?」
「はい。充分です」
 具衛は実のところ、懲らしめるだけ懲らしめて、刑事罰まで取るつもりはなかった。刑事罰は、文字通り刑事的な罰を獲得するだけだからである。被害者がその意義と価値をよく理解出来ないのであれば、時と労ばかりかけた上、慣れない事だらけであり、その果てにそれを得たとしても、結局疲れるばかりで実は辛い事の方が多かったりもする。被害者が無念を晴らす向きも当然あるが、突き詰めれば法治国家を謳う国が体裁を維持するためでもあったりするのだ。だから犯人に対する恨み辛みが然程のものでないのであれば、一個人が無理にそれにつき合う事もない。
「あの僕なら、おもちゃを沢山貰える方が嬉しいと思ってね」
 被害者側が犯人に対して処罰を求めない事で溜飲を下げる事が出来るのであれば、その場で手っ取り早く実のある弁償を得る方が、本人としても犯人としても、実は実のある即決だったりする。ただ、それで忘れてはいけない事は、被害者が理解出来るまでの説明と精神的フォローである。
「その辺は大丈夫——か」
 仮名は心配する向きを示そうとしたが、すぐに止めた。母子施設には大抵臨床心理士が在職しているもので、具衛の施設にも常勤している。また法務的な事は、大家であり施設理事長でもあるその人お抱えのフットワークの軽い顧問弁護士もいる。これまで具衛が話して来た事を覚えていれば、仮名が口にしそうになった懸念はあえて確かめるまでもなく、事実仮名は確かめなかった。その辺りも含めて、
 ——やはり、聡い。
 具衛は改めて、仮名が只のお嬢様ではない事を突きつけられた思いがした。
「あの若い子が先走ったらしいわよ」
 仮名の辣腕の片鱗はまだまだ続く。
「やっぱりですか」
 本部詰めの関係者の話では、射的屋は毎年来ている常連屋台のようで、これまでは、あこぎな商売をするような店ではなかったらしい。
「まあ、ちょっとよれたコルクと銃を使い回していた、事ぐらいですか」
「あの屋台だと利益率はシビアだろうし、まぁ分からないでもないけど」
 それはそれ、これはこれ、と言う事で、それをネタに更にお詫びの印を追加させたらしい。
「それは良かったですね」
「立件されないんだから、これぐらいは当然よ」
 示談金、と言われるそれは、世の人々が想像する以上に実は高額だったりする。恐喝罪の示談金であれば、
「軽く見積もって数十万、ですか?」
 は、固いのが実情だ。
 後程、盆踊り実行委員会本部を通じて、ショウタ宛てに、射的屋から一万円クラスのドローンが追加で贈られ、母親もそれにより溜飲を下げたのは、また別の話である。
「店主が一人で切り盛りして来たらしいけど加齢で疲れて、この度臨時雇いした子がいきなりあれで——」
「そうでしたか」
 同情の余地はあるようだった。
 が、それでも汲むべき事情こそあれ、それをもって店側の落ち度が許されるべきではない。悪徳業者や悪事を働く者に対する懲罰は、国内においては基本的に、第一次捜査権を有する警察の仕事であり、ひいては国家の役目である。立ち直る立ち直らないは本人の資質であるし、立ち直らない場合は再び他者に対する脅威とも成り得る可能性を秘める訳だが、そこは一般的な一被害者が巡らすべき範疇を明らかに超えている。ここで司直に委ねなければ、
「再犯に及ぶかしら?」
 の可能性は強い。
「さあ。後は——」
 本人次第であり、将来的に被害者に成り得る予備軍の意識次第であり、ひいては周辺を取り巻く環境、更に言えば社会構造が影響を及ぼす。被害者は事に決を見出したなら、これを糧に自らを律すれば良い、
「——ですかね」
「ふーん」
 と言いながらも、仮名の声色は何処か挑発的だ。
「じゃあ、ゲーム機を貰わなかったのは?」
「何の問答ですか?」
 明らかに何か探られている様子に苦笑いする具衛だが、とりあえず
「そう言う事もありますよ」
と、最後につけ加えてやった。
 示談金をせしめるのならば、例え相場が分かっているとしても、そこはきちんと弁護士を介した専門家の説得力をもって獲得するべきである。その資格を持たない具衛が、これで下手にお礼でも貰おうものなら、弁護士法に言われる「非弁行為」つまり、弁護士にしか認められていない、報酬を得る事を目的とした示談行為の代理と捉えられ兼ねない。
「まぁ、報酬を得るつもりは更々ありませんけど——」
 つまり、報酬さえ得なければ示談の代理をしても法には触れないのであるが、何にしてもとにかく具衛に言わせてみれば、犯人の短絡的犯行と言い、ショウタや周りの大人と言い、一切合切が迂闊だった。
「——こう言っては、被害者にしてみれば傷口に塩のようなものですが」
 今日日は何かと、防犯的な生活が求められる時代なのだ。
「盗人にも三分の理って事?」
 かと言って今日日には、ややそぐわなくなって来たその古めかしい格言を具衛が吐く直前、仮名がその見た目にそぐわないそれを思いがけずも持ち出した。
 渋い!
 と言っては、また何か何処かの地雷に触れる事を恐れた具衛が、瞬間で
「——まさに」
 と言い変え追認する。その渋い格言は、この場に置ける具衛の意を殆ど汲み取ったもので、まさに言い得て妙だった。
 非は圧倒的に罪人にあるのだが、被害者にもその原因はある、と言う事である。人間は理性があるとは言え、欲深く雑念多き知的生命体なのだ。絶対善が存在し得ないのならば、絶対悪も存在し得ない。
「ケースバイケースですが、不相応の利権を行使する今日日のやり方は、私はどうも」
 物事にはそれなりに落とし所がある、と言う事だ。徹底的にやり込めてしまうと、後に残るのは怨念である。
「排他性の弊害、としたものかしら?」
「結果至上主義、とも言えます」
 辿れば原因はいくらでもあるのだ。
 それを結果が発生した部分だけ咎めていては、いつまで経っても根本的な問題は解決しない。そうした匙加減が、仮名の采配は中々巧妙だった事に、具衛はまた驚いたものだった。
 本当に、
 何者——
 なのか。
 ふと気にはなったが、まあこの女傑の事である。見た目に違わず、明晰な才知を保有する事など意外でもなんでもなく、むしろ当然めいている。それよりも、よくよく考えると、大変なセレブのようでいて、実は庶民の汲むべき事情に意外に理解がある事にこそ、驚いて然るべき事情がある事に気づいた。
 意外に庶民派?
 とは、どう言う事なのか。
 バスに乗った事がなかったり、屋台でスマホ決済しようとしていた筈だったと言うのに。その分かりやすい見た目や体裁に惑わされ、侮る向きがあった自分の何と傲慢な事か。これまでの朧気な、屈強なお嬢様像が少しずつ瓦解して行く。その後に残るものは何なのか。残るものが存在し得るのか。具衛はまた、ふと気になり始めた。が、目でその姿を撫で始めると、
 ——いかんいかん。
 その想像はその容貌故、どうしても何処かしら艶かしくなりがちであり、出ている所やくびれている所など、ろくな所に目が行かない。考えれば考えるだけ、男の悲しい性を痛感させられると言う愚かしさに、勝手に一人で呆れた具衛は、とりあえずそれを無理矢理畳んだ。
 まずは何にせよ、
「まぁ、子供達の楽しみをそれなりに果たしてくれる程度には、営業して欲しいですね」
 細やかな祈りめいたものを口にしてみる。
「——それよ! それ!」
 何の気なしに呟いた具衛は、それに噛みつくように食いついて来た仮名に驚き
「な、何です? 急に?」
 急接近して来た半狐面に、思わずたじろぎ盛大に仰け反った。つい今し方、悟られぬようその肢体を目で撫でていただけに非常にばつが悪い。が、仮名は一向に構わず、少し興奮気味に追いすがった。
「景品のおもちゃの使い道よ! 考えがないんだったら、私に預けてくれないかしら!?

 小一時間後。
「じゃあ、そろそろ始めようと思います」
 などと、相変わらず半狐面の仮名が、声を張りながら何度か手を叩いた。その挙動で、その前に陣取る数十人を数える大小様々な人々が粛然とする。
 学校の先生みたいだ。
 その堂々と振舞う様子を、すっかり膨れ上がった仮設屋台の角で、具衛がユミさんと並んで眺めていた。仮名が企画した射的の景品を元手とした昔遊び大会である。それを閃いた後の仮名の采配は、一言で実に手慣れていた。
 具衛に噛みついた直後から、仮名が
「先生は会場作り、ケンタ君は触れ込み、ユミさんと私は指導員ね」
 などと、てきぱき仕切り始めると、一〇分もしないうちに、面子、ベーゴマ、おはじきの即席遊技場が出来始めた。仮名の指示の下、具衛が屋台を巡り、余り物の中華鍋や段ボールを集めて作った遊技場に、ケンタの触れ込みで子供達が集まり始めると、仮名やユミさんが指導を始める。
 ——って、指導?
 出来るのか。思わず不審感を募らせた具衛だったが、ベーゴマを手に、
「ねーこれどうやって巻くん?」
 と、紐の巻き方が分からない子や、
「ねーうまくひっくりかえらん」
 と、面子を手に持て余している子に対して、常日頃せっかちで一見冷たい印象すら帯びる仮名は、いきなり見せつけたものだ。
「はいはい、なぁに?」
 などと、子供達を優しく諭しているその別人めいた変わりように、見たこともない母性愛のようなものを見せつけられた具衛は、
 ——何だその反則技は。
 物の見事に盛大な不意打ちを喰らい、まずは只ならぬ動揺をさせられたものだった。
 その一方で仮名は、
「こうやって、紐のこぶをコマの先に絡めて——」
 事もなげに、器用にベーコマに紐を巻きつけ、勢い良く中華鍋の中に向かってベーゴマを投げ入れる。すると鉄鍋の中で、如何にもブレのない回転軸を保持して回るベーゴマを目の当たりにした子供達が、
"おおーっ!"
 揃って歓声を上げた。
「投げる時に、掌が上を向かないようにするの。地面と平行に。手首を使わずに前後に振るのよ」
 そう言いながらも、続いて仮名は既に面子を手にしている。今度は素早くそれを、平たく畳まれた段ボールの上に置かれた二枚の面子の近くに、然も手慣れた様子で振りかぶって叩きつけると、その風圧で置かれていた面子が二枚共同時にひっくり返るではないか。
"すげー!"
「手投げじゃだめよ。野球のボールを投げる時みたいに、腰を入れて手首を効かせるのがコツ」
 分かったら練習練習、などと手を叩いて囃し立てる仮名の平生を知る具衛は、
 はぁ——。
 子供達と同じように感心しては、思わず半分放心した。日頃、何処か油断ならないクールビューティーが母性愛もそうだが、
 面子とベーゴマって——
 意外にも程がある。しかも、子供と楽しそうに交流しているその様子が、余りにも普段の印象とかけ離れおり、
 ——聞いてないんだけど。
 胸を鷲掴みにされたような思いで呆然と立ち尽くしていると、
「先生、ちょっと」
 その仮名に呼ばれた。
 ——あ。
 その声にようやく我に返り、手を止めてぼんやりしているのを、それこそ学校の先生から注意されて呼ばれたように殊勝気に寄ると、
「ちょっとこの紐を水で洗って来て」
 忙しそうに、ベーゴマの紐を突きつけられた。
「洗う? 紐を?」
 何の意図か、思わず返事の語尾が上がると
「新しい紐は糊が効いてて、固くて巻き辛いのよ」
 また妙に手慣れたような事を言いつけられてしまい、
 ——この女傑が?
 こんな遊び道具に気を回すのか、と動揺そのままに戸惑いを滲ませてしまった。
「はぁ」
 そんな具衛が、思わず間抜けな声を出すと、
「ほら、早く行った行った」
 と、けしかけられたものだ。
「じゃぶじゃぶ洗うんじゃないわよ、糊が落ちる程度でいいから」
「加減が難しいですね」
「分かったら行きなさいって」
 忙しくなるわよ、と言った本人は、その言葉尻を捉えられるように、あっと言う前に何人かの子供に裾を掴まれている。
 いや、あんたは——
 そんなではない筈だ。
 半狐面越しだが、明らかに普段と異なる幼子に合わせた丸みを帯びた声と、柔らかい所作が具衛の脳を激しく揺さ振る。が、その後、ケンタの触れ込みが度を過ぎたのか、子供達の数と共に、何やら腕に覚えのある大人も集まり始めると、会場が手狭になり始めそれどころではなくなった。すると仮名は仕切り慣れたもので、具衛には会場の増設を指示し、子供達に対するレクチャーは、集まって来た腕に覚えのある大人達に任せると、自分は
「ちょっとまた、本部に顔出して来るから」
 と、また一人、盆踊り実行委員会本部へ出掛けて行った。
「えーでは、開催に当たりまして、盆踊り実行委員会様からご挨拶を賜りたいと思います」
 で、現状である。
「まーしかし」
「大所帯になっちゃいましたね」
 一応格好としては、会場内の空いているスペースを使った仮設屋台なのだが、人の集まり方は中々のものとなった。その角で、具衛とユミさんが呆れ気味に苦笑いをする。すっかり大所帯になったその理由は至極シンプルで、仮名が人の集まり方を見るなり、実行委員会本部に掛け合い景品を出資させたのだ。射的屋の悪事絡みで、すっかりその手腕が買われていた仮名は「キツネさん」の通称で、すっかり本部連中を虜にしてしまっていた。で、あれよあれよと言う間にテントや長机、椅子などが備えつけられ、事の大元となった射的屋からも追加の景品や何かの特典めいたものが提供されると、実行委員会公認の無料屋台となるまで然程時間はかからなかった、と、言う訳である。
 盆踊り実行委員会の何らかの役を担っているおじさんが、月並みな挨拶を済ませて拍手が起こると「キツネさん」の仮名が、
「では、開会に際しましてルールを説明します」
 などと、真面目腐って何やら公式ルールめいた説明をしているのが如何にも滑稽に写り、具衛が不自然に俯く。何処かしら、学校の運動会のような開会式が思いがけず懐かしく、それを仕切っているのが半狐面を被った真面目腐った美女と来たものだから、そのチグハグ振りに、つい失笑が漏れてしまった。
 しばらくその微笑ましい光景を、何かが迫り上がる喉を堪えつつぼんやり眺めていると、俄かに会場のそこかしこで歓声が上がり始めた。大会が始まったようである。
「大人やお年寄りが混ざると、子供達の取り分が少なくなるのが気がかりですね」
 今更ながらにそれに気づいた具衛が口を挟んだ。つまりは始まるまで、思考が停止していた。次々に繰り広げられる「仮名劇場」に圧倒され、言葉を失っていたのだ。が、やはり薄く笑んでいたユミさんは、
「大丈夫でしょう」
 事もなげに言った。
 事実として具衛の懸念通り、それなりのキャリアを持つ大人を前に、子供達が太刀打ち出来ていない様子なのだが、
「大人が勝ちそうになったら、仮名さんが出て来て掻っ攫うでしょう」
「そんなに強いんですか?」
「強いなんてもんでは——」
 それを心配する向きなど露程も見せない調子で、ユミさんはまたあっさり答えた。言ったそばから
「うわ、キツネのお姉さん強っ!」
「まだまだ、こんなもんじゃありませんわよー」
 おーほほほほーっ、などと盆踊りの音頭をバックミュージックに、文字通り老若男女が面子とベーゴマで真剣勝負を繰り広げる中、一際目立つのは中高年層の悲鳴と仮名の得意気な声だ。果たしてユミさんの言う通り、その後の場は、大人が勝ちそうになると仮名がしゃしゃり出て来て景品を掻っ攫い続けた。で、その仮名が獲得した景品は、と言うと、
「じゃーんけーん——」
 その仮名がまた、普段のイメージを破壊的に崩す勢いで大声を張り上げて音頭を取り、新たに子供参加限定の景品争奪じゃんけん大会が始まる、と言った具合である。
「なるほど。しかしイメージと合わないと言うか——」
 具衛が素直に戸惑いを示すと
「まあ、珍しいですよね。男の子の遊びですし」
 ユミさんはあっさり同調する。
「でも、子供達が楽しそうで。——良かったです」
 人嫌い、と言って憚らなかった仮名が子供に寄り添う姿は、常日頃の雰囲気からすると到底想像出来ず、最初のうちは戸惑ったものだが、今となっては眩しさでしかない。
「そのようですね」
「まさに白狐(びゃっこ)です」
 半狐面から女狐を連想した具衛は、勝手に想像し苦笑した。仮名が被った狐の面の色は白色、それは即ち白狐を示す。
「それはつまり、女狐?」
 ユミさんが悪戯っぽく笑うと、
「いえ、神様です」
 具衛は両手を合わせて、拝んで見せた。
 神格化された狐であるそれは、土地に恵みをもたらす有難い神として、実は身近に信仰されていたりする。その白狐が子供達の夢や希望を育む、と言うイメージは想像に無理がなく、口にしただけの具衛ですら、不思議と何処か癒されてしまう。それは、他ならぬ仮名の善性がもたらす癒しだった。
 が、実のところ狐は、現代では田畑や家畜を荒らすと言われ、更に人畜共通の感染症を引き起こす「エコノキックス」なる怖い寄生虫を媒介するなど、農業関係者には余りお呼びでない厄介者とされている。
「近隣の農家の方も、戦々恐々としておられるものですが——」
 その一方で、古くは正反対の考え方だった。農期が始まる春先に里に現れては、農業の大敵である厄介者の鼠を退治してくれ、秋の収穫が終わる頃に山へ戻って行く。その行動パターンが、まるで農耕を見守るようであり、それがいつしか神格化されたのだ。
「昔は守り神だったそうです」
「まあ。お詳しいんですねぇ」
「近隣農家の方の受け売りですよ」
 その神格化された狐は霊狐(れいこ)と呼ばれ、人間に災いをもたらす野狐(やこ)に対し、幸をもたらす善狐(ぜんこ)と称されたが、本来善狐は透明であり、人には見えない存在であったのをいつしか
「白色で表すようになって——」
 以来白狐と呼ばれる。田畑を守る白狐をいつしか人々は、古事記にも登場する五穀豊穣を司る女神「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」の眷属として祀るようになった、と言うのが、日本全国に祀られるお稲荷さんの御前に鎮座する狐の正体である。
「狐がお稲荷さんなんじゃないんですか?」
「ええ。この町の農家の方から聞くまでは、実は私も——」
 日本書紀では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されるこの五穀豊穣を司る女神こそが、お稲荷さんの愛称で世の人々に親しまれ、崇め奉られている「稲荷大明神」なのであって、白狐はその眷属、つまりは
「お傍仕えの神なんだそうでして」
 勘違いは、具衛やユミさんに限らないだろう。しかしながら、人に幸をもたらすとされる五穀豊穣の女神の使いであると言う位置づけは、
「十分に有り難いですよ」
 崇め奉るに相応しい対象である事に何ら変わりはない。
 因みに狐は雑食であり、好物と位置づけられる油揚げも実際に食べる。
「そうなんですか?」
「ええ」
 この由来については、神格化された狐を崇める人々のうち、好んで鼠を食べてくれる狐のその巣穴の前に、
「鼠の油揚げを置いていた人達がいたそうで——」
 その習慣が一部の地域で存在した事を発端とする説が有力だ。なぜ狐に与える鼠を揚げたのか、その理由はよく分かっていない。この習わし通り、お稲荷さんにも鼠の油揚げを供物していたところ、仏教的な殺生忌避の観点から鼠の揚げ物ではなく、代わりに薄切りにした豆腐の油揚げをお供えするようになったとかで、それが好物として伝わり今に至るようだ。神事に仏事の教えが交わると言う、他国の他宗教からすると中々考えにくい事であるが、これは
「寛容的な日本らしい逸話ですこと」
 その良い例と言えるだろう。
 ではなぜ、鼠の代わりが豆腐の油揚げとなったのか。これはやはり諸説入り乱れており、鼠の肉に代わる畑の肉であるとか、白狐を使わしてくだされたお稲荷さんに感謝して五穀を供物していたのが、そのうち豆の加工品である油揚げに変わった等々。何にしてもこの変遷が、油揚げで包む食べ物の事を「稲荷」と呼ぶようになった経緯のようである。
「まあまあ。『コーン』なんて言って——」
 両手で狐の耳真似をして見せながら、子供達と一緒になってはしゃいでいる仮名の様子に、梅雨時の事故の日、それをして一緒に稲荷寿司を食べた時の事を思い出す具衛だ。
 俺なんかより——
 そうした仕種がよく似合うのは、やはりいくら女傑然としていても、そこは女性特有の丸みと言うべきだろう。面子やベーゴマの強さのイメージギャップとは打って変わって、そうした仮名は無理なく本人と重なって見えた。
 あんなに——
 無邪気に笑っているのを見るのは、そう言えば初めてだ。そう思うと、口元しか見えない事が妙に悔やまれた。目を細めて笑う顔を想像すると、何やら胸が苦しくなり、ただでも暑いのに更に身体が火照り始める。
 ——まずい。
 まるで、白狐に誘惑されているようだ。
 ——あ。
 よくよく思い出すと、白狐と神社と言えば、山小屋の前にある神社は、お稲荷さんを祀っていたのではなかったか。神社の扁額に「稲荷」の文字は刻まれてはいないが、鳥居の傍に神使の白狐がおわしたような気がするのを今更ながらに思い出す。
 まさか——
 今までの有り得ない出会いとその展開は、お稲荷さんが独り身の男を哀れんで白狐さんを使わされたのではないか、とさえ思えて来る。しかし具衛は、敬虔な信仰心を持ち合わせてなどいない。かと言って、罰を受けるような事は、神仏に対してはした事はない。では人生においては、確かに絶対善では有り得なかったが、だからと言って悪ではなかった筈だ。そうなって来ると、あの白狐さんは何かの悪戯か、気紛れか、と言う気がして来る。日頃、何処となしに感じる寂然とした雰囲気やシャープな印象は、実は神のそれなのではないか。先刻、冗談紛いに両手を合わせた自分の行動でさえ、何らかの示唆なのではないか。お狐様なら変身は得意だろうし、人を謀る事にかけては、古今東西逸話に尽きないではないか。事実、実行委員会の連中は、すっかり籠絡されてしまっている。
「いやいやいやいや——」
 逸話などと、と具衛は慌ててそれを自分で否定した。それこそ昔話なら許容出来ても、今は一体何世紀だ。具衛が思わず声に出して頭を横に振ると、
「どうかしましたか?」
 隣のユミさんが訝しんで、その具衛の顔を覗き込んだ。
「いや、特に」
 少しばつが悪そうに言葉を濁した具衛は、ユミさんの顔をも直視出来ず、思わず目を泳がせた。所謂類友としたものか、仮名の知人は知人で、やはり人として豊かな心身を保有しており、近過ぎると目を合わせられない。
「まぁ——」
 ユミさんは、戸惑う具衛の心境の一部は捉えているようで、
「あんなにはしゃいでいる姿は、見た事がありません」
 仮名の常にない様子を追認した。
「それは、良かったです」
 具衛は、日頃仮名が具衛に向けてよく発するフレーズを、偶然にも口にする。仮名が使う時のイメージは、総じていつも何処となく上から目線であり、事実そうした確固たる地位を占めている人種である事は最早疑いようがなく、具衛も意に介していないのだが、それを口にする時の声の強弱に限らず、仮名はいつも少し嬉しそうで、少し目を細めたものだ。具衛は決して上から目線ではないが、気持ちとしては同感である。
「関わる人が楽しそうなのを見るのは、本当に嬉しいものですね」
 ユミさんは、感慨深そうに柔らかく口にした。
「さっきも、何か景品を一つ、そそくさと然も大事そうに巾着に納めてましたのよ」
 何であろうと、子供向けのおもちゃばかりであり、
「仮名さんのお目に適う物があったんですか?」
 具衛は素直に首を捻った。
 こう言ってはなんだが、追加された景品以外は、どれもこれも百均で買えるか、それに毛が生えたような物ばかりで、すぐに壊れそうな物が多かったような気がしたものだ。要するに、
「物に込められた思いは、必ずしもその物自体の価値と同じじゃありませんわ」
「——と、言う事ですか」
 はしゃいだり、安っぽいおもちゃに興味を示したり、具衛には
 ——意外。
 のオンパレードだった。
 それを感じたのか、
「あの人は、いつも表情が固くて冷たくて。誤解を受ける事ばかりで、本当に友と呼べる人がいないようですから」
 ユミさんが、少し訳あり顔で両方の口角を下げながら笑う。
「ユミさんがいるじゃないですか」
「私では、気晴らし程度しかつき合えませんわ」
 言うなりユミさんは深々と前に屈んだ。突然の仕草に具衛は、足元に何か落としたのかと思った。のだが、それにしては一定時間その美しい所作が維持される。それでようやく、自分に向けられたお辞儀である事に思い至ると、半狐面の鼻面辺りを伺うように中腰になった。
「あ、あの」
 慌てて頭を上げさせようと両肩を掴もうとするが、そうする相手が仮名程ではないにしても、やはり大層な淑女である事を思い出し、不格好にもその傍で両手が泳ぐ。
「どうしました?」
 こう言った時に、月並みな言葉しか持ち合わせない具衛は、改めて自己の薄っぺらさを痛感させられる中で、ユミさんがようやく頭を上げると
「あの御人を、どうか宜しくお願い致します」
 と言った。
 不格好な中腰のままそれを受けた具衛が、曖昧な母音を口にしながらも自然体に戻ると、ユミさんは
「あの御人にはいい加減、良き理解者が必要です」
 追い討ちし、逃げる事を許さない。
「良き理解者、ですか?」
 具衛は改めてお願いされた仮名を見ると、ちょうど勢い良くベーゴマを投げては子供達になり代わり、キャリアを持つ中高年を打ち負かして、きゃっきゃはしゃいでいた。女性としての高い資質もさる事ながら、地位も富も相当なものを持っていると思われる仮名なのだ。果たして、
 それが——
 必要なのか。
 男以上にさばさばした気質をも合わせ持つ仮名の中に、常々男以上の男らしさを見せつけられては、自身の不甲斐なさに打ちのめされ続けている情けない男の具衛である。その女傑に求められる自分の役割とは何なのか。
 一人で何役も兼ね備えている仮名にとってみれば、男も女もなく大抵の人間は愚かに見えて仕方がないだろう。事実、平和呆けした日本人観光客を見るのが嫌でバカンスにも行きたがらず、物好きにもこんな小さな町の盆踊りなんぞにやって来てはしゃいでいる、と言う偏屈者である。これでは理解者がいないと言うのも頷けようものだ。
「必要、なのですか?」
「はい。あなたが」
 幸か不幸かその偏屈者に、何故か手近に置かれる自分。癒しを求めるのと同時に、満たされない何かを埋めるために、山小屋に来ているのだとしたら。具衛にとってそれは一大事である。
 肉体的に満たされない部分など、言葉は悪いが金で何とでもなるような身分なのではないのか。もっとも、それを埋めようとする仕種など仮名は見せた事はないし、そう言う事を金で済ませるような人間には見えないのだが。そう思うと男と言うヤツは、それを平気でやるどうしようにもない連中が何と多い事か、と俄かに同族嫌悪に陥る。
 しかしユミさんは、具衛が勝手に膨らませていた考察に水を打った。
「運転手ですわ」
「運転手?」
 その予想を大きく外れる答えに具衛が語尾を上げると、ユミさんが数少ない女の子のために拵えたおはじき台の横にしゃがみ、傍に置いていた缶を手にして見せた。
「あ、それ」
 具衛が面子やベーゴマ台に使うビールケースを借りる時に、屋台から何本か買わされた缶ビールの三五〇mL缶である。買って来るなり具衛が、二人に飲んでもらうために手渡したものだが、既に口が空いており、いくらか飲まれている。それは別に良いのだが。
「これ、ノンアルコールみたいなんですよ」
「えっ!?
 具衛は慌ててユミさんが手にしている缶ビールを確かめた。確かに下の方に「アルコール度〇.〇〇%」の記載がある。具衛は酒を飲まない。飲もうと思えば飲めるのだが、普段全く飲まないため実は種類がよく分からないし、興味もなかった。近年のビールは、酒税法上の種類だけでも何種類もある上、各社から新商品が次々と発売され、一見してそれが税制上どのタイプのビールになるのか中々見分けが難しい。それが普段酒を嗜まないのであれば尚更だ。それでもノンアルコールとアルコール製品の別ぐらいは、見分けがついても
 ——良さそうなものだがなぁ。
 脳内で愚痴ったところで、まさに後の祭りである。その祭りの雑音や明暗、高揚感、開放感に伴う気の緩みなどによって、間違いは起きたようだ。更に言ってしまえば、この時の具衛などは、仮名の意外過ぎる母性愛にやられてしまっており舞い上がっていた、と言う事だった。
 具衛はノンアルコールビールと普通のビールを買っており、車の運転を控える仮名にはノンアルコールビールを、ユミさんには普通のビールを渡したつもりだったのだが。結果は実に、お約束めいたものである。
「まあ、私は別に良いのですけど」
 ユミさんが目で仮名の方を促すと、遠目にも仮名は景気良くはしゃいでいるようだった。
「あちゃー」
 具衛は片手で頭を掻いては、
「だからあんなに陽気だったのかぁ」
 情けない声を漏らしてそのまま天を仰ぐ。
「普段はあんなにはしゃぐような人じゃないんですが、いつになく楽しいのと、ビールで気持ち良くなっちゃったみたいですね」
 ユミさんは特に拘りなく、引き続き手にしているノンアルコールビールを口にしてみせた。
「まあ私は、これはこれで美味しいから良いのですが」
「はあ」
「因みに私は、ペーパードライバーですから」
 ユミさんから突き放された具衛は、当たるところもなく素直に嘆息する。
「白狐さん、盛り上がってるなあ」
 人数と言い活気と言い、他の屋台以上に盛り上がっている即席屋台の中心で、ビールに勢いづいたらしい仮名は、相変わらず愉快痛快としたものだった。
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